それは、とても大切なもの―――
よみがえる記憶は温かく、幸せなものだった。
胸に灯る温もりに手を当て、閉じていた目を開くと昔と変わらぬ姿の愛しい人の姿。
私は少し形を変えたけれど、溢れる気持ちはあの頃のまま変わらない。
「ギィ…あなただったのね。私は、ずっとあなたを捜していたのね」
青い空を、堅く大きな町並みの中を、いるはずもない黒い竜を、ずっと心は探していた。
きっと自分の知らない時、知らない場所でもそうだったのだろう。
懐かしいと思ったのも、
寂しいと思ったのも。
今ようやく見つけて、見つけられた。
だから怖くなかったのだ。
私は受け入れたんだ。呪いをうける事が、彼を見つけた証なのだから。
伝わるように顔を抱きよせ額を合わせる。そして大きな手に唇を寄せる。
「ギィもずっと捜してくれていてありがとう。私の愛しい人。…でもギィはバカだよ…こんな身体になっちゃったら意味がないじゃない…っ」
「そう、言ってくれるのか、千陽…。逃げた我を…誓いを破った我を―――」
全てを聞く前に、開かない唇に唇を重ねた。
センリを死なせた負い目を抱えて私を探してくれていたのだろう。
だけど。
「勿論でしょ!だって私の記憶は、昔と変わらず喜んでいるんだから。…それに私だってギィの為になにもしてなかったんだよ。ギィ達の間に何かあるって知りながら、見ないふりをして楽な方へ、幸せな方へって逃げてた。おあいこ、でしょ?」
「千陽…」
嫌いになれる訳ないじゃないか。
昔も今も、ずっと私の事を考えてくれている、こんなに真っ直ぐな人を。
ギィは忘れて幸せになれと言ったけど、こんな気持ちを思い出してはそれは出来そうもない。私だって一度竜の嫁になったのだ。しつこいのはきっとうつったんだ。そう言うとギィはすまないと笑った。
まだまだときめく心臓の音を伝える為に力のない頭を抱く力を込めると、強風が私達の周りを囲む。
「―――おのれ…!貴様…!!まだこの人間の娘に情を寄せていたのか…!!」
そしてひと際大きく風が巻く音が聞こえ、風が草木を揺らしその間から金色の輝く竜が空から降りてきた。前に見たギィよりも一回り大きい竜。そして私達の夢の終りを告げた竜。その記憶に埋め込まれた圧倒的な恐怖に、ギィにすがりつく。
「竜王、か。我は言った筈だ。どれだけ時間が経とうとも、我はずっとセンリを…千陽だけを愛していると。それはこれからも変わらない」
「ふざけるな!貴様、竜としての誇りはどこへいった!何故人間なんかに!!」
聞き覚えのある、低くどす黒い声。それが今目の前に現われ、ギィと言い争っている。黄金の竜が喋る度にビリビリと身体が震える。だけど動けないギィの変わりに私が立ち向かわないと。振り返ろうと身体を離すとギィの身体から光の粒が溢れてくるのが目に入った。
「ねぇ…ギィ…?どうして、光ってる、の…?」
「我は役目を終えた。そなたの呪いを解く為だけに今まであった存在だ。もうそなたは自由だぞ」
「なん…で…?役目って何?なんで今そんな事言うのよ!!」
溢れる光は止まらない。眩しくて、ギィを見失いそうで背筋が粟立つ。
「―――ああ、ようやく我も眠る事が出来る。それが最後、千陽の腕の中でとはなんと幸せな事か」
「どういう…事…?」
「そのままの意味だ」
竜王と呼ばれた竜が大きな口に生える鋭い牙ををむき出しにし、グルルと唸り声を上げる。私の顔より大きい藍色の2つの瞳がこちらを睨みながら言い募った。
「こいつは力を使うのに足りない分、とうの昔に竜の身体を捨て、維持に回していた力と生命を削り続けたんだろう。―――貴様のせいで誇り高き竜が死ぬのだ」
「嘘…!だって…私を連れて飛んでくれた…!竜の姿で…っ!」
「姿を模す事くらい出来る。本体であれば、俺がその日のうちに貴様を見つけ、殺す事が出来たというのに!」
嘘だ。
目の前につきつけられる現実から逃れようと頭を振るが、痛いくらい突き刺さる視線に逸らす事は許されない。
どうして。
例え遠く離れてしまっても、ずっとどこか繋がっていられる事を胸に生きようとしていたのに、それさえもさせてくれないのか。
ギィは泣くなと言ったけれど、あとからあとから溢れてくる涙は止められない。
「千陽、ありがとう。我の名を呼んでくれて。随分と遅くなってしまってすまない。今度こそ幸せになってくれ。我の心からの望みだ」
「やだ…!やだよぉギィ!!死んじゃ嫌だよぉ!!」
泣きじゃくりながらギィにしがみつく。溢れる光は腕から零れ、空へと昇っていってしまう。
追いかけて手を握るもすり抜けて掴めない。
待って。行かないで。傍にいて。
色々言いた事が沢山あるのに、出てくるのは言葉にならない嗚咽と涙だけ。首を振るだけじゃ伝わらないのに。何の為に治して貰ったのか。
しゃくりあげる身体は思うようにギィの手を持てず、上手く唇が寄せられない。
「千陽、この8日間、我は幸せだった。そなたを死なせた我に許される事ではなかったのに。そなたに触れる事が出来、触れて貰えた。そして許して貰えた」
開かない目から雫がひとつ、零れた。
「…もう十分すぎる」
声が段々小さくなって、身体が消えていく。
震える唇でギィに伝える。
昔と今の全ての想いを。
―――ああ。我もだ、千陽。
そう言い残して私の前から光の粒となって消えていった。
太い木に寄りかかっていた彼の姿はどこにも見当たらない。
「ギィっ!!」
叫んでも応えてくれる人はいない。
その現実をむざむざと見せつける竜王と呼ばれた鋭い瞳の竜。今ここにいるのは私とその黄金の竜だけ。
黒く優しい竜ではない。
私の目の前にいる家一件よりも遥かに大きな竜は、その深い藍の瞳で鋭く私を睨みつけたまま動かない。グルルと威嚇される対象になった私は、初めてのその恐怖に座ったままピクリとも動けないでいた。
ギィに命をかけて救われた命が今、風前の灯となりかき消されようとしている。
そんな事はさせられない。涙を拭いて自分を叱咤し、のろのろと立ち上がり逃げる算段をしていると突然風が巻き起こり、木々をざわめかせた。
しばらくして風が止むとさっき竜がいた所に、腰までゆるくウェーブかかった金の髪をなびかせる男がいた。
「…人間、貴様は何故我々の邪魔をする?理を歪めて楽しいか?面白いのか?何も出来ない脆弱な生き物の分際で」
開いた距離を数歩で詰められ、長い爪を携えた大きな手が私を掴もうと伸ばされ頭上を覆う。するとバチッという音と共にその手は遠のいていった。恐る恐る見上げると手に擦り傷を作った男が忌々しそうに舌打ちをするのが見えた。
「ちっ。小賢しい。触れる事は許さん、と言う事か。死んでも優しい男だなぁ?」
それはきっとギィが私の身の安全の為にしてくれたんだろう。いなくなっても私に危害がないようしてくれたという事に嬉しくなった。
私はここで死んではいけない。
この人に殺されるわけにはいかないんだ。
きっともうすぐあっちに戻る。それまで逃げないといけない。私は地面の砂を手に取り竜王に目がけて投げた。
「っ」
顔に当り、少しひるんだ隙に森へ逃げ込もうとしたが、すぐに足がもつれ何かが絡んだかのように顔を地面に押さえつけられた。
「…あんな事で俺を出しぬけると思ったのか?面白いな、人間。舐めるなよ。俺は竜王だ。竜を統べる王。ギィよりもはるかに生き、力もある。それに、俺に乞わなければあちらには帰れんぞ?」
「え…?」
「ギィがいない今、どうしてここにいるかとは思わないのか?」
地面に縫いつけられた私の上を跨ぎ、左手を顔の横に着いて耳元で囁いてきた。ちらりと見やれば、にぃ、と口の端を上げて笑う竜王の藍色の瞳とかち合った。
それは絶対的な王の笑み。
「ここで貴様を殺せば、この俺の怒りは収まるのだろうか。…試してみようか?」
グッと長い爪が私の首に触れない程度に距離を置いてぐるりと囲う。拘束から逃れようと身体を捩ろうともするもピクリとも動けない。恐怖と何かの術なのか、息が段々苦しくなってきた。
もう駄目なのだろうか。
私は、ただ幸せに暮らしたかっただけなのに。
「…して…」
「あ?」
「どうして…どうして愛し合ったらいけないんですか…!?」
きっと、センリも言いたかった事。
「ギィも、センリもたったそれしか求めてなかったじゃないですか!それなのにただ血を残したいからってだけで殺すなんて…そんな必要ないじゃないか!!」
口を開く度に、砂が口の中に入る。じゃり、と音がする度惨めな思いになる。
だけど首を身体を押さえつけられていて呼吸をするのも辛いが、一言言ってやらないと気が済まない。このままあっさり殺されてたまるか。
心を奮い立たせミシミシ音を立てる首を回し、頭上で笑う男を睨みつける。
「…竜だからって何!?人間に何しても許されるとか横暴なんだよ…!理だろうが純血だろうが自分らの子供だったら何だって可愛いじゃないか!」
「じゃあ貴様は。知り合いが鼠の赤子と共にしても文句はないと?」
「は…!?」
「そういう次元の話だ」
人は鼠レベルだとでも言うのか?ましてやその赤子だと。鼠をバカにするワケじゃないが、それはあんまりすぎる。
「人間はもっと賢いわ!!実際今あんたと喋れてるし勉強だって、なんだってその気になればなんだって出来る!!ていうかあんただって好きになった女が違う種族だったらそんな事言ってらんないよ!!絶対その横暴さで理覆すね、絶対するね!!」
「ほぉ。この俺がね」
「ああするね。一回下界に降りて人間の女とアバンチュールして来いや!価値観変わるぞ馬鹿野郎!ていうか血を残したいならてめぇでやれよ。たくさん嫁貰ってたくさん子を作って大家族からの鼠方式で万万歳だろうが!!!」
「竜はつがいを1人しか選ばん。そして生む子は千年に一度いればいい方だ」
「だああもう!それだけ長い事一緒にいるなら愛する人以外とくっついて何が楽しいんだよっ!!」
はぁはぁと肩で息をしてる体力激低下中の私。
そしてはたと気付く。首が苦しくない。
呪いの言葉を吐くつもりが途中から愚痴になっている気がするし、なんか律儀に返されていた気がする。静かになった私を竜王が上から眺めているのに気づき冷や汗が垂れる。がしっと髪を掴まれ上を向かされた。そして流れる金の隙間から見えるは藍色の瞳。
何故バチッとしない!殺される!と目を閉じると髪を掴む手が離れていく。
「―――俺は」
声が聞こえたと思って目を開けると、跨ったままその手を見つめている竜王がいた。
「…俺は、あの人間が死んだ後、忽然と消えたギィが8千年もの間ずっと探しているのを知らなかった。この最果ての地で、1人命を削りながら、ずっと呪いを解こうとしていたとは。無理に決まっているだろう…。俺でさえも苦労してようやっと時空や世界を超えて追いやったというのに」
手の影から見える竜王の口が戦慄いている。
どこか様子がおかしい。最初に出会った時とは違い、随分弱弱しく見えた。
「結局俺も竜のつがいに対する認識が甘かった。どんなに純血を望んでも、命を賭してつがいを愛しぬく理は変えられない。…俺がまだ若かったせいでギィまで死んでしまった」
そこまで聞いて私は気づいた。
そうか、この人は寂しいんだ。
ギィが死んでしまって、どうすればいいか分からなくなっている。子供が悪戯でおもちゃを壊してしまい、謝ろうにもプライドが邪魔をして口に出せない、そんな状況に見えた。簡単に謝れない、竜王とは実にやっかいなものだな。
「竜お…貴方はギィが好きだった…んですね?だから…私にとられるのが嫌で気に食わなかったんですか」
私が言うと、ビクリと身体が震えた。
よかった、正解らしい。外したらまずいから慎重にいかねば。
「あいつとは遥か昔からいつも一緒にいた。あのゆっくりなマイペースなところが俺と合っていたんだ」
「両極端ですもんね」
「うるさい」
「ひぇっ」
ここでも口を滑らすか自分!慌てて口を押さえる。
ふぅとため息が聞こえ、背中が軽くなった。横目で見やれば隣に腰を落とし胡坐をかいた竜王。それを見て少し悩み、身体を起こし少し離れて座る。
「…なんか貴様と話をしていると気が抜けるな。そういうところもギィとそっくりだ」
「それは…ありがとう、ございます?」
「だから貴様らは出逢ったんだろうな。そして必然に惹かれていった。…それに俺は嫉妬していた。嫌いな人間に相棒が一瞬で奪われたからな。そんなくだらない嫉妬を取り消す事も出来ずにずるずると長い時を経てしまった。そして挙句、ギィに詫びる事も出来ず殺してしまった。…肉体がとうに滅びていれば、ああも形すら残らんとは…」
ポツリと雫が落ちる。
ギィと同じ、人間と同じ、透明の雫。
それが顎を伝って紫紺の着物に吸い込まれていくのを眺めていた。
なんだろう、この人の話を聞いていると怒るに怒れない。真っ直ぐすぎる。
まぁ、センリは殺されたけど、千陽の私は死んでないから結構楽観的に見れる。ギィが死んでしまったのは許せないけど。ていうか私も泣いていい立場だよね、これ。
「くそう!泣くな…!私が泣きたいくらいだよバカ!人も竜も死んじゃったら元には戻れないでしょう!?ギィを好きだったんなら、漢らしくこの大地よりも大きい包容力で笑って祝福しなきゃいけなかったのにぃー!!」
ばかぁと目の前の竜王をドンドンと叩くと涙が溢れてきた。自分で言って、ギィがいない事にまた悲しくなってきた。
悪かった、ごめんギィ、と涙を溢れさせながら低く唸る竜王と一緒に泣き続けた。
バチッと拒絶をしなかったのは、きっともう既に私に危害を加える気がなかったという事なんだろう。
ギィも、きっと竜王の事を大切に思っていたんだよね。
だからどうしようもなくなって、傷つけるよりはと彼から逃げて隠れてしまったんだ。
「たったそれだけの事だったのに、どうしてここまでこじれてしまったんだろうね」
落ち付いた私は、隣でまだ泣き止まない竜王を見て手が伸びた。
ふわふわの金の髪が風に揺られた頭を撫でると、ビクリとしたと思ったら一瞬で3メートル程距離が開かれた。
「…何をする」
「子供はこうすると泣き止みます」
「俺は子供じゃない!」
「似たようなものです」
段々子供っぽくなっていく竜王に笑ってしまう。あの時も、こういう風だったらよかったのにと叶わない願いを胸に抱く。
「それで?私はずっとここにいなくちゃいけないのですか?」
「冗談じゃない。お前の顔などもう二度と見たくない」
「私だって貴方の顔もギィのいない世界に興味ありませんので」
そう言うと困ったように笑う竜王。その顔はどこか幼さが残る。指を振ると私の周りに魔方陣が現われ、光に包まれていく。
「ギィは死んだ。だけどヤツも輪廻を巡る生き物の一つ。貴様のしつこい恋慕に賞賛の意を込めて俺が手ェ加えてやるよ。それで俺を許してくれないだろうか。…千陽」
「名前―――…っ」
驚いて竜王の顔を見ようと思った時には白い光に包まれて、何も見えなくなっていた。
「最後まであいつは気づいていなさそうだったな。竜が人型をとる意味を」
前とは違う意味を、とため息とともに吐き出し、ギィが腰掛けていた木に寄り添うと瞼を閉じた。
―――俺も疲れたな。しばらく眠ろうか。
竜王の呟きは誰に聞かれる事なく、空気に溶けていった。




