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言葉よ、眠れ

☆☆☆










  0



 音も無く、体に感じる重さだけが変化し、僕の乗っているエレベータは目的の12階に停止した。明るいケイジから薄暗い回廊へとよろめきつつ踏み出る。どこかの家から逃げ出した黒猫二匹が、こちらを見てから左右に走り去った。

 今日は飲み過ぎてしまった。ここまでどうやって辿り着いたのかも、よく覚えていない。……確か、一回トイレで先輩に介抱されながら吐いた気がするな。ワイシャツの右手の裾が少し汚れている。……まいったな、これは背広もどこかしら汚れているに違いない。クリーニングに出さなければ……。替えのスーツ、どこに仕舞ってたかな……。

それより前に覚えているのは……後輩でちょっとかわいい子が「私、日本酒が好きなんです」って言うものだからつい嬉しくなってその子と競うように飲み始めた頃か。……なんてこった、飲み会の大部分で記憶を失くしていたことになる。明日、会社に行くのがつらいな……。

玄関前で、カバンをまさぐり鍵を取り出す。細い板のような形状のそれには、かつて僕がずっと若い時に流行っていたアニメのキャラクターの女の子がキーホルダーとしてぶらさがっていた。その女の子はとても大きくてキラキラした目をしていて、髪はボーイッシュに短くまとめ、夏服のブラウスのボタンを二つ目まではずし、胸を張り、腰に手をあて、太腿を半分しか隠せないスカートでいながら肩幅まで脚を広げ、堂々と仁王立ちしている。

いつまでもこんなものを付けて、大人気ないなと、心底思う。人前でも、決してこの鍵は見せないようにしている。でも、こんなにかわいらしいのに男らしく振舞っているこの子が、ずっと憧れだったのだ。いつかはこんな子と付き合ってみたいと、本気で思っていた。さっきまで一緒に飲んでいた子も、そういえばどこかしらこんな雰囲気があったような気がする。だが、もう僕みたいなオッサンがいくら努力したところで、遅すぎる話なのだ。我ながら、過去にもっとがんばってこなかった自分が情けない。

……鍵をかざし、金色から赤に光ったドアノブを回して、中に入る。玄関には自分の靴が散乱し、それに混じって母の運動靴が一組、置かれている。この靴はつま先の部分が少し汚れ、踵がすり減っていて、出勤前と帰宅後、目にする度に僕を憂鬱にする。

ドアが閉じた音に続いて、奥のリビングから薄くテレビの音が聞こえてくる。廊下の電気を点け、壁に手を置きながらリビングまで進むと、テレビを点けっぱなしにソファで寝ている母の姿がある。いつものことだが、自分の部屋で横になればいいのに。

 冷蔵庫へと行き、野菜室のキャベツを一枚むしって水で軽く洗う。それを持ってテレビの近くのケイジへと運んだ。もう何十代と飼い続けてきたジャンガリアンハムスターのエサとするためだ。

 ケイジのふたを開け、キャベツを中に置いてしばらく待つ。テレビでは世界各国における人々の祝賀デモの様子が映され、ニュースキャスターは繰り返し反体制ゲリラの指導者が「正義」の名の下に殺害されたことを伝えていた。三日前からずっとやっているニュースで、時折映るキャスターには目の下にくまができている。

 画面が切り替わり、CMが始まる。

「これさえあれば、もうおたくのワンちゃんに悩まされることはありません。その名も『ワオンリンガルX』。この1センチ四方のシールを首の後ろに貼るだけで、あなたは愛するペットと100パーセント理解し合えるようになります。どなたでもお気軽に『ワオンリンガルX』。お求めは近くのイーキオスクまで」

 このごろ流行り始めた脳波グッズの一つが紹介されている。「気軽に」「ペットと理解し合える」がこの手の商品の売り文句だ。だが、これらは電磁波の送受信によって無理やりペットと人間の脳波を同調させるもので、使用感は双方にとって不快そのものである。

 ケイジの中では、くしゃくしゃにされたティッシュの山の中にハムスターの尻が見えていた。いつもなら、キャベツを置いてすぐに飛び出してくるところである。家の周りを黒猫がうろついているから、ビビっているのだろうか。

「僕とお前にも、『ワオンリンガル』が必要になる日が来るのかもな」

 そんな下らないことを呟き、僕はケイジのふたを閉めた。風呂に入って寝てしまおう。


 脱いだ服を洗濯機の上にのせ、浴室に入る。目の前にある鏡には、三十路をとうの昔に過ぎてしまった男の体が映っていた。かつては八つに割れていたこともある腹はその張りを失くし、足も腕も日々のデスクワークで段々と細り、もともと印象の薄い顔は後退する生え際と日に当たらない皮膚のせいでさらに薄さを増している。さらに最近は、体の表面から脂が消えつつあるせいか、タオルで強くこするとそれだけで切れてしまうこともあった。僕はもう、終わりかけている男なのかもしれない。

 鏡の前にいるのが嫌になり、そのまま湯船へと身を沈める。

 仕事にも喜びを感じられず、私生活も充実していない僕は、間違いなく人生の「敗者」だ。そしてそれは、僕が学生の頃からずっと恐れてきた言葉だった。それが恐くて、あるときは他人に見栄を張り続け、少しでも自分の位置を上昇させ、雲の上の世界に届くように手をずっと伸ばしていたこともある。だがそれもちょっとつまづいただけで、全てが馬鹿らしく思えてしまった。学生生活の後半は、限りなく無為に近い。先を考えれば考えるほど、僕の中には成功のイメージよりも失敗のイメージの方が多く根付き、身動きは取れなくなって行った。そうして決断と行動を先送りにしてきた結果が、いまの自分に現れている。

 ふと見上げると、浴室の一部が黒い空間として欠けている。それは周りの環境に異変が起きたのではなく、自分の脳がおかしくなっているのだと、瞬時に気付いた。でも、もう遅い。僕の体は湯船に沈み始めていた。



  1



 一面の夜闇の中、わずかな光点が遥かな地上に見え始めている。ロンドン・ヒースロー空港を飛び立ってからおよそ1時間、座席の液晶画面では緑の線を引っ張ったブリティッシュエアウェイズのボーイング737がアムステルダム・スキポール空港へと辿り着こうとしていた。

 ベルト着用サインが頭上で点灯し、機はどんどんと高度を下げている。窓の外では、光の先に建物の輪郭が見て取れるようになり、それらはエンジンの爆音に耐えられなくなったかのように猛烈な速度で視界を走り去っていく。

 やがて空港の照明塔とフェンスがせり上がって来て、どすんという衝撃とともに機は滑走路へと降り立った。これからの旅路に気持ちが昂ったのか、3列ほど前の白人女性二人が何ごとかを大声で叫んでいる。あるいは、麻薬をやっているのかもしれないな、とこのとき僕はふと思った。


 空港の到着ロビーへと入ると、そこは搭乗客以外は誰もいなかった。到着時刻が遅れに遅れ、すでに12時を回っているからだ。売店は全て閉まり、明りも最小限に留められている。薄暗い空間にぽつりぽつりと浮かぶ看板のオランダ語は、英語のつづり間違いのように思え、どこかおかしい。

 もの寂しいロビーを歩き抜け、入国審査で二三の質問に答え、手荷物を受け取ると、そこからは全くの自由だった。どこへ行こうとも、何をしようとも構わない。電車に乗れば隣国へ行くこともできるし、知人がいるわけでもないので身の振舞いを気にすることもない。

 空港から駅へと歩き、券売機にクレジットカードを差し込んで切符を買った。まずは、空港を出て市内へと向かう。

 地下のホームへと降りると、10分ほどでアムステルダム行きのインターシティがやって来た。周りの客に続いて乗車する。

 左右二列ずつの座席の一番左に腰を下ろすと、前の座席から聞き慣れた電子音がする。首を伸ばして様子を伺うと、裕福そうな若い夫婦がニンテンドーDSを一緒につついて遊んでいた。

 間もなく電車はゆっくりと滑り始めた。



  2



 幾度となくトンネルを通過し、その度に中規模の都市だったものが小規模の町へと姿を変え、やがて集落、その次は田んぼの中に家が数棟ある状態となり、ようやく風景はどこまでも続く空と海の青を焼けつくような日差しとともに東海道本線の車窓へ映しだした。緩やかな揺れと、リズミカルなジョイント音が車内に反射する。

 品川や川崎での混雑とはうって変わって、いまや7人掛けのシートには一人と一匹が座るのみである。

 一人のほうは濃紺の着流しに下駄という格好で、メガネを掛け、腰まである髪をポニーテールに結び、真夏であるにもかかわらず死体のように白い肌をしていた。

 一匹のほうは一見するとただの黒猫だが、目は石灰岩のかけらででき、尻尾のさきにはイチジクの葉が生え、耳にはクチナシの白い花が咲いている。辺りにはその強い芳香が漂う。

「こうしている時間が私には一番幸せだよ、エリス。誰もいない電車に乗って、どこか遠い場所まで運ばれていくこのときが。できることなら、夢の中でも永遠にこの気持ちを感じていたい」

 一人のほうが、目を虚空に向けながらそう呟く。エリスと呼ばれた個体がその言葉に反応し、石灰岩のかけらに逡巡の色を浮かばせた。

「――時間――幸せ――エリス――遠い――夢――」

 音は、クチナシの匂いの向こうからわずかに漂うのみである。日差しがあと少し強く、空と海が身じろぎすれば消えてしまうぐらいに。

 


















  3



 今日の僕の予定。

その一、あと5分で起きる。

その二、5分でトーストとコーヒーを平らげる。

その三、5分で洗顔・ヒゲ剃り・寝ぐせ直し・着替えを終える。

その四、出発後5分で地下鉄に乗る。

その五、5分でJRに乗り換え、学校の最寄り駅まで向かう。

その六、気が向いたらメールをチェックする。

その七、30分ほど遅刻して1限に出席。

その八、2限をサボる。

その九、持参した菓子パンを図書館の地下書庫で食べ、そのまま4限開始まで読書。

その十、4限開始のチャイムが鳴ってから図書館を出発、教室に向かう。

その十一、帰宅後パソコンに落としたアニメを消化する。

その十二、キリのいいところでペットのハムスターにエサをやり、寝る。

毎日まいにち、大して変わることがない。すでにこんな日々が1年半も続いている。

いや、生まれてこのかた大して変わった日常を経験したこともないから、「1年半」なんて言葉は無意味だ。あえて言うならば「19年半」とでもした方が実状を捉えている。

平凡で、無意味で、何かを消化するだけの生活。

それに比べて、アニメの中の主人公たちはなんてスペクタクルフルな人生を歩んでいることだろうか。ある日、突然超能力に目覚めたり、目の前に現れたロボットに乗ることになったり……。


《ピロリロリン♪》

「……」

 そうしていつもの堂々巡りへと思考が陥り、今日の予定の一から十一までを省略しようとしていた時、枕もとに置いていた携帯が着信を知らせた。

「もしもし?」

 メールならそのままシカトするところだが、電話だと何となく出ないわけにはいかない。

『よう、カズキ。目覚めはどうだ?』

 電話の相手はタクヤだった。やはり出なければよかったと思ったが、すでに遅い。

「最悪だ」

『嬉しいなぁ。お前からそんな言葉を聞けるとは!』

「用件をさっさと言え。僕は忙しいんだ」

『寝ることにか?』

「ああ」

『一生寝てるつもりか。たまには1限に時間通り来たらどうだ? そろそろ代返もキツいんだぞ。お前のせいで俺は一体何コの声色を使い分けなきゃいけないと思ってるんだ』

「僕の代返なら声は1コで十分だろ。用がないなら切るぞ」

『まぁ待て。実はうまい話があってな』

 うまい話。こいつのうまい話は三パターンある。

一つは『実は俺の友達の親が会社やっててな、今度その会社が上場することになったんだが、お前そこの株買わないか?』という儲け話。

二つ目は『おい、お前。電子レンジと里田まいに共通点があるって知ってたか? ろくに授業にも出てないお前は知らないだろうなぁ。もう答え言っていいか? 行くぞ? どちらもチン・カイトウしますってな』という謎かけ。

最後の一つは『うちの地元に行列のできるラーメン屋を見つけたんだ。こんど一緒に行かないか』というただの誘い。

『実はコグレがな、また新しい被験者を募集してるんだ。今回の実験は眠りに関するものらしい。眠りといったら我らが天才、カズキ様をおいて他にいないからな。奴は報酬をはずむと言っている。どうだ? うまい話だろう』

 コグレというのは知り合いのオカルトマニアのことで、常に危ない格好をし、危ない思想を持ち、危ない実験を日夜繰り返している、とても危ない男のことだ。

そんなできれば近づきたくない奴だが、どういう巡りあわせか、コグレの家はとんでもない金持ちで、父親は金融や製造業で支配的な立場にあるコグレ&エックス・ホールディングスのCEOで、母親はイタリアで爆発的大流行を起こしたファッションブランド、アキコ・コグレの創業者その人なのだ。

『いまはアキコさんも帰ってきてるらしいから、実験に参加すればアキコさんお手製のマルゲリータにありつけること、間違いなしだ』

 アキコさんの手料理は本場仕込みだから味は絶品だ。僕は前の実験の時に食べたことがある。

つまりこれは二つの意味でうまい話なのだった。

「なぁタクヤ」

『あ?』

「コグレの家と掛けて、マルゲリータの名前の由来と解く」

『どうしたんだ、突然?』

「……どっちも出来過ぎてるってな」




















  5


 1時間後、僕は山手線に乗って品川に来ていた。ドアの窓ガラスに映る薄い顔をぼうっと眺めていると、電車がホームにすべり込む。黒のシャツにスーツのズボン、黒の皮靴といった格好は、品川まで来れば目立たないかと思ったが、そうでもないようだ。サラリーマンとOLと、発車メロディーに押されながら電車を降り、階段を上がり、改札を抜けて出口へと向かう。巨大な吹き抜けやコンコースの至るところに電子広告が張り出され、その底を人波に乗って歩いて行く。

 駅を出てすぐのところに、全面ガラス張りの高層ビル群がある。ここが《コグレシティ》と呼ばれている一帯だ。コグレの本社ビルや関連施設が集結している。奴はここの中心にあるビルの最上階に住んでいるのだ。

 十分ほど歩いて目的のビルに着く。ビルの中に入るとIDカードを提示し金属探知機のゲートをくぐらなければならないが、脇に立っていた警備員に「コグレくんの友達ですが」と言って通してもらう。

 さらにその警備員に誘導されて特別なエレベーターに乗り、最上階まで向かう。最上階まで向かう傍ら、眼下には品川埠頭のコンテナ群が広がり、さらに東京湾を挟んでお台場や浦安のディズニーランドのあたりまで見えるようになる。

 あっという間に最上階に着くと、秘書のお姉さんに出迎えられる。「お待ちしておりました。こちらへ」と言われて付いて行くと、木目調の分厚いドアがゆっくりと開き、千帖はあろうかという広大なリビングへと通される。

「おう、来たか」

 僕に気付いてまずタクヤが振り返る。タクヤは部屋の中心にあるソファで背もたれに腕を載せ、脚を組み、空いた方の手にワイングラスを持ってくつろいでいる。濃い顔立ちに肩まで伸ばした髪、日焼けした肌、白のボタンダウンにビンテージもののジーパンという姿は、学生というよりはIT企業の社長に近い。

 そのソファの下をNゲージのDF200が通過して行く。長いながいコンテナ車がソファを一周し、ポイントを通過し、大きくカーブしながらトンネルを抜けると、そのまま駅に停車した。

「やぁ、久しぶり」

 駅の脇に女座りしていたコグレが、視線をコンテナ車に向けたまま言う。メガネの奥の眼こそ死んでないが、死体のように白い肌と腰まである髪はいつこの世から消えてもおかしくない格好だ。今日はめずらしくポニーテールで、だぼだぼのタンクトップに灰色のつなぎをはいている。

 部屋全体は陽が少し差し込むだけで、照明は点いていなく、薄暗い。それに加え、空調がやや効きすぎていて寒いぐらいだ。

 見回すと、いたるところにベンジャミンやゴムの木などの観葉植物が置いてあり、その向こうには壁を多い尽くすほどのケイジが積んである。詳細までは見て取れないが、中には動物がいるようだ。

「また派手に変えたな。きょうは一体なにをする気なんだ」

 僕がそう言うと、足元に一匹黒猫がやってきて、脚にまとわりついた。続いてまた一匹、また一匹。たちまち辺りは黒猫だらけになる。

「きょうはその猫と寝て欲しいんだ」

 相変わらずコグレは視線をコンテナ車に向けたままだ。こちらを伺う気は無いらしい。

「うん?」

 足元の黒猫をよく見ると、首の後ろに何かがくっついているのに気付く。どの猫も同様だ。試しに一匹抱き上げて見てみる。

「何だこれは」

 抱きあげられた猫は前足の先を舌で舐めた後、こちらを見る。

「そのネコはボンベイという品種だ。原産国はアメリカ。それ以外の国ではめったに見かけない」

 タクヤがそう言い、ワイングラスを傾けて赤を一口すする。

「あんまりじろじろ見ない方がいいよ。さもないと」

 コグレがそう言った矢先、抱き上げていた猫が急に暴れだし、僕の腕から飛び降りた。フローリングに爪の引っ掛かる音が耳に痛い。

 首のうしろに付いていたのは、何かのチップだった。

「寝るってどういうことだ?」

 待ってましたと言わんばかりにコグレのメガネが光る。

「同じ夢を見てほしいってことだよ」

 部屋の奥で二基の無影灯が点き、それぞれ手術台を浮かび上がらせた。



  6



「まずはもう少しこっちに来たらどうなんだ? こっからだとお前が全然見えないぞ」

 タクヤが横目で僕を見て言う。見まわしてみると、確かに影の中でこの格好では見えづらい。その言葉に従い、二人の近くへと歩いて行く。

後ろを振り返るといつの間にかドアが閉まっていて、秘書のお姉さんも消えていた。黒猫たちは僕を見上げながらついて来る。

「そういえば、アキコさんはどこにいるんだ?」

 僕はここに来た目的を思い出し、そう聞く。

「ああ、母さんなら急な仕事で向こうにとどまることになったよ。残念だけど」

「そうか」

 焼き立てのマルゲリータはおあずけらしい。タクヤの方を見るが、こちらには目線を合わせず、ワインに夢中だ。

「……で、詳しく説明してくれないか。猫と何するって?」

「君には向こうの手術台で寝てて欲しいんだ。その際、頭にいろいろと電極をつけて、データを取らせてもらう。同時に、反対側の台で猫を眠らせ、こちらでもデータを取る。そして猫の方でレム睡眠、すなわち夢が始まったら、その脳波を君の頭で再現する」

「ちょっと待った。そんな事できるのか」

「そのために君がいる」

 コグレが初めてこちらを向いた。そのメガネの片側のレンズには、何やらグラフのようなものが映されている。

「米国ナーヴァルエンジン社の『ナーヴ・セット』、韓国チソン大学で開発が進められている『ニューロ・マシン・インターフェース』、台湾フォルモサ技研から近々発売される『エモーション・コミュニケーター』。巷では『3Dの時代』『スマートフォンの時代』などと盛り上がっているけれど、これからは『脳波の時代』なんだ。脳波を制するものが、これからの世界で生き残っていける。私はそう思う」

 そして立ち上がり、指でメガネを直す。

「でも、その中で日本の各企業やうちの会社が生き残れるかと言うと、それはわからない。いままで家電やサービス、エンターテインメントの分野で、何度となく日本は米国に先を越されて来た。3Dやスマートフォンはその典型だ。そして、韓国や台湾の性能が良い製品に市場を脅かされている。先見の明が無く、性能の良さで勝てない日本は、これから生き残って行くのは難しいだろう。

 脳波の時代はすぐにでもやって来る。だからいち早く先手を打たなければいけないんだ。新しいインフラ、新しいサービス、そして一般に定着する新しい広告」

「だったら、お前の会社がやればいいじゃないか。お前の親に、進言すればいい。『脳波の時代が来る。だから早く手を打て』って」

「言ったさ。『お前は頭がいいな。将来は経営を一任してやるぞ』って、そう言われた。それに、うちのグループにも脳波を扱っている部署があるから心配するな、ともね」

「なら、いいじゃないか」

「でも、だめなんだ。本気じゃないんだよ。遅かれ早かれ、そういう時代が来るってのは誰だってわかる。問題はそこじゃない。重要なのは、そういう時代になったってことを完成した製品によって訴えることなんだ。

それには多大なリスクを取らなければいけない。研究開発のためにさまざまな人間を説得しなければならないし、資金も調達しなければならない。重大なミス、障害が途中で見つかって、完成までたどり着けないかもしれない。内外から批判を浴びるかもしれない。仮に完成し、販売することができても、費用を回収することができないかもしれない。

そのリスクを取ってこそ、はじめて説得力が生まれるし、熱狂を背に新たな時代の開拓者になることができるんだ」

「お前は自らその、開拓者になろうとしてるのか。……僕を足がかりにして」

コグレは少し考えるような間を取ったが、結局何も答えず、代わりに黒猫たちを指差した。

「いま、その猫はメス猫の匂いに敏感になっている。そっちの猫はお腹が空いて死にそうだ。後ろでいま鳴いたのは外に出掛けたがっている」

「そのメガネで、猫の気持ちがわかるってのか」

「鋭いね。その通り。でもそれだけじゃない」

 そう言うと、今度は指をパチンと鳴らせてみせた。すると、周りにいた黒猫が一斉に鳴き始めた。部屋中にその音が反響する。

 続いてパチンと鳴らすと、猫たちは左右に走り去り、次にパチンと音がすると、猫たちは互いを攻撃し始めた。

「これは、全部お前がやってるのか?」

 コグレは口をわずかに曲げて答える。

 猫たちのうちの数匹が、コグレの近くを走り過ぎ、奴のNゲージをめちゃくちゃにした。

 コグレが振り向いて猫を睨むと、その猫は突然苦しそうに床の上を転がる。

「おい」

 僕はしばらく奴のことを見ていたが、状況が変わりそうにないのでそう声を掛けた。「え?」といって、コグレが平静を取り戻す。

「ああ、悪かった。最近うまく寝れてなくてね」

「大丈夫かよ」

「心配には及ばない」

 コグレはまた指を鳴らし、猫たちを元の位置に戻らせた。僕の周りには、猫が整列して座るという奇妙な光景が広がっている。

「私には完成した製品がある。これらはすぐにでも販売できる代物だ。もっとも、このまま販売を急げば動物愛護団体はもとより、一般の消費者からもバッシングを受けることになるだろう。

 そこでまずは、『ペットと同じ夢を見よう』とでもいう触れ込みで、動物と脳波を同調させる製品の販売を目指す。今回の実験はその開発プロセスの一部だ。

すでに動物同士での実験は済ましてある。スズメとカラス、羊とライオン、犬とサル。……実におもしろいものだったよ。脳波の同調を行っている間、サルは『ワン』と鳴くしライオンは『メエ』と鳴く。実験が終わった後、彼らは仲良しになり、スズメとカラスは毎晩寄り添って寝るようになった。君はこれからそれを体験するんだ」

 コグレが期待を込めた眼を向けてくる。まるで自分の実験、そして将来の成功を疑っていないという感じだ。

「ペットと同じ夢、か」

 僕はかねがね、夢にどんな意味があるのか気になっていた。追われる夢、落ちる夢、いやらしい夢、何もない夢。そして、誰かが死ぬ夢、誰かを殺す夢、自分が殺される夢。生まれてこの方、自分の想い人が出てくるといったロマンチックな夢は見たことがない。

 動物も夢を見ているのだとしたら、一体どんな夢を見ているのだろうか。それは、楽しい夢だろうか。

「危険はないのか? 脳波をいじるんだろ」

「危険か。実験に危険はつきものさ。だが、さっきも言っただろう。リスクを取らなければ、時代の開拓者にはなれない。私も、君もだ」

 そこで、ずっと黙っていたタクヤが聞こえよがしに溜め息を吐いた。

「やれよ、カズキ。お前、このまま帰ったところで動物並みの生活しかできないんだろう。授業をろくに受けもしないで、本を読んでアニメを見て、誰かの人生に憧れてる。そんなのは人間のやることじゃない。いい加減なにかを変えようとしろよ」

「うるせーな、黙ってろ」

 タクヤの言ってることはもっともだった。僕は日々の生活にうんざりしながらも、それを変える努力をしていない。誰の目から見たって、最低な生き方なのだ。でも……。

「わかった。やればいいんだろ。やってやる」


 数分後、僕の体は手術台の上にあった。服を患者用ガウンに着替え、いたる所に電極とチューブを繋がれている。頭上では無影灯が強烈に光り、薄い青の手術着にマスクと防護グラスをつけたコグレが覗き込んで来る。

「気分はどうだい?」

「最悪だ」

「それは結構。じゃ、始めるよ」

 ゴム手袋をはめた奴の手が伸びて、僕に麻酔マスクを掛け始める。

「先に言っとくけど、麻酔時に見る夢は不快なものが多いらしい。あらかじめ覚悟しておいてくれ」

「僕は普通に寝たっていやな夢しか見ないよ」

 装着が終わると、奴はガスの送入を始めた。反対側の台を見ると、そちらではすでに麻酔を掛けられた黒猫が、僕と同じ様に電極とチューブをつけられた状態で眠っている。このあとの夢は、あいつの脳波次第だ。

 視界がぼんやりと赤黒く変色し始め、僕は目をつぶった。



  7



「始まったか」

 グラスのワインを飲み干したタクヤが、そう言う。

「ああ。あとは、一日かけてデータとの睨み合いだ。君の協力には感謝するよ」

 マスクを取り、コグレが口を歪ませる。さらにゴム手袋をはずし、近くのゴミ箱に投げ捨てる。

「あいつはあれぐらい言わないと動かないからな。こっちの方、頼んだぜ」

 タクヤは指で丸を作ってみせる。

「それより、ワインのおかわりってあるか? まだまだ飲み足りなくってな」

「キッチンで冷えてるはずだ。勝手に探してくれ」

 コグレはすでにモニターの前に座り、操作を始めている。

「あと、おつまみも欲しいところだ。あーあ、アキコさんがいればなぁ」

 タクヤはグラスをテーブルに置き、大きく伸びをしてからキッチンへと歩いていく。

 キッチンはリビングと同じ大きさのダイニングの一画にある。だが、こちらには大きめのテーブルが一つあるだけでほかに物が無く、広々としている。

「ん?」

 タクヤの視線の先には、テーブルの上のビニール袋があった。近づいて、その中身を見る。

 ビニール袋の中には、強力粉、ドライイースト、サラダ油、トマトの缶詰、モッツァレラチーズ、そしてバジルの葉が入っていた。

「これは……まさか」

 タクヤは何かに気付き、キッチンへと走る。キッチンには巨大な冷蔵庫、ワインセラー、電子レンジとオーブンが並んでいる。

 そして、その奥に大きなケイジが一つ置かれ、中で裸の女性と黒猫が眠っていた。























  9



 世界は赤と黒の間で波打っていた。波の中には見知った顔の人間が二人いる。二人とも何か話しているが、波の音が強く、うまく聞き取れない。波は激しさを増すばかりで、雨も降り始め、どす黒い雲の中ではうなり声が大きくなっていた。

 僕はその二人を見捨て、空の上に逃れたいと思う。力の入らない体に何度も命令し、少しでも上に行こうと意識を向ける。すると体は少しずつ上方に昇りはじめた。裸の手や足先から水滴が耐えず流れ落ち、雨と風が皮膚を打ちつける。

 下の方で、僕を呼ぶ声がした。僕はそれでも、振り向くことができない。僕の眼は空に固定されているからだ。下の声はそれでも続く。きっと悪意のある声で、それは重く、波の奥底へと引きずり込もうとする。引きずり込んだところで、何かが解決するわけでもないのに。

 ゆっくりと上昇を続ける僕の周りで、風は音を立てて渦巻き、蝶やコウモリへと姿を変える。その数は次第に膨れ上がり、群れをなし、ついには空間を満たすほどになる。がさがさという羽の音は脚を撫で、腰を抱く。雨は黄色い体液となり、どす黒い雲は彼らの死骸となって、重力に耐えられず落ちてくる。



  10



 世界は赤と黒の間から、巨大な塔を生みだした。僕はどういうわけか、その塔の中に大事なものがあるような気がして、急いで走り入って行く。

 扉が開き、冷たい吹き抜けが姿を現す。天まで届くかのようなその吹き抜けには何本ものらせん階段がそびえ、背広を着た男たちが行き交っている。彼らは僕に気付いた様子はない。僕はらせん階段の一つを選び、昇って行く。

 らせん階段の中で、何人もの男を追い抜いて行く。細身の者、恰幅の良い者、しわしわの背広の者、しわ一つない綺麗な背広の者、バッグや紙袋をいくつも提げた者、手ぶらの者、髪がぼさぼさな者、丁寧に整髪してある者、肩を落として歩いている者、胸を張って歩いている者。だが、しばらく行ったところで僕は気付く。彼らは様々な部位に微妙な差こそあれ、ある一定の種類しかないことに。

 遠くに見える何本かのらせん階段に異変が起こり、崩落が始まった。崩落とともに、人間たちも落下してくる。僕のいる場所でも強い揺れが起こり、何人かの男が振り落とされた。それと同時に、階段の上の方から叫び声が聞こえ、焦りと怒りに満ちた靴音が降りてくる。僕はそれが怖くなったのか、自然と階段を駆け下りていた。自分の心臓の音が耳で聞こえるほど大きくなり、息が上がり、汗が眼や鼻に侵入する。

 階段は崩落をはじめ、視界は斜めになり、僕もついに空間へと放り出された。遥かな地上では、警備員の格好をした男たちがこちらを見上げている。その顔の剃り残したヒゲの一本まで見える距離を通過したところで、僕は黒い波に飲み込まれた。


















  12



 気が付くと僕はまた走っていた。それは木々が複雑に生い茂るどこかの山の中で、とても細く足元には枝や根が伸びる獣道だった。耳には自分の荒い息使いが張り付き、その奥で小さく別の息使いが散発する。空間を叩きつけるような威圧感と、木の葉が大きく揺れる気配がどこか遠い方でしていた。

「走って、速く」

 目前の木と木の間から、見覚えのある女の子の後ろ姿が見え隠れしていた。その女の子はぴったりとした赤と黒のバトルスーツを身につけている。僕はその姿を必死に追う。

 何十本もの木を通り過ぎ、そこら中を枝に引っ掻かれた後、僕は目の前の女の子を見失っていた。どこを見回してもその姿はない。息は上がったままで、もう走る事はできそうにないぐらい体が重い。

 だが、悪意ある声はすぐそこまで迫っていた。僕はたまらず、脇に数歩ずれ、木の下に身を隠そうとする。その時、足元に張っていたワイヤーのようなものに引っ掛かった。

 僕は地面に倒れ込む。足先を見ると、それは明らかに人工的な装置に絡み取られていた。どこかで張り詰めた縄が不気味に切れる音がして、頭上から巨大な鋼鉄の刃が降って来る。

ガサガサと揺れる木の枝には先程の女の子が乗っていて、僕を見下ろしている。その女の子は、最後の瞬間、黒猫へと変身した。



  16



 チン、と小気味のいい音がしてエレベータが停止する。脇の女性が「六階に到着いたしました」と丁寧に告げ、僕は周りの品の良さそうな客の後ろに付いてフロアへと出る。

 そこは銀座にある高級デパートの最上階で、僕はある人物に呼び出されて来ていた。もちろん、一人でこんな場所に来たことはない。

 僕はあの時、高校2年生だった。夏の終わりで、エアコンの冷気とそこら中から漂う上品な匂いが気持ち良かったのを覚えている。

 当時、僕は小・中と続けて来た陸上を辞め、受験勉強に専念することで、晴れて都内でも有数の進学校に合格し、さらに自分のキャリアを磨こうと必死だった。将来は国立の医学部を目指し、世界中で活躍する外科医になることを夢見ていたのだ。

学校では勉強の邪魔にならない文芸部を選び、暇な時に小説を書いては周囲に見せびらかしていた。そうしてキザったらしく「小説書いてるんだ」と言えば友達から一目置かれるし、その噂が広がれば自分の人気が上がるからだ。

文芸部は全員で6人という、とても小さなものだった。3年生が受験で引退すると、2年生で僕が部長になった。2年には僕の他にミサワという男がいて、この二人が部の中核をなしていた。

ミサワは心から文学を愛していた。それは僕を含め誰もがわかるぐらいに。奴はいつどんな場所でもポケットに文庫本を忍ばせ、授業中でも教科書に隠してそれを読み、ノートには板書をせずに小説のあらすじを書きまくっていた。昼休みには中庭の木陰で飯も食べず読書に耽り、そのままあとの授業をフケることもしばしばだった。

そんな奴は僕の憎むべき相手だった。あいつは授業も受けずに本ばっかり読んでいる。学生の本分は勉学にあるというのに。それでいて、先生に授業をフケたことを注意されても「ちょっといい所だったもんで」といって軽く笑って見せるのだ。

そういう自分を作らない所がウケたのだろう。奴は女子生徒から人気の的だった。休み時間、そして放課後は絶えず奴の話題で持ち切りで、他のクラスからも見物客が多かった。ドアのところに僕がまず呼ばれ、「ねぇねぇ、ミサワくんってどの子?」と言われたこともあった。まったく、ナメられたものだった。

そして奴のもっとも嫌な部分は、僕を親友だと思ってることだった。僕と奴は部で小説を見せあい、互いに批評する内に仲が良くなったのだ。僕が小説を書き上げる度に奴は「なぁ、新作できたんだろ? 早く読ませてくれよ」とせびり、自分のつまらない部分では「ここ、全っぜんおもんねーのな」としかめ面をし、ちょっとでも面白い部分に来ると声に出して笑うのだ。

僕は奴の小説が大嫌いだった。僕はSFを書き、奴は純文学を書いていた。奴の小説は過激な性描写と、それをものともせず最後まで読ませる繊細な文章が売りだった。対して、僕の小説は、教科書や授業の実験で得た知識を組み立ててネタを作り、昔話やことわざ、偉人伝に引っ掛けてオチまで持っていく衒学的な短編だった。

 2年生になり、新入生が初めて登校する日。学級委員に選ばれ、誰よりも早く教室に来て掃除を始めていた僕のところに、ミサワが駆け込んで来た。

「どうしたんだ? 珍しい」

「おい、カズキ。今日は新入生の登校日なんだってな!」

 宇宙人を発見したぞ、とでも言いそうなミサワの勢いは、いつも木陰で読書する奴のものとは思えず、僕はたじろぐ。

「ああ、そうだけど」

「勧誘、やろうぜ。部の!」

 読点を余計に打ち、無意味に倒置を利かしたその一言は、僕が奴に対して張っている絶対領域を脅かすものだった。

「……あのな、新入生の部活勧誘は来週からだぞ。焦りすぎだ」

「なに言ってんだ。今のうちからツバつけとかないと、うちみたいな弱小部活は新入生なんて獲れねーよ!」

「なに言ってるのはお前の方だ。ルールはちゃんと守れ。さもないと活動停止を食らう。我々も高校2年なのだから、徐々にでも大人にならないと」

 ミサワはその間に僕の懐の内側に入り、不躾にも両手で僕の口を横に広げる。

「大人になれ、だぁ? どの口が言うんだ。お前こそもっとカラを破って堂々と構えろ。お前の小説、知識やアイデアに頼り過ぎなんだよ。それじゃ読者に気持ちは伝わらない。それにな、ルールを守れってのは負け犬のセリフだ!」

「ふがががが!」

 そして奴は僕を連れ出した。


「新入生が来るのは、あっちからだったよな!」

 ミサワに連れられて僕は正門までやって来ていた。すでにかなりの在校生が登校し始めていて、彼らは僕らを一瞥してから、不思議そうに目の前を通り過ぎて行く。

学校の前にはT字路があり、区民ホールで入学式を終えた新入生たちは正面の桜並木を通ってやって来る。

「ああ、そうだ。いてて、お前のせいで口が裂けたぞ」

「上等だ。よし、これから俺ら二人で短歌を読み上げるぞ」

「あ?」

「即興で短歌を作って、新入生に呼びかけるんだ。あいつら、きっと驚くぞ」

「馬鹿言え。即興で短歌なんか作れるかよ。第一、何で勧誘で作品を発表しなくちゃならないんだ」

「馬鹿言ってんのはお前だろ。新入生はこっちのことなんか何も知らないんだ。それなのにいちいち『私どもの部活は、かくかくしかじかで』なんて説明したってわからないだろ。その場で作品を発表してやるのが手っ取り早い」

「だが、僕は短歌なんて――」

「ほら、新入生来たぞ!」

 それからのことは、いま思い出しても顔が赤くなる。僕らはただの一度だって短歌なんて作ったことが無かったのだ。それなのに即興なんてことをするから、せっかくやって来た新入生には目を白黒させられ、在校生には指を刺されて笑われ、新入生の誘導に当たっていた体育科の先生にはグーで脳天を突かれるハメになったのだ。

「いってー! あんにゃろ、グーで殴りやがった! お前見たか? グーだぞ、グー!」

「見たに決まってるだろ。僕だって食らったんだからな。あーあ、これでもう僕のキャリアも終わりだな……」

 そう僕が言ったあと、ミサワはきょとんとした顔でこちらを見た。そして、その顔がみるみる笑みに変わって行く。

「ぷっ、くあっはっはっは! お前、そんな情けない顔が出来るんだな! 初めて見た!」

「な、情けない顔とは何だ! こちとらお前のせいでこんな目に合ってるんだぞ!」

「ひー、おかし!」

「ったく。……っぷ、くあーはっはっは!」

 僕らは互いの肩をバシバシ叩きながら笑い合った。

 ちょうどその時、僕らの前にはある人影が近づきつつあった。その影は新入生の列から外れ、周囲の視線も気にせずこちらへと進んで来る。

「センパイがたー。何してらっしゃるんですか? バカ?」

「なっ、馬鹿とはなんだ、馬鹿とは!」

 僕が反射的にそう言い、振り向くと、顔の前には細く白い人指しゆびが伸び、それはゆっくりと二回反時計周りをし、それから手が開かれる。

 手の向こうには上目使いで口を軽く結び、髪をツインにして強く巻いた一年女子、カレンがいた。


 僕とミサワとカレンは、いいトリオだった。少なくとも二カ月は、最高の関係を保っていた。だが放課後にミサワとカレンが中庭の木陰で肩を寄せあって読書しているのを僕が見掛けてから、それは変わった。







  18



「――ご注文は?」

「アイスコーヒーを。ブラックで」

 僕はフロアの突き当たりにある喫茶店に入っていた。先方は少し遅れているようだ。無理もない。忙しい仕事なのだから。

 僕が待っていたのは、ある出版社の編集者だった。僕は作家デビューを、目前に控えていた。

 あの日、ミサワとカレンの姿を見てから、僕はあいつらとの関係を意図的にややこしいものにしていった。ある時は二人の中に割って入り、ある時はミサワと極度に親しく振舞ってカレンを疎外し、ある時はミサワの批判からカレンを守ったり、と。僕は自分でなぜそんな奇行に走るのか理解できなかった。そして理解できないことが怖かった。

 次第に僕は学校の授業にもちゃんと出なくなり、家で小説を書き続ける日々を送るようになった。書いた小説は片っ端から賞に応募し、応募する賞がない時は出版社に直接送り付けた。

 書いても書いても、僕の頭には文章が浮かんできていた。書いていないと、脳が膨らみ過ぎて破裂しそうな感覚すら覚えていた。

 その結果が、これだった。ある時、小さな出版社から手紙が届き、一冊本を出してみないかと誘われたのだった。

 ……そうだ、この続きは覚えがある。このあとすぐ、編集者がやってきて、すぐに契約の話と、印税振込みと前払い、どっちがいいかという下らない選択を迫られるのだ。僕はアイスコーヒーが出されて、その氷が溶け切るまで待っても選択をすることができずに、編集者に愛想を尽かされて帰られてしまうのだ。

 僕は、そんな選択をするために小説を書いて来たんじゃない。もっと違うことのために……。

 どこかで、猫の鳴き声がする。まだアイスコーヒーの届いていない机から視線を這わせて辺りを見回すと、喫茶店の入口で黒猫がこちらを見つめていた。その黒猫は、すぐに走り去ってしまう。

 僕は自然と、席を立っていた。急いで、その猫を追う。

 入口では、ちょうど恰幅のいい男が、ウェイトレスに何かを聞いているところだった。その二人の目がこちらを向き、ウェイトレスの方が口を開き始める。

 その脇を通り抜け、猫の姿を探す。

 ……猫。あの猫なら、何かを知っているかもしれない。そんな予感が、ある夜突然ひらめいたアイデアのように脳に張り付いていた。

 黒猫はフロアを突っ切り、ちょうど開いたエレベータの一つへと飛び込んだ。僕も息を上げながら同じエレベータに入る。

 エレベータには先程のように女性はおらず、それどころか、エレベータの種類までもが先程のものよりかなり新しくなっていた。

 ドアが閉まり、行先階表示は1を示した後すぐに消え、続いて室内の照明までもが消えた。
















  20



「やぁ、おはよう」

 目を開けると、相変わらず強烈な光を放つ無影灯が頭上にあり、コグレもそこにいる。

「……ああ。おはよう」

「気分はどうだい」

 頭が痛い。脳が何かに圧迫されている感じがする。おまけに、体に力が入らない。

「最悪だ」

「おお! それは良かった」

 コグレが何やら大げさに喜ぶ。一体どうしたってんだ。こいつが人間らしいそぶりを見せるのは気味が悪い。

「君は素晴らしい反応を示してくれたよ。いやはや、まったく素晴らしい」

「それより、これどうにかならないか?」

 そう言って、僕は腕のチューブを見せてみせる。これのせいか、そこら中が違和感だらけだ。

「ああ、いまはずすよ」

 ゴム手袋をはめた手がぺたぺたと体中を触り、チューブと電極を取り去って行く。反対側の台を見ると、黒猫はまだそこに眠っていた。無影灯の光に混じって夕陽が差す中、その姿にはどこか愛おしさを感じる。今日会ったばかりだというのに。

「あいつ、名前はもう決まってるのかな」

「あいつ? ああ、あの猫のことか。いいや。もしよかったら君が――」

「いや、自分の子供に名前なんて付けないか」

「……?」



  22



「本当にもう帰る気なのかい」

 着替えも済ませ、ようやく自由に動き回れるようになった後、僕はコグレのお茶の誘いを断って席を立っていた。奴がお茶を誘うなんて、気持ち悪い。

「ひどく、気分が悪いんだ。それに眠い」

「いまの今まで眠っていたというのに?」

「ああ。全然寝た気がしない。家の落ち着くベッドで眠りたいんだ。それにペットにエサもやらなくちゃいけない」

 その言葉を言った時、猛烈な立ち眩みに襲われた。思わず床に膝を着く。

「おい、本当に大丈夫なのか」

 今度はタクヤがそう言う。こいつまでどうかしてしまったようだ。こんなこと言う奴じゃなかったのに。

 僕はその問いには答えず、開き始めた木目調のドアの向こうへと体を引きずり出た。
























  26



 2時間以上かかって、家に辿り着く。まるで自分の家じゃないみたいだった。何年もここを離れていた気がする。離れていたのはたった半日かそこらだってのに。

 家の中に入ると、すぐさま自分のベッドに転がる。ようやく安堵を手に入れた。これでぐっすり眠れる。……と、さっきまでコグレん家で経験したことが走馬灯のように甦って来る。あれは一体なんだったのだろうか。自分の今までの人生を振り返り、そして、黒猫が登場してきた。黒猫に付いて行った。それから……。

 ベッドの脇で、カランと回し車が鳴る音がした。そうだ、寝る前にこいつにエサをやらないといけない。

「エサ」と言った瞬間、また猛烈な目まいが襲ってくる。くそ、何なんだろう。やっぱり奴の実験なんかに、参加するべきではなかっただろうか……?

ケイジの蓋を開け、そこにいるだろうハムスターを呼ぶ。呼んでも反応が無いので、力を振り絞ってその中を覗き込む。

ハムスターはケイジの隅で、何かに脅えるようにこちらに背を向け、うずくまっていた。僕は不思議に思い、近くの袋からひまわりの種を取り出してその背を誘ってみる。だが、反応はない。最後の手段として、その背を人指し指の腹で撫でてみる。

「いてっ」

 すると、突如振り返ったそれは、普段ならば考えられない程の強さで僕の指を噛んだのだった。

 指からは血が流れ落ち、脈打っている。

 それを見ている内、三度僕を猛烈な目まいが襲い、視界は赤黒く変色を始め、僕は耐えられず目をつぶった。


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