六つの剣と契約の悪魔/悪魔、来たりて
はじめ、ソレは霧か何かに見えた。
細やかな粒子がさらさらと大気に揺れ、黄昏のオレンジと混ざって溶ける。
湾曲する風景。なんだろう、この嫌な感じは。
俺はごしごしと目を擦る。けれど捻じ曲がる視界は酷くなる一方で、地面さえ不確かになりそうだ。
そうしてその滅茶苦茶な空間から染み出す様にして、ソイツは突然現れた。
「う、うわあぁあああっ!」
なんだ―――なんだコイツは!?
銀色に光る獰猛な瞳。発達した前足と、それ以上に膨れ上がった後ろ足。黒々とした体毛は奇妙に揺れて、その異様さを際立たせていた。
ソレを一言で形容するのなら、『馬鹿でかい黒犬』が適当だろう。俺の持ち得る語彙の中に、それ以上ソイツを的確に表現できる言葉はない。
だがしかし……目の前に存在するソイツを、俺は『犬』と認める事は決して出来ないだろう。
だってソイツには―――本来ある筈の無い、五本目の足が生えていたのだから。
「っ―――久遠、逃げるわよ」
遥香が俺の手を引くのとほぼ同時に、背中から天を突く様に伸びたソレが小さく二度痙攣した。
家とは反対方向へ走り出した俺たちの背後から響く、地鳴りの様な音。大気を振るわせるアイツの唸り声が、ソレの開始を俺たちに教えていた。
狩りの始まりを、教えていた。
「はっ……はっ……おい、遥香……」
水平線へ吸い込まれる太陽を追いかけるみたいに必死に走る遥香。言葉遣いや態度こそ平素のモノと違うものの、その鈍足はいつも通りのアイツのまんまで……俺は少しだけ安心して声をかける。
街を縫う様にして走っていた遥香はちらりと後ろを一瞥し、黒犬が追って来ていない事を確認すると足を止めた。
「なんなんだ……アイツは一体なんなんだよ?」
「―――黒の猟犬」
まるで当たり前の事みたいに淀みなく、遥香はそう答えた。
同時に、移動を再開する。
「犬に似ているからそう呼ばれているけれど……正真正銘の―――悪魔よ」
「……は?」
住宅街を小走りに行く俺たち。なおも話しを続ける遥香と黙ってソレを聞く俺。が、そのあまりにも非現実的な単語が出た瞬間、俺はつい声を上げてしまった。
……悪魔? 今、コイツ、悪魔って言ったのか?
「おい、お前さっきからおかしいぞ!? 一体どうしたってんだよ!」
「私はいたって正常よ、久遠。それに―――」
「その口調がすでにおかしいだろ」そう口にしようとした俺はしかし、遥香の視線が一点に注がれた事に気がついて止めた。
僅かに焦りを孕んだ視線。俺の背後へ向けられた震える視線が、言葉よりも雄弁にその事実を語っていた。
ゆっくりと、ソレを刺激しないように振り返る。
橙色の空間。墨汁を落とした様に、黒いシミがポツンと見えた。
「―――話しをしている余裕はないわね」
言葉が終わる瞬間、黒色の獣の体が弾けた。
強靭な四本の足が地面をタンと蹴りつける。それだけでソイツは、百メートル前後あった俺たちとの距離の三分の一を縮めた。
疾走というよりは飛行に近い黒犬の高速移動。奴が二度目に地面を蹴り飛ばした瞬間、俺はワケも解らず走り出す。
何か考えがあっての行動ではない。ただ己の内に存在する衝動に任せて、自殺にも等しいソレを決定した。
「遥香、逃げろッ!」
目標はあり得ない速度で空を切る。俺はただ時間を稼ぐ為だけに―――つまりは、ソイツの餌になる為に―――捨て身の覚悟で飛び掛る。
何故だろう。コンマに満たぬその瞬間に、脳裏を過ぎる一つの疑問。
人間は自分の命が一番大事だ。身を挺して他者を守るなんて、そんなモノは絵空事で。じゃあなんで俺はこんな事をしてるんだ?
「あ……」
接触の瞬間―――
俺が迫る死を感じた瞬間。黒犬の五本目の足が、奇妙に形を変えた瞬間。街が、夕暮れから夜へとその有様を変えた瞬間。
―――その瞬間、俺は遥香の声を聞いた。確かに声を聞いたんだ。
「繋がった」
ボソリと小さな声で、遥香はそう呟いた。
俺がその声を認識できたのは、単に黒犬との衝突を避けた為である。
否、避けたのではない。既に軌道修正は不可能と思えた黒犬が……あろう事か空中で、その進行方向を変えたのだ。
人の腕に酷似した形へ変貌した猟犬の足が、何も無い中空を掴む。同時に、肘関節がぐいと曲げられて、黒犬は俺を大きく飛び越した。
まるで恐怖に駆られた様に―――そこに怖いモノでもいるかの様に―――黒犬は一心不乱に遥香を目掛ける。
「はるかッ」
手を伸ばす、が間に合わない。遥香へ飛び掛った化物を止めるには、俺の動きは遅すぎたのだ。
あぁ、まただ。俺の中の何かがざわつく。ソレは多分、忘れた筈の古くて苦い記憶。
伸ばした手の、その先のアイツが……。
思考が白く染まる。駄目だ、コレは思い出しちゃ駄目なんだ。
フラッシュバックする一瞬の幻影と、現実が交錯する。
遥香へと吸い込まれていく、黒の猟犬。背から伸びる腕が、くん、としなった。
喰われる、遥香が喰われてしまう。そんな漠然とした……けれども何より確実な未来の予感が、俺の背筋を凍らせる。
どんなに祈った所で……俺にはアイツを救えない。伸ばした手は届かない。
無力な俺を嘲る様に、黒い犬の暴腕が遥香の頭蓋へ振り下ろされる。
不遜に笑う、遥香の頭へ―――?
遥香―――なんで、笑って―――?
そんな疑問も、次の瞬間には吹き飛んでいた。
「来なさい―――っ」
命令。有無を言わさぬ、絶対的な強さを含んだその声が大気を震わせる。
答える様に、遥香の頭上には見た事のない文字が連なって描かれた図形が現れた。
淡く、青く光る奇妙な図。温度を感じさせないぼやけた光に照らされて、遥香の姿が闇の中に妖しく浮かぶ。
その非現実的な光景は……実際にこの目で見ていても信じられないその光景は……けれども、とても美しかった。
まるでその光を避ける様に宙で体を捻ると、猟犬は僅かに後ずさる。
喉を鳴らし威嚇するソレを意にも介さず、遥香は右腕を天へと向ける。
とぷん。謎の図形へ遥香の右腕が触れた瞬間、ソレはまるで水面みたいに波打った。
淡い光に飲み込まれていく、遥香の細い手首。そうして肘までが不可視の領域に消え去った時……黒い猟犬は再び遥香へ飛び掛る。
今度はもうたじろがない。猟犬の腕が遥香を捉えた。
風を切り裂く速度で振るわれる黒腕。
刹那、遥香は頭上へ掲げていた右腕を勢い良く振り下ろした。
「なっ、あ?」
今度こそ完璧に、完全に。俺は言葉を失った。
ドスン、重たい音が耳に飛び込む。ソレに潰される形になった猟犬は、甲高い悲鳴を上げた。
青く光る図形が、すぅと消えていく。遥香は右腕を下ろした格好でその動作を止めていた。
右腕の先には……何故か右腕があった。
いや、こう言うとまるで右腕だけがあったみたいでちょっとグロテスクだから言い直す。正しくは、誰かの右腕を遥香が掴んでいた……? いやいやいや、これもあんまり変わらないような?
自分でも解る程に混乱する。つまり、滅茶苦茶だった今までの流れをぶっ壊すくらい、ソレは破天荒だったのだ。
深呼吸を一つ。俺はその出来事を整理する。
光る図形の中に突っ込まれていた遥香の右腕。ソレをアイツが引き抜いた時、その光の向こうから『誰か』が現れた。
そうして『誰か』は、まるで一本背負いを決められたみたいに……背中から地面に激突し……都合の良い事に、地面と背中の間には黒の猟犬が挟まれた、と。
「痛っ、……?」
響くテノール。男性の声。背中を地面に打ち付けた筈のソレは、けれど何事もなかったみたいに立ち上がる。
そうして一言……まるでこの場の空気を読めていない一言を言い放つ。
「―――夢?」
キョロキョロと辺りを見回す男。どうやら本当に今の状況が解らないらしい。
……もっとも、解らないのは俺も一緒だったが。
宙から現れた男が立ち上がった事で開放された黒犬が、よろよろとその体勢を立て直す。
張り詰めていた空気はなんだかワケの解らないモノになり……俺は、依然として危機的状況に変わりない事を忘却していた。
そんな珍妙な空気の中、一番先に行動を始めたのは、一人だけ状況を理解している遥香であった。
謎の男には目もくれず……遥香は俺の方へと走り寄る。
そうしてがっしりと俺の腕を掴み……そのまま元来た方向へ俺を引っ張ってゆく。
「お、おい」
「良いから、早くっ」
その顔は……今までに見た事もないくらいに真剣で……だから俺は黙って後について行く事しか出来なかった。
「失敗、したなんて……」
独り言だろうか。泣きそうな表情を浮かべた遥香は、それでも俺の腕を引っ張る事を止めない。
一分ほど走っただろうか。はたと遥香の足が動きを止めた。繋いだ手の平が、じっとりと汗ばむのを感じる。
「そん、な」
俺たちの目の前……まるで行く手を遮るように、ソイツは静かに立っていた。
五本目の足を持つ犬に良く似た黒い悪魔が、静かに静かに立っていた。
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