セツナサノカケラ/変わる日常
「久遠、そっちに行ったぞ。やれるか?」
「やれるッ……っだぁ!」
街灯の無い路地を疾走する四足の化物。鰐の様な鮫の様な、強暴な頭部を上下させながら暗がりを進むその怪異を、俺は正面から斬り伏せた。
『憤怒』の炎が、夜の闇を僅かに照らす。中央から二つに焼き切れた頭は最後にギィとだけ鳴き、その動きを止めた。ペケの魔術によって傷つけられた手足は、それでも暫くジタバタと動いていた。
「……どうした、怪我でもしたのか?」
追い込み役を務めていたペケが、路地の向こうからやって来るなりそう言った。
「いや……『憤怒』の威力が全然だなぁと思って」
俺の感情的な昂りを刀身に変えるという性質を持つ以上、『憤怒』の威力にムラがあるのは仕方がない……『怠惰』によってその事は承知している。
だから別に、こんなのはイチイチ気にする事でも無いのだけれど……。
「無理も無いだろ。一週間だ」
言いながらペケは、手にしていた黒色の剣を地面へと投げ捨てる。
アスファルトへ触れる瞬間、ソレは鈍い音を立てて雲散した。
一週間……そう、一週間だ。あの日から、既に一週間が経過していた。
灰尾との一件の日。遥香へ、酷い言葉を投げつけてしまったあの日……。あの日から遥香は、俺の前から消え去ってしまった。
何処か遠くへ行ってしまったとか、そういう意味ではない。もう一つの人格である刹那と入れ替わったきり、遥香の人格が外へ出る事が無くなってしまったのである。
「人格の交代は私からしか出来ない……そう思ってたんだけど、ね」
そう言った刹那は、少しだけ悲しげな顔をしていた。
自分の体を自分以外の存在に受け渡す事が、どれほど恐ろしいか……俺には、想像する事も出来ない。抗う術を持ちながらも、あえてソレをせず、ただ刹那を受け入れていた遥香。そんな遥香が、初めて自ら人格を交代した。俺が、そうさせてしまった。
ソレほどまでにアイツを傷つけた事を、俺は深く後悔していた。
「……キツイな、これは」
「謝らせてもくれないワケだからな。んで、これからどうするんだ?」
トボトボと宵闇の中を歩きながら、今後の事を話し合う。
「とりあえず、遥香が出てきてくれるまで待つしか無い……よなぁ」
二重人格者がどういう理屈で人格を切り替えているのか知る由も無い俺には、他にどうする事も出来ない。もっとも、仮に無理矢理人格を交代する方法があったとしても、そうして遥香に謝るのは間違っていると、俺は思う。
だからきっと、俺に出来る事と言えば、遥香がまた顔を出してくれるその時をただひたすらに待つ事だけなんだろう。
幸い、学校生活は今まで通り……とはいかないものの、取り立てて大きな弊害は現われていない。
最初、刹那に遥香のフリをしてくれるよう話をしたが「どう頑張ってみても演技臭くなるので無理よ」と、丁重に断られた。ならいっそ病気になった事にして長期欠席するのはどうかと提案したが、ソレも却下された。「不良だわ」なんて言われちゃ、俺には返す言葉が無かった。
結局上手い策は思いつかず、半ばヤケクソ気味に登校したところ、真吾の「遥香ちゃん、思いきったイメチェンだねぇ」という一言からクラス中に『邑森遥香イメージチェンジ説』が行き渡り、大多数の女子からの「まぁあの遥香だし」と大多数の男子からの「これはこれでアリ!!」を受け、刹那はそのままクラスに溶け込んだ。
「昼はソレで良いんだろうが……少しでも迷いがあるのなら、夜の見回りは止めておくべきだ」
今この街には怪異だけじゃない。久遠を狙う『敵』が存在するのだから……俺を案じるペケがそう告げる。
「ん。いや、大丈夫だ。見回りに出る時は、それ以外の事を頭の外に追い出してる……それに」
校舎での一戦。俺にもっと力があったら、ペケが助けに来る前に灰尾を退けられるくらい強かったなら……遥香を危険な目にあわせなくて済んだかもしれない。そうだ。だから、もっと強くなりたい。その為には、ペケとの特訓だけじゃ、きっとダメなんだ。
「気負いは前進する糧にも、自らを阻む壁にもなり得るが……どの道、これから先を見据えれば、確かに久遠はもっと経験を積むべきか」
腕を組みながら、ペケは俺の意見を肯定してくれた。
「まぁ今はまだ、ペケ無しじゃロクに化物退治も出来ないけどな」
「急激な進歩なんてモンは無いさ。天才と言われるような種類の人間だって、鍛錬は積んでいる。凡人なら尚更だ。月並みな言葉だが、進歩ってのはその積み重ねの先にあるんだからな」
「へぇ。ペケにもそんな時代があったのか?」
自身に関する記憶を失っているペケに、馬鹿な質問をしたと気付いたのは言い終わった後だった。
が、いつもなら「思い出せない」と即答される場面で、珍しくペケが熟考している様だった。
「何か思い出しそうなのか?」
「うーん。いや、記憶は依然として空白なんだが……なんだろう。何故だが、コレに関しては『思い出せない』んじゃなく『思い出したくない』ような……?」
むむむ、と頭を傾けるペケ。
「相当に嫌な記憶なんじゃねーのか?」
「かも知れんな」
ははは、と二人で笑いあう。正体不明の敵、遥香の事……懸念すべき点は多いが、ソレでもこんな風に笑える時間がある事が、なんとなく楽しかった。
……
「ただいま」
「おかえりなさい、二人とも」
玄関を開け家へ入ると、居間の方から刹那がやって来た。スリッパをパタパタといわせながら廊下を歩く様子が、普段のクールな刹那からは想像できなくて、少しだけ可笑しかった。
「夕御飯出来てるけど……」
両手を後ろに組んで、ポツリとそう言った。ここ一週間、俺とペケが見回りに行っている間、刹那が調理番を担当している。
「今日も悪いな、早速頂くよ」
靴を脱ぎながら、俺は刹那にそう返す。同じ様に続くペケが何か言おうとしたが、俺はソレを視線で咎めた。
「じゃあ、先に行って準備しておくわ」
どことなくご機嫌な背中。今日は上手に作れたのだろうか。
「……おいペケ、解ってんだろうな」
「え、何を?」
だー。やっぱり解ってなかったか。廊下を極めてゆっくり歩きながら、俺は小声でペケへとソレを伝える。
「アイツ、隠してるけど指に絆創膏貼ってるぞ。大量に」
「……?」
まぁなんて鈍いんでしょこの人は! なんて思わずマダムになってしまいそうになるくらい、俺は呆れていた。この男は、本当に、なんというか……悪魔的に鋭いかと思えば、こんなにも鈍い時もある。実にワケが解らない。
わざわざ口に出すのは憚られるので今まで黙っていたのだが、流石にそろそろ危なそうなので釘を刺しておく。
「刹那は料理が出来ないんだよ。だから、迂闊な事を口走るなよって事!」
「……そうなのか? この一週間、どの料理もさしたる問題は無いように思えたが……」
そう、そうなのだ。このペケという男は、致命的なまでに味オンチなのである。今日までペケは、刹那の作る料理と呼んで良いのかギリギリのラインの(見た目はまともな)物体を、美味い美味いと食っていた。それだけなら別に放っておけばいいように思えるだろうが……。
(刹那も色々と考えてるみたいだからな)
もし、万が一、刹那の創意工夫次第によって、この男の口から「マズイ」の一言が出てしまったら……どうなるか解ったモンじゃない。
今まで殆ど表に出てこなかったであろう刹那に、料理が出来ないのは無理もない。勿論最初は俺が作るからと断ったのだが「夜の見回りに着いて行けないのだから、これくらいはやらせて欲しい」と、頑として聞かなかったのである。
遥香といい刹那といい、別の人格だとは言うが、妙な所で頑固な部分は似ているんだなぁ。ある意味じゃ、姉妹みたいなモノなのかもしれない。なんて、なんとなくそう思った。
食卓へ行くと、丁度刹那が人数分の味噌汁を配膳し終わった所であった。
「お、今日は鮭の塩焼きか。御飯に味噌汁、それと鮭……うーん、日本人の心みたいな夕飯だなぁ!」
などと少し大仰にコメントする俺。さっきペケにあーだこーだ言った手前、ワザとらしいリアクションを取ってしまった事に少々焦るが、刹那から特別妙なツッコミが飛んで来る事は無かった。
「学校帰りにスーパーへ行ったら鮭が安くなっていたから。塩焼きなら、失敗する事も無いと思って」
他にも、今日は特売だから砂糖と卵を買ってきたわ、と話す刹那の顔はどこか楽しそうだった。
(ん? じゃあ指の切り傷は……)
三人揃って「いただきます」をした後、俺はそこに気がついた。そうだ、鮭をグリルで焼くだけという調理法のどこにも、包丁を使う点は無い。では、どうして刹那は指に傷を……。
「刹那。この味噌汁だが」
俺が思考を回転させている間に、ペケが味噌汁を一口啜り、呟いた。
「味付けは美味いけど……豆腐はもう少し大きく切るモノだぞ」
小指の爪よりも小さい豆腐を箸で摘むと、それをヒラヒラさせるペケ。
「え、あっ……」
刹那の顔が、僅かに赤みを帯びる。なるほど、指の絆創膏は、豆腐を極端に小さく切ったせいか。
「豆腐は、こう、掌に乗せて、こう、こう切るんだ、こう!」
なにやらジェスチャーを始めるペケ。なんだ、もしかしてペケの奴、料理できるのか?
じゃなくって! 余計な事を言うなっつー話をさっきしたばかりだろうが!
「ん? あれ、これは余計な話しだったか?」
「あのなぁ……」
「ペケ、あなた料理出来るの?」
……ん?
先ほどまでと様子の違う刹那。
「人並みには……出来るけども?」
「そう、なのね。なるほど……」
なにやらブツブツと一人始める刹那。どうやらペケに料理を教わるかどうか逡巡しているらしかった。
「……って事で……別に魔術師として必要な技術じゃ……だけど、でも……」
「うーん、美味いな、味噌汁は!」
「何だか良く解らんが……ずずっ」
うッ、この味噌汁、滅茶苦茶薄いぞ!
これを美味いってペケの奴、ホントに料理なんて出来るのか……。
俺は黙って箸を動かしながら、幾許かの不安感を胸に抱いた。