忘却校舎/忘失教室
得体の知れない恐怖感が、俺の胸を渦巻いた。
『俺の知らない俺の友人』という、異常すぎる存在が、俺の顔に手を伸ばす。
ソレをさせてはいけない。無意識が、警鐘を鳴らす。
或いは単なる反射か……兎にも角にも、俺は灰尾の右手を払い除けた。
ぱしん、と。乾いた音が教室に響く。
灰尾は、まるで信じられないモノを見たといった風に目を丸くした。
胸中の怖気が、じわりとその強さを増す。
「いきなり何のつもりだ」
「……あぁ、やっぱり一昨日のアレが良くなかったのかな?」
「あ―――?」
まるで会話が噛み合わない。否、そもそも灰尾は、俺に向けて言葉を発しているのだろうか。
まるで独り言の様に、ヤツは明後日の方を向きながら、ワケの解らない事を呟いた。
「予想よりもずっと少ないみたいだ……」
「だとすると、今日で最後になるな……」
「あ、そうそう、その前に―――」
すっ、と右腕を上げて、灰尾は前髪を退けた。
思わず向けた視線が、ヤツの視線と交差する。
その瞬間、
「ぐっ!」
昔、剥き身のコードを踏みつけてしまった時と同じ、電流が全身を走り抜ける感覚が、俺の脳髄を揺さぶった。
「……っは……何だ、これ……」
「もう以前のやり方は使えないみたいなので、とりあえずこっちで妥協しましょうかね」
鋭い眼光は、獲物を狙う猛禽類じみていた。
確定だ。眼前にいるのは、俺に害意を持つ存在。
(まさか本当に、化物以外に襲われるなんて)
……
「もしかしたら、狙われているかもしれない」
「……誰に?」
「悪意を持った魔術師よ」
「球場でペケが感知したのも……?」
「解らない。けれど、用心に越した事はないわ」
「ん、そうだな。俺だって危ない目には遭いたくねぇし、気をつけるよ」
……
昨日、遥香……いや、あの時は刹那だったか……に、用心を促された事を思い出し、俺は自分の迂闊さに舌を打つ。
(だけどソレが同級生ってのは、流石に予想できねぇだろ!)
こうなってしまっては何を言っても仕方が無い。戻せるものなら時間を戻したいが、そんな奇跡はありえない。ヤツが教室の入り口側に位置する以上、『逃げ』の選択肢は潰された。結局俺に残されたのは、『戦う』選択肢のみ。
決心してからの行動開始は早かった。幸いにして、先ほどの衝撃による外傷は無い。ヤツから距離を取るようにして背後へ数歩、ステップを踏む。
「うん?」
そんな俺を、ただ眺めるだけの灰尾。気味の悪い笑顔は相変わらず、底の見えない断崖を思わせる。
恐怖そのものを吹き飛ばすように、両足に力を込めた。
「へぇー、僕とやる気なんですか?」
「俺にその気がなくても、お前はそのつもりなんだろうが」
答えと同時、俺は心の中で幾度も繰り返したあの名を呼ぶ。
「来い……っ……ぁ、…………え…………?」
「どうしました?」
三日月を思わせる笑み。歪んだ口元が、不敵に俺へと問いかける。
喪失感。巨大な虚が、俺の中心に口を開けたようだ。そして事実、俺の中から、ソレはごっそりと抜け落ちていた。
そんな馬鹿な事があるもんか! 無理矢理冷静になったつもりで、俺はここ数日の出来事を思い返す。遥香の中の、もう一つの人格の事。『召喚』された悪魔、ペケの事。犬の化物や、仮面の化物に襲われた事。特訓や魔術の事。
そうだ、何も忘れちゃいない、忘れちゃいない……のに。
「くそっ」
なんで、『あの名前』だけが、思い出せない!?
「さてさて、それじゃあ」
ごそごそと制服の内ポケットを探る灰尾。ぬるりと現われた右手には、黒地に金の装飾が施されたナイフが握られている。
「な……」
煌く凶器をちらつかせながら、ヤツはゆったりとした歩調でこちらへ歩み寄る。
立ち上がる恐怖心が、心臓を握りつぶす。
「大丈夫大丈夫、こちらの言う事に従ってくれれば痛い事はしませんので」
俺の内心を見透かしたように、灰尾は酷く優しい声でそう言った。
ふざけるな! 喉元までせり上がった台詞が、声にならず雲散する。抗う術を奪われた俺に、従う以外の選択が出来るのか?
「どうします? 力ずくは、あまり趣味じゃないんですけどねぇ」
口ではそう言いながらも、前髪の奥に潜む瞳には残忍な色が見え隠れする。
間違いなく、やる。目の前のコイツは良心とか人情とか、そういうモノを全て取り払える類の人間だ。俺が少しでも抵抗すれば……ヤツは迷わず、自らの言葉を実行に移すだろう。
真っ先に浮かぶのは、拷問という単語。ヤツの目的が俺の『ヒミツ』だってんなら、口を割らせる手っ取り早い方法は、ソレだ。
以前、何かの本で読んだ数々の拷問方法が頭を過ぎっては消えていく。
想像を絶するような、苦痛をもたらす行為。あぁ、嫌だ。そんなのはゴメンだ。大人しくしていれば危害を加えないと言うのなら、ここは従うのが賢いやり方だ。否、この状況で逆らう事こそ愚かな選択肢なのだ。誰だって、こんな場面に立たされればそうするだろう。おかしな事じゃない。
ヤツに屈する事実を自分に納得させるため、俺はあらゆる言い訳で脳を満たしていく。
そうして、抵抗の意思が無い事を示すため両腕を上げようとした、その刹那。
何故か、遥香の顔がちらついた。
(……そうだ!)
仮に大人しくコイツに従ったとして、これから先、コイツが俺の前に現われない保証なんて無い。もしかしたら、遥香を危険な目にあわせる事になるかもしれない。
今、俺がするべきは、自分の身を案じてヤツの言いなりになる事なのか?
違うだろ! 今俺がすべきは、二度とコイツが目の前に現われないよう、俺の『ヒミツ』を諦めさせる事だ!
そのためには、何をすべきか……。消えかけた火を再び灯し、俺は灰尾を睨みつける。
結論は、さっきと同じ。戦って、諦めさせるしかない。
「その目……もう少し利口かと思ったんですが。どうやら、大人しく従う気は無いみたいですね」
「生憎、頭はあんまり良くないからな」
ふぅ、と長く息を吐く灰尾。長い前髪が二度揺れて、眼光が鋭さを増す。
時計の長針が、六度傾く。
瞬間、ヤツは『力ずく』を開始した。
真っ直ぐと駆け寄る灰尾。俺は素手の不利を埋めるために、手近な椅子を引き寄せた。
ガンッ。机にぶつかる椅子が、派手な音を立てる。地面に置かれた椅子を持ち上げる行為と、手に持ったナイフで切りかかる行為。比べるまでもなく、速いのは後者だ。初撃の差は圧倒的で、伸ばした手が椅子に届くのとヤツの刃が空を切るのはほぼ同時。腹部を狙った斬撃は、後方へ下がる事で躱す。
「ふッ」
返す手で再び振るわれるナイフを、俺は椅子の足で受け止める。
甲高い金属音が、教室に反響した。
「おらァっ」
力任せにナイフを弾くと、俺はヤツの胴体に右足をぶち込んでやる。
「ぐッ」
机の列に突っ込んだ灰尾は、体を二、三度よろめかせる。
宙を舞ったナイフが、ころんと床に投げ出された。
いける! 灰尾の体捌きは、ペケに比べりゃなんて事は無い。
俺は椅子を振り上げ、ヤツへと数歩近づいた。追撃するのなら今が好機だろうが、敵は魔術師なのだ。どんな奥の手を隠しているのか、それが解らぬうちに迂闊なマネは出来ない。
慎重に間合いを詰め、ヤツが無防備なのを確認し―――
「お前達、何をしている!?」
―――突如として現われた安藤が、驚きの声を上げた。
同時に、灰尾の右腕が安藤目掛けて跳ね上がる。
「う、っ」
閃光―――ドスっという音と共に安藤から生えた黒と金。ゆっくりと倒れ伏した安藤の胸に、先ほどと同じナイフが突き刺さっている。
「お前ッ!」
「ちぃっ」
灰尾へ殴りかかるも、ヤツの蹴りが一瞬早く俺を捉える。
先ほどのお返しとばかりに俺の胴へ飛び込む右足。鈍痛を堪えながら、俺はヤツとの間合いを離す。
「……殺しちゃあいませんよ。少し静かにしてもらっただけです。暫くすれば、目を覚ますでしょう……今の出来事を全て忘れて、ね」
人を一人殺すと、それだけで非常に面倒なんですよ。そう言いながら灰尾は、床に転がっている一本目のナイフを拾い上げる。
「今投げたのはちょっと特殊なナイフでして。アレじゃ人は切れません」
どこまで本当なのか解らないが、倒れた安藤は確かに生きているようだ。
「アレ、用意するの結構手間なんですけどねぇ。ま、使っちゃったものはしょうがないかな」
よいしょ、とナイフを握り直し、灰尾は再び俺の前に立ち塞がった。
振り出しか。俺は手放した椅子へもう一度手を伸ばし……窓の向こうに現われた人影を目撃した。
「な……」
音も無く賽の目上に分割されるガラス。パキン、パキン。床に散らばったソレらを踏みつけて―――見知った男が現われた。