街中のドロップス【評論】
実力者の諸行動をプラットフォームで閲覧し、空想で自分の行いと錯覚する動作は全人類の通過儀礼であろう。そこで私はこうなんとなくな努力に走るのではなく、ただラクトアイスを貪るわけだ。
才能だの産まれもった顔だの、それはその人たちに託せばいい。欲とやらは食い倒れのアニメか、セクシーの真髄を重んずる主人公の漫画にでも縋ればいい。これは依存ではなく、完全なる給付支援金だ。
いずれ訪れなくなるこの眼前の光景に、今私はひれ伏すことができる。これがいずれの日にか幸せと化すなら、イチミリの可能性に賭けて、それでいいのだ。
ここでは寝相の悪いぬいぐるみと無秩序な机上の物共の崇拝に遇う。落胆と希望は紙一重だ。
手前味噌でも私は希望に変換するアダプターと称する。勘違いでもそう思えば自ずと神様か仏様かキリスト様か、一先ず誰かしらかが持ってくる。
ただ幸せは何者だ。正体は明かさない。いつか分かってくれるはず、と大多数は唱えるが、その老人が果たして幸せの意味が持つ元来の幸せを手にしたかは知る術がない。どうか、明日があると言った彼は、その明日が幸せを享受する日であれたか。
終結点までその回答が訪れないのなら、やはり絶望と希望を兼ね備えるわけだ。
上を向いて歩いて、涙を見ずに済んで、でも転けてやはり涙を見る羽目になる、一抹の望みは欲か。若い私には分からない。
幸せの言葉はただのヒトの勇気の概念化でしかない。まあそれでも大義なのであろうが、なんだか無念だ。
勇気で動く軽い生き物、とはいえ去った昨日は捨て去り明日は勇気でしっかりとした歩みを進める覚悟が、この一路に進む人生には必要不可欠なのだろう。




