寒冷 理想の暖かさ
階段を下りた瞬間、フィノは思わず足を止めた。
先ほどまでの溶岩の熱気や硫黄の匂いがすっと消え、代わりに全身を切り裂くような冷気がぶつかってきたのだ。思わず肩を震わせ、両腕で自分の体を抱きしめる。
「さ、寒い……っ」
目の前に広がっていたのは、白銀の世界だった。
広間一面に雪が降り積もり、分厚い氷が床を覆い、岩肌には霜が張りついている。頭上の天井からは無数の氷柱が垂れ下がり、時折、ぱきりと音を立てて氷の破片が落ちる。
冷たい風がひゅうひゅうと吹き抜けるたび、白い雪煙が舞い上がり、視界がぼやけるほどだった。
「フィーくん、息が白いよ。ふふ、なんだか竜のブレスみたい」
隣でリーナが口に手を添え、吐いた息を眺めて笑っている。彼女の声はいつも通りのんびりしていて、この極寒の世界でもまるで春の日だまりのように温かかった。
「り、竜なんて……。僕、竜のブレスなんて吐けないよ」
「そうかな? ほら、もう一回やってみて?」
「えっ……ふぅー……」
フィノが白い息を吐くと、リーナは大げさに両手を合わせて感嘆の声をあげた。
「わぁ、やっぱり竜みたい! 強そうだなぁ、フィーくん」
「か、からかわないでよ……」
フィノは頬を赤く染め、寒さで震えながらも視線を逸らす。
そんなときだった。奥の雪壁が揺れ、ずしん、と重たい足音が響いた。
吹雪を割って現れたのは、真っ白な毛皮に包まれた巨躯の怪物……イエティだった。両腕は岩のように太く、目は氷のように冷たく光っている。
「ひっ……!」
フィノの声が震える。剣を構えようとするが、凍える指は思うように力を込められなかった。
イエティは大きく息を吸い込むと、肺の奥から冷気を吐き出す。
……瞬間、鋭い氷風が吹き荒れた。
「う、わぁぁっ!」
フィノの体に直撃し、全身が一気に冷え込む。皮膚の上を針のような冷気が突き刺さり、歯ががちがちと鳴り始めた。視界が揺れ、足がすくんで膝が震える。
「フィーくん!」
すぐにリーナが駆け寄り、彼を後ろから抱きしめた。長身の彼女の腕が少年の体をすっぽりと包み、冷え切った背中を自分の体温で覆う。
「大丈夫、大丈夫だから。私がいるよ」
「お姉ちゃん……っ、さ、寒い……手も……足も……」
「しっかりして。ほら、震えてても、私の中なら安心でしょ」
リーナはフィノを胸に押し当て、もう片方の手で剣を抜いた。
イエティが吠えながら近づいてくるが、その剛腕が振り下ろされるより早く、リーナの剣が一閃した。刃は冷気を裂き、巨体をあっという間に切り倒す。イエティは呻き声をあげて雪に沈み、やがて静寂が戻った。
「……ほらね。怖いものはもういないよ」
リーナは安堵の息を吐き、両腕の力を強めてフィノを抱き寄せた。
「ごめん……僕、また脚を引っ張って……」
フィノの声はかすれ、唇は青ざめている。
「そんなことない。フィーくんがいてくれるだけで、私は強くなれるんだから」
「……でも……」
「ほら、今も私の胸でぎゅってなってる。それだけで十分かわいいし、私にとっては宝物みたいなんだよ」
リーナの言葉に、フィノは耳まで赤くなった。寒さで冷え切った体が、抱きしめられるたびにじわじわと温まっていく。胸に顔をうずめると、彼女の心臓の音がはっきりと伝わり、震えが少しずつ収まっていった。
「お姉ちゃん……あったかい……」
「えへへ、でしょ? 私、フィーくん専用の毛布だから」
「……ふふっ」
「今、笑った。えらいえらい」
リーナは彼の頭をやさしく撫で、冷えた髪に自分の頬をすり寄せた。
しばらくそうしていると、フィノの指先に力が戻ってきた。寒さに凍えていた手も、ようやく動かせるようになる。
「もう……大丈夫、かも」
「ほんと? じゃあ、あとちょっとだけ……ぎゅーってしてもいい?」
「……うん」
リーナはもう一度彼を強く抱きしめた。背中に当たる温もりは心地よく、冷気を完全に追い払ってくれるようだった。
「ねえ、フィーくん」
「なに?」
「寒くて弱ってるフィーくん、ほんとにかわいい。ずっとこうして抱っこしてたいなぁ」
「……っ、お姉ちゃん……」
フィノは恥ずかしさと安堵が入り混じった顔で、彼女の腕の中にさらに身を預ける。
雪の広間に、二人の吐息が白く重なった。
氷の世界は相変わらず寒々しいが、二人が寄り添うその小さな空間だけは、どこまでも温かかった。
そしてフィノの震えが完全に止むのを待ち、二人はようやく次の階層へと歩みを進めていった。
十八階層
一面が氷と雪の銀世界となる。
火山のときとは大きく変わり、氷や風属性を扱う寒さに耐性のあるものや分厚い毛皮を纏うモンスターなどが生態系を形作る。