泡 バブルトラップ
次の階層へと足を踏み入れた瞬間、ふっと潮の香りが鼻をくすぐった。
地底とは思えない、磯の風景が広がっている。
足元の石には白い塩がこびりつき、壁には緑の海藻がしっとりと揺れている。
ときおり「ぴちょん」と水滴が落ちる音がして、それが波の音にも似て聞こえた。
「わ……なんかここ、海の近くみたい」
フィノがきょろきょろと辺りを見回す。
「ほんとだね。地底湖の延長かな? 潮の匂いまで漂ってるなんて不思議」
リーナが壁を指でなぞると、白い粉がさらさらと舞い落ちた。
「海……行ってみたいなぁ」
「ふふっ、じゃあ今度連れて行ってあげる。フィーくんと一緒に」
「ほ、ほんとに?」
「うん。約束」
リーナはにっこり微笑み、指切りを差し出す。フィノも少し照れながら小指を絡めた。
和やかな空気が広がった直後、前方で甲高い「カシャッ」という音が響いた。
岩陰から、巨大な蟹のモンスターが現れたのだ。甲羅は黒光りし、鋏は鋼のように重そうだった。
「か、蟹……!」
フィノが短剣を構える。
蟹はその場で鋏を振りかざし、ぶしゅうっと大量の泡を吹き出した。
床一面に白い泡が広がり、やがてぬるぬるとした粘り気を持ち始める。
「うわっ、すご……!」
フィノは思わず後ずさり……その瞬間、足を取られた。
「あっ!」
つるりと滑った体は、勢いそのままリーナの方へ。
……どすん。
視界いっぱいに白布と柔らかさが広がり、顔全体がふわりと埋め尽くされた。
「んむっ……!?」
息を吸えば甘い香りが鼻を満たし、頭が真っ白になる。
慌てて上体を起こそうと両手をつくが、泡で床がつるつるに滑り、逆に体勢を崩した。
ぐらり……と再びバランスを失い、
顔が、さらに深くリーナの胸元に沈み込んだ。
「~~っっ!!」
頬も口元も完全に埋まってしまい、耳まで熱が走る。
必死に抜け出そうともがけばもがくほど、泡で滑って、また沈む。
「んぐっ……! で、でなきゃ……!」
「ふふ……そんなに必死に暴れたら、余計に沈んじゃうよ?」
リーナの柔らかな声が頭上から降ってきた。
その手は優しくフィノの後頭部を撫で、むしろ「ここにいなさい」と言わんばかりに包み込んでくる。
「ち、ちが……! ぼ、僕は……出ないと……!」
「いいのいいの。フィーくん、今すごく可愛いんだから。もっと甘えてて」
耳元で囁かれると、心臓が跳ね、全身がさらに熱を帯びる。
逃げ出したいのに、この柔らかさに包まれていたい気持ちもあって……ぐちゃぐちゃになった思考が泡立つように乱れていく。
「ん、んんっ……!」
もう一度抜け出そうと力を込める。けれど床はぬるぬるで、足は空を切り、またもやバランスを崩す。
結果、頬も鼻先も完全に沈み込み、胸の奥深くへと閉じ込められてしまった。
「ほらね? やっぱり、ここがフィーくんの定位置なんだよ」
リーナは嬉しそうに笑いながら、髪を撫でて離そうとしない。
「~~っ……!」
羞恥と心地よさで喉から情けない声が漏れそうになる。
その一方で、蟹が鋏を振り上げて突進してきた。
だがリーナはちらりとも見ず、空いた手で剣を抜いてひと振り。
鋭い光が走り、蟹の甲羅は真っ二つに割れて床へ崩れ落ちた。
「……はい、おしまい」
彼女は淡々と剣を収めると、まだ胸に埋まっているフィノをそっと引き起こした。
「ふふ、フィーくん。大丈夫? 怪我してない?」
「う、うん……でも……恥ずかしい……」
真っ赤な顔で両手を覆うフィノ。
「恥ずかしくないよ。とっても可愛かったもの。……もっと見ていたかったくらい」
「~~っ! やめてよ……!」
リーナはくすくす笑いながら、彼の手をぎゅっと握った。
「じゃあ……もう転ばないように、お姉ちゃんと手を繋いで歩こ?」
「えっ……」
「ほら、ぎゅって」
温かい掌に包まれると、フィノは小さく「……うん」と頷き、リーナに導かれるまま歩き出した。
十二階層
ダンジョンが地底湖や鍾乳洞の様子から、磯のような形へ変化する。
磯は変化せず、人の手を触れていない。……まるで、当時の形をそのまま残したかのような。