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悦子

作者: 雨水月

 悦子が死んだ。

 

 それを知ったのはつい最近の話である。大学を卒業してから半年が過ぎたころであった。

 

 彼女のことに関しては次のような話がある。悦子はよく言っていた。大きなものが部屋に入れないのだと。なぜなら結局は一人暮らしのアパートはいずれ引っ越す通過点にすぎないからだ。大きなベッドも机もやがて邪魔になる。そしてベランダには物干し竿がなかった。

 

「処分するのがめんどくさいのよ」

 

 そう言って彼女はベランダに洗濯ロープをつけて洗濯物を干していた。彼女が物干し竿を買うのは、彼女がその部屋を定住の場所だと認めた時である。

 

 だからこそ社会人になって数ヶ月が経ち、初めて訪れた彼女の部屋で窓の外に物干し竿があった時に私はとても安心したのである。ステンレス製のそれには、女には大きすぎるTシャツがかかっていた。私がそれについて尋ねると、彼女は恥ずかしがることもなく答えた。

 

「昨日部屋に来た男が置いて行ったのよ」

 

 悦子の官能的な肉体が男を引き寄せるのは常日頃のことであった。それに、彼女の浮世離れした身の振舞い方が彼女を一層魅力的にするのである。まるで自分の美貌を自覚していないかのような、あるいはそれを武器として使うことを知らないかのような、そんな無邪気さが彼女にはあった。

 

 彼女はきっと、生涯結婚しないのだろう、と私はその時に思ったのである。だが、その予測がこのようなかたちで本当になるとは思わなかった。

 

 葬式の時、大学の時の友人たちもその場にいた。久しぶりに会った美咲と由香里は、どちらも黒いスーツに身を包み、学生時代よりも大人びて見えた。美咲は経済学部で国際経済を専攻していたが、今は商社で働いているという。


 化粧も髪型も洗練されていて、社会人らしい落ち着きを身につけていた。一方、文学部で比較文学を専攻していた由香里は相変わらず細いフレームの眼鏡をかけ、出版社に就職したと聞いた。彼女の表情は学生時代と変わらず、どこか冷静で客観的だった。

 

 彼女は棺桶の中で静かに眠っていた。しかし、厚化粧で無機質に塗られた肌の下に奇妙な傷があるのを私は見た。そして、明らかな縫い目があることに私は気づいた。頬から顎にかけての不自然な線が、ファンデーションの下にうっすらと透けて見えていた。

 

「自殺だってね。7階から」

 

 トイレで由香里がそう言った。その時、私は彼女の顔にあった傷跡の意味に気づいた。

 

 薄暗い大理石のトイレは、冷たい美しさを湛えていた。白い石材に黒い縞模様が走り、まるで高級ホテルのような上品さがあったが、どこか死を連想させる無機質な美しさでもあった。手を洗いながら、鏡越しに由香里は私のことを見ていた。彼女の眼鏡の奥の目はいつものように、落ち着き払っていて感情がこもっていなかった。まるで他人事を語るような、そんな冷静さがそこにあった。

 

 私は、背筋がぞっとするような気分を感じながら、手からは水が次々と流れていった。蛇口から出る水の音だけが、静寂を破っていた。

 

 確か、7階だったか。それは人間がもっとも高所の恐怖を感じる高さだったことを思い出した。

 

 式場に戻ると、美咲が一人で椅子に座っていた。彼女は小さなハンカチで目元を押さえていた。

 

「悦子らしいって言えば、らしいのかもしれないけれど」美咲は私の隣に座ると、かすれた声でつぶやいた。「最後まで、何を考えているのか分からない人だった」

 私はうなずくことしかできなかった。悦子の死について、何か適切な言葉を見つけることができずにいた。

 

「川村君のこと、覚えてる?」美咲が続けた。「そういえば、あの時も」

 

「今その話をしないでよ」私は慌てて美咲の言葉を遮った。

 

 会場には線香の匂いが立ち込め、親族や会社の同僚らしき人々が静かに語り合っていた。悦子の両親は憔悴しきっていて、私たちに会釈をするのがやっとのようだった。


 棺の前で最後の別れを告げた時、私は悦子の顔をもう一度見た。化粧で隠されているとはいえ、やはりあの傷は気になった。7階から落ちた時の傷なのか、それとも違う何かなのか。

 

 式場を出る時、三人で歩きながら、私たちは無言だった。十一月の冷たい風が頬に当たり、街路樹の枯れ葉が足元で音を立てた。悦子という存在が私たちの中からすっぽりと抜け落ちて、大きな空白を残していることを感じていた。


 駅までの道のりで、私たちはそれぞれ東京行きの新幹線に乗って帰る予定だった。同じ方向へ向かうはずなのに、別々の列車に乗り、席を並べることもなく、それぞれが違う人生を歩んでいる現実が、学生時代の終わりを改めて実感させた。


 葬式の数日後、美咲から直に会って話をしたいという連絡があった。


 待ち合わせ場所は六本木のホテルオークラのラウンジだった。天井が高く、間接照明が温かな光を落とすその空間で、美咲は既にテーブルに着いていた。グレーのタイトなニットワンピースに、肩まで届く髪をゆるやかにカールさせている。首元には細いゴールドのネックレスが光り、マニキュアは深いワインレッドに塗られていた。彼女が振り返って見せた笑顔は、学生時代と変わらず人を引き付ける無邪気さがあった。


「お疲れさま、久しぶりに二人だね」


 美咲の話し方は相変わらず快活で、まるで普通の近況報告の席のようだった。私は彼女の隣に座り、まずは近況について尋ねた。


「どう?彼とはまだ?」


 美咲は首を振った。


「ああ、もうとっくに別れたわよ。向こうは地元で就職したし、遠距離は無理でしょ」


 その口調はもうすでに吹っ切れているようで、まったく未練がましいところがなかった。しかし、彼女の指先でグラスの縁をなぞる仕草や、ネックレスを無意識に触る癖を見ていると、表面的な無邪気さとは裏腹に、芯の強さを持った女性であることが伺えた。まるで何かを計算しているような、そんな冷静さがふとした瞬間に顔を覗かせるのである。


 ホットコーヒーを置いた店員が去っていくのを見送ってから、美咲が話し始めた。


「ねえ、実は悦子のことでこれを見てほしいんだけど」


 そう言って彼女は手の中のスマートフォンを私に差し出し、チャットアプリの履歴を開いた。


「彼のことでまた、連絡したいんだけど……♡」


 画面には、悦子からのメッセージが表示されていた。悦子が美咲と頻繁に連絡を取り合っていたことにも驚いたが、それ以上に、悦子の話し方にも驚いた。可愛らしいスタンプや絵文字を多用していて、あの物静かで浮世離れした彼女がこんな風にメッセージを送るなど考えにくかった。


 美咲は変わらず快活な口調で続けた。


「その男、最初は優しかったらしいのよ。でも段々と束縛が激しくなって、悦子が他の人と連絡を取るのを嫌がるようになった。それで携帯をチェックしたり、外出先に突然現れたりするようになったって。そのうち手を上げるようになって……悦子、怖がってたの」


 私は、その時、かつて悦子の部屋を訪ねた時に見た大きなTシャツを思い出した。あれは彼女が言ったように「昨日部屋に来た男が置いて行った」ものだったのか、それとも……。


「じゃあ、それが自殺の動機だったということ?」


「ううん、分からない。確かめないと」美咲は真剣な表情になった。「でも、今更……」


 私は戸惑った。確かに、悦子のことをもっと知りたい気持ちはあった。彼女は遺書だって残さなかったのだから。それでも、自殺だと決まったわけじゃない。転落事故という可能性も……。


 美咲は私を見つめて言った。


「私たち友達じゃないの?」


 友達という単語が複雑な印象を私に与えた。学生だった時の無邪気な感情は消え、段々とそれぞれの道を歩み始めていた。それぞれが、本当の意味で自立し、大人になったのである。もう、子供の遊びでつながれるほど純粋な友情は存在しない。


 美咲は黙って私を見ていた。ウエイターはコーヒーのお代わりを持ってこようとしたが、美咲の真剣な表情を見てピッチャーを持ったまま、下がっていった。


 私は深く息を吸った。そして、ゆっくりと頷いた。


「分かった。彼女の真実を探りましょう」


「由香里には言っているの?」


「ええ、全部話したわ。彼女も協力してくれるって。たまたま、会社の都合で今日は来られなかったけど……」


 美咲は安堵したような表情を浮かべた。そして、再び無邪気な笑顔を見せながら言った。


「ありがとう。悦子のために、私たちにできることをしましょう」


 その笑顔の奥に、私は何か計算されたものを感じ取っていた。


 窓の外では、仕事帰りのサラリーマンたちが足早に歩き、ショッピングバッグを下げた女性たちがウィンドウを覗き込んでいる。夜が始まろうとしていた。


 私は残ったブラックコーヒーを一気に口に流し込み、椅子の背もたれにかけていたコートを羽織った。カフェの店員の笑顔が妙に頭に残った。


 悦子の交際相手だったというFについて、三人で東京のカフェで落ち合って話し合った。美咲は、Fに直接会いに行くことを提案した。

 

 私と由香里は反対した。

 

「会いに行って、『私が自殺の原因です』なんてDV相手が言うわけないじゃない」由香里が冷静に言った。「それに、それを突き止めたって……」

 

 実際、この会合も実際には悦子を偲ぶためだと思っていた。だが、美咲は頑として主張を曲げず、結局私たちは従うことになった。

 

 帰りのタクシーで、美咲は小さな声で言った。

 

「私は、悦子を殺した人間を許せない……」

 

 悦子は愛知県で事務職として働いていた。そして、マッチングアプリでFと出会ったという。Fは悦子よりも三つ年上で、エンジニアとして機械会社で働いていた。なんでも、Fが乗っていたのはBMWだったという。

 

「金があれば何でもいいのか」美咲がぼやいた。

 

 由香里は窓の外を見ながら言った。「仕方ないじゃない、彼女はそういうところがあったから」

 

 車内に気まずい雰囲気が漂った。そのとき、私は川村君の話題が出ることを恐れた。しかし、タクシーは沈黙に包まれた。年配男性運転手の静かな運転に皆が意識を集中させ、気まずい雰囲気をごまかしているようだった。

 

 そして、年末、地元に帰った時に三人でFの元へ向かった。この時、車内で美咲はある事実を話した。

 

「実は、Fは悦子が……行為に及んだ時の動画を保存しているの。それは、かつて悦子が私に相談したことよ」

 

 由香里は嫌悪感で顔をゆがませた。

 

「だから、今回の目的も本当は真実を知ることじゃない。彼女の名誉を守らないと……」

 

 私は、それを聞いて覚悟を決めた。

 

 Fが住むのは駅前の新築マンションの7階だった。美咲が宅配業者の振りをして部屋に入り込み、部屋を探索することになった。私と由香里は1階のエントランスで見張りをした。

 

 そして、FのBMWが駐車場に戻ってくるのが見えた。間一髪で美咲は部屋から出てきて、「これよ」と言って、小さなHDDを手に握りしめていた。私たちは裏口から出て、乗ってきたタントでその場を後にした。

 

 美咲は満面の笑みで言った。

 

「彼女の名誉を守れてよかった」

 

 そして、私たちは東京へ戻った。

 

 その後、私はたまたまニュースサイトで愛知県の火事のニュースを見た。なんでも、マンションの一室から火事が起こり、一人の男性が亡くなったという。顔写真は美咲が見せてくれたFの顔だった。

 

 私は怖くなって美咲に電話をした。

 

「これはどういうこと?」

 

 美咲は静かに答えた。

 

「だから、言ったじゃない。私は悦子を殺した人間を許さないって」

 

 私は池袋を歩きながら、辺りを見渡した。全身に寒気を感じた。通り過ぎる人々の顔が、どれも怪しく見えた。

 

「私と悦子は一心同体だった。彼女と私はお互いが悪いところを補って、一つの完璧な存在だったの……」

 

 私は立ち止まった。路を行く人が私を避けて過ぎ去っていく。

 

「あの日、あなたが何て言ったか覚えている?ほら、悦子が地元に残ることを決めた日よ」

 

 私は思い出した。私は、その時、彼女にこう言ったのだ。

 

「悦子は一生、地元で暮らすのがお似合いよ」

 

 それは、かつて学生時代に川村君を取られたことに対する復讐でもあった。

 

「彼女、そのことでずいぶん傷ついたの。たかが就活でミスしたくらいで、なんで人格を否定されないといけないわけ?そんなに東京で働くのが偉いの?」

 

 私は察した。プライドの高い彼女が地元に残り、代わり映えもしない毎日を過ごすのがどれだけ彼女を傷つけたのか。そして、それが彼女を最終的に7階から飛び降りさせたのか。

 

 池袋の夜の喧騒が、急に遠くに感じられた。ネオンサインが点滅し、人々の声が混じり合う中で、私は一人取り残されたような孤独感に襲われた。

 

「じゃあね、絵美。また、会おうね。私たちは友達よ」

 

 電話が切れた。手の中のスマートフォンが冷たく感じられ、恐怖の余韻だけが夜の街に残された。私は震える手をコートのポケットに突っ込み、足早にその場を去った。街の灯りが滲んで見えるのは、涙のせいなのか、それとも恐怖のせいなのか、もう分からなかった。

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