第9話 日すがらもの思ふ頃は
「……じゃあな、くるみ」
そう言って扉を背にしたあと、なんとなくチカは、歩き出す足取りが重かった。
先を行くタクの後ろ姿を、追いかけようという気にならない。
漂っていた、あの墨の匂い。
久しぶりに嗅いだのに、懐かしい、だけじゃ済まない感じがして、胸の奥がやけにざわついていた。
くるみの字、相変わらず綺麗だったな。
小さいころ、くるみの家の教室で一緒に筆を持ったことを、思い出した。やんちゃな同級生も多くて、いつも先生が怒ってばっかりだったな。
でも、そんな中でもくるみは、いつも背筋を伸ばして机に向かっていた。子ども心に、その姿がものすごく大人に見えた。
あの時、くるみは、どんな気持ちで筆を持っていたんだろう。
他の女の子のように急に大きな甲高い声で怒ったりしない。誰かの気を引こうともしない。
いつも、くるみだけがひとり、なんか澄んだ世界の中に生きてるみたいだった。
“恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり――”
くるみが読み上げた歌の意味が、頭の奥に残っている。
――まだ、好きって言ってないのに、噂になる。
なんだ、それ。
それって、まるで、今の俺じゃん。
何も言ってないのに、周りが勝手に騒いで、佐奈と付き合ってることになってる。
たしかに佐奈とは仲がいい。バスケ部のマネージャーとして助けられてるし、よく話しをする。嫌いではないし、正直かわいいという周りの反応もちゃんとわかる。
でも……「付き合ってる」って噂が立っているのは、自分としては違う。
そもそも、恋愛として「好き」かどうかで言うと、まったくそうではない。
――女子って、そういうの、嬉しいわけ?
変な聞き方だったかもしれない。でも、気になった。
あれ、くるみに聞いてみたかったんだと思う。
噂を聞いてどう思ってんのかっていうのを知りたかった。
驚いた顔だったけど、答えはすごく普通だったな。なんとも思ってないんだろうな。
だいたい、くるみがその噂を知って、どう思って欲しかったんだ、俺は。
『あの噂、ホント?』って聞いて欲しかったのか?そしたら、ちゃんと違うって言えたのに?
くるみに、あれはただの噂だからって伝えたかった。
「あーーー」
チカは、体育館の入口の大きな鉄の扉に頭をつけて寄りかかって、小さくうめいた。
「何やってんだよ、チカ」
タクが驚いた顔をしてこっちを見る。
ホントだよなー、何やってんだ、俺。
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