8
次の日、俺は少し憂鬱だった。展望台へと続く階段の前に来てもいつものように心が躍らない。何でもないと思っていた階段が、職員室の扉のようにそびえ立って見える。
「別に今日じゃなくても良いよな……」
そんな事を言っても仕方ないのは分かっていた。結局、いつかは彼女の不思議に触れる時が来るのだ。それは確信だった。ならば、覚悟を決めて今聞いてしまった方が良いに決まってる。
俺は階段の一段目に足をかけた。一歩一歩踏みしめるように上る。そのうちに、覚悟が決まってきた。そうだ。ただ、ちょっと聞いて見るだけで良い。友達に誕生日を聞くようなものだ。階段を上り切る頃にはもうすっかり自信がついていて、いつものように大きく手を振るクー姉に、同じ様に大きく手を振り返す余裕すらあった。
「あれ? 今日はノリが良いじゃん」
クー姉が言った。
「どうしてそう思うんだよ」
「だって、いつもは私が手を振っても控えめにさ。横断歩道のルールをしぶしぶ守る子供みたいな感じで小さく手を上げるだけじゃん」
「いくら何でも、その例えは悪意があるだろ」
今までずっとそんな風に思われていたんだとしたら、結構ショックだぞ。
「ごめんごめん。冗談だって。そんなに傷ついた顔しないでよ」
「してない。もうこの話は良いよ。今日はクー姉に聞きたいことがあったんだ」
「ん? なに? 言っとくけど、勉強は教えられないからね。もうコウ君がやってるところは難しいし、覚えてないから」
そう言ってから、彼女は自分の言葉に笑った。
「そんなんじゃないよ。クー姉ってさ————」
俺はあの質問をしようとして、口を開きかけ、止まった。なんて聞けば良いか分からなくなってしまったのだ。あなたは人間ですか? なんて、そう簡単に聞けるわけがない。見た目が変わらないのはどうしてですか? なんて聞けない。俺はずっとクー姉と過ごしていたんだ。もう八年の付き合いなんだぞ。
この町にいるのが秋の間だけだとしても、その間は毎日のように顔を合わせていたのだ。初めの数年は本当に気付かなかった。違和感を感じたのはこの小学校の高学年になってからだ。そこから三年も目を逸らしてきたのに。今更……。
俺はとっさに別の言葉を口から出した。
「——何歳?」
その瞬間、意識が飛ぶかと思うほどの衝撃が左頬を襲った。
——パァーン!
遅れて音が聞こえる。視界がぶれ、首が捻れる。
たたらを踏み、耳に残った音が消えた後、漸くビンタされたのだと分かった。
「女性にそんなこと聞かないの!」
クー姉のお叱りの声が聞こえる。
「……ッ。叩かなくても良いじゃん!」
俺が涙目になりながら叫ぶと、クー姉は罰が悪そうな顔で、
「ごめん。つい……」
と謝った。
「あんなに深刻な顔をしてるから、何を聞いてくるんだろうって身構えてたのにさ。年齢なんて聞くから思わず叩いちゃったんだ。反射的にさ。ごめんね!」
「ごめんって言えばなんでも許されるわけじゃないから」
「そうだけどさ。でも、突然年齢を聞いてくるコウ君も悪いと思うよ。世の女性は年齢を聞かれるのが嫌いなんだから。相手が嫌がることはしないの」
そう言われると、確かにこっちが悪かったような気がしてくる。いや、聞きたかったことは別にあるんだけど。……もう、聞くような雰囲気ではないか。
俺は話を変えようと、気になっていたことに触れた。
「前から聞きたかったんだけどさ。そのブレザーなんでボタンが付いてないの?」
流石にクー姉もさっきのが本当に聞きたかったことだとは思っていなかったのだろう。彼女はそんなことが聞きたかったのかと驚いて、自分のブレザーを見た。
二つ付いているはずのボタンが両方とも取れているせいで、一見、はっぴのようだ。彼女は手持ち無沙汰の時、空いているだけのボタンの穴を指でいじる癖があった。小さい頃は俺もボタンの穴に指を出し入れしたものだ。そのせいか、ボタンがないくせに、穴はくたびれている。
「……そういえば、この話はしたことがなかったね」
彼女はそう言って、ベンチの空いている所をそっと叩いた。俺が座るのを待ってから、彼女は町を眺めながら、独り言を話すように語り始めた。