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「風呂出たよ」
「洗濯機もう付けちゃって」
お母さんに言われて、洗い物を入れる。ボタンを押すと、洗濯機が音を出し動き始めた。我が家は乾燥まで自動でやってくれるドラム式だ。扉に映った半透明な俺の向こう側で、ワイシャツやエプロンが回っていた。一番上まで上った服が、力なく落下をする。そんな一連の流れが繰り返されているのを見ていると、まるで自分が無力でどうしようもないやつに思えてくる。
「コウ。昨日の進路調査のプリント。サイン書いて机に置いておいたからね」
お母さんの声が聞こえて、意識が戻る。ダイニングに戻ると、食卓の上に畳まれた昨日の洗濯物と共にプリントが置いてあった。
「赤高に行ったら、お母さんの後輩になるわね」
「お母さん赤葉見高校だったの?」
知らなかった。だけど、それもそうか。俺が生まれてからの十三年と少し、親の高校を知る機会はなかった。お母さんだって、隠していて言わなかったのではなく、聞かれなかったから言わなかったのだろう。
「そうそう。懐かしいわね。そうだ。卒業アルバムがあるわ。ちょっと待ってて」
お母さんはそう言うと、室内用のスリッパを鳴らして本棚の方へと向かった。別に興味があったわけではないけど、断り損ねてしまった。一度手に取った洗濯物とプリントを食卓に戻し、本棚の方へと行く。取り出された卒業アルバムは何年も前のもののはずなのに、今年貰ったばかりかのように綺麗だった。
「ほら、私の頃は校舎もこんなに綺麗だったのよ。今は随分ボロくなっちゃって。コウは見たことあったっけ?」
お母さんは卒業アルバムの最初のページを指して言った。校舎を背にした集合写真だ。学年の生徒が全員、四列になって並んでいる。左上には一人別日に撮られた写真が載っていた。眼鏡をかけた男だった。
お母さんは昔を懐かしむようにページをめくる。数ページは体育祭や、文化祭の写真が続いた。
「修学旅行は沖縄だったなぁ。今も変わってないんじゃない?」
「沖縄か。暖かそう」
「暑いくらいだったよ。二年生の秋頃に言ったんだけど、こっちとの温度差で風邪引いた子がいたわ」
お母さんは眉間にしわを寄せて言った。ページはクラス毎に生徒が並んでいる所まで来た。一組の生徒はみんな証明写真でも撮っているかのように緊張した面持ちでこちらを向いている。
「ほら、この人は市川さんのお父さんよ。分かる?」
「あー。似てる」
市川という名前も、顔も覚えていなかったが、適当に答えた。けれど、お母さんにはそんなこと見透かされていた。
「そんなに人数いるわけじゃないんだから、ちゃんと覚えなさいよ。私達の頃はクラスが十クラスもあってね。これでも少ない方だったんだから。もうちょっと都会の高校なら、十三クラスとかざらにあったらしいわ」
それから、お母さんはそろそろお父さんのご飯を準備しないと言いながら、卒業アルバムを閉じようとした。
「ちょっと待って。大事な事忘れてるよ」
俺は閉じられるページに手を差し入れた。お母さんの動きが止まる。
「高校生の時のお母さん見てないじゃん」
「別に見なくても良いんじゃない?」
「いや、ここまで来たなら見させてよ」
俺の言葉にお母さんはさっさと立ち上がると、キッチンの方へと逃げた。
「クラスくらい教えてくれても良いじゃん」
一クラスづつ探していくにしても、十クラスある上に一クラス当たりの人数も多い。俺は一組の顔を左上から右下まで流れるように見ると、ページをめくった。それを繰り返し、六組のページにお母さんの面影を見つけた。
今と違い、ロングにして前髪を切りそろえている。左眼の泣きぼくろは変わっていなかった。しわのない顔は若々しく、我が母ながら綺麗だった。自分の母親が学生の頃モテていたなんて話は聞いたことがないが、クラスに二、三人はお母さんのことを好きな人がいたんじゃないかと思える。
「あれ?」
ふと、違和感に気付いた。高校生の頃のお母さんを見ていると、何処かで見たことがある気がするのだ。いや、お母さんなのだから当然なのだけど、何かが……。
「これ、クー姉の制服と同じだ」
高校の制服なんて、どれも同じように見える。もしかしたら似ているだけで違う制服なのかも知れないが。俺には同じ制服にしか見えなかった。
いや、それはおかしいのだ。確か俺は小学生の頃に赤葉見高校に行って、制服が違うことを確認している。だからこそ、警備員さんには転校生がいないかと聞いた。俺はアルバムを抱えると、お母さんのいるキッチンへと向かった。
「ねぇ。この制服ってさ」
「ん? あぁ。確か今と違うのよね。私が卒業して直ぐに制服が替わって。可愛くなったから、なんで私達がいるときじゃなかったんだ! って友達と話したわ。なんだっけ。確かなんか事件が起きて、そのイメージ回復とかそんな理由だったのよ。よく気付いたわね。実は結構、赤高に行きたい?」
お母さんは良かったわ。全然やる気なさそうだったから心配してたの。と上機嫌で魚を焼いている。気付いたのは高校受験のモチベーションとは全然違うところからだったけど、わざわざ訂正する必要もない。俺はもう一度、過去のお母さんを眺めてからアルバムを閉じた。
「アルバム、ここに置いとく」
そう言って、畳まれた洗濯物と交換する。洗濯物の上に乗っていたプリントが落ちたのを拾い、自分の部屋へと戻った。足を使って扉を開け、ネットで買った安物のゲーミングチェアに腰を下ろす。
——いい加減、自分を誤魔化すのを止める時が来たのかもしれない。
机に置いた洗濯物の上に鎮座する進路調査表は、俺の未来だ。保護者のサイン欄にはお母さんの字でお父さんの名前が書かれていた。俺は来年この高校を受験して、落ちるか受かるかして、どちらにせよ何処かの高校には行って。いつか大学を卒業して、就職して、そうやって大人になっていく。
いつか展望台でクー姉と遊べなくなる日もくるだろうし、昔のままではいられない。ならばせめて、気付かないふりを止めるべきだ。
——クー姉は魔女だ。
そうじゃなくても、妖怪とか神様とかきっとそういった類いだ。人間じゃない。彼女は歳を取っていないのだ。じゃないとあれほどまでに見た目が変わらないなんてあり得ない。
俺は、引き出しの奥から、一冊のノートを取り出した。表紙にはつたない字で『おもいでノート』と書かれている。クー姉と出会った頃に書き始めて、一年ちょっとで止めてしまった日記帳だ。これを読めば、俺の記憶があっているかどうかが分かる。
クー姉は俺が小さい頃、よく不思議なことをしてくれた。狐の窓もそうだし、落ち葉を操ったり、水や風、火を生み出したりした。どんな雨の日だって、彼女が天に手をかざせば虹がかかったのだ。
俺はノートを開いた。そして、読もうとして、止まった。
「俺、字下手過ぎだろ」
小学一年生だったとしても、下手な方だった。先生は良くこんな字を解読できていたものだ。我ながら、下手すぎる。解読には時間がかかりそうだった。
仕方ない。俺は一旦ノートを閉じると元の場所にしまった。わざわざ解読作業に時間を取らなくたって、本人に直接聞けば良いのだ。明日は塾があるが、明後日には展望台に行ける。そこでクー姉に聞こう。俺の記憶が正しいのか、夢と混合しているだけなのか。彼女の真実を。