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「終わったー」
人がまばらになった教室で、疲れ切った声が隣から聞こえてきた。
「お疲れ様」
俺は問題集をバッグにしまいながら彼女をねぎらう。黒板を写しただけで、少しも頭が良くなった気がしない。強いて言うなら、どんなに退屈でも授業中に巫山戯てはいけないという当たり前を、身を以て知ったくらいだ。
「さっきはごめんね。私のせいで怒られちゃった」
「別に気にしないで良いよ。俺だって退屈だったからな。先生と目が合ったときは肝が冷えたけど」
「肝が冷えたとか、変な言い方」
秋月はそう言って笑った。肩の力が抜けたような笑い方だった。やっぱり、授業中のことに罪悪感を抱いていたみたいだ。彼女はバッグを持つと出口の方を向く。
「ほら、早く教室を出よ。もうこんな所にはいたくない」
「また、明後日来なきゃいけないけどね」
「え、明後日? 白駒君って明日来ないの?」
やけに深刻な声だった。見ると、彼女の表情は引きつっている。何がそんなに衝撃だったのか、脳みそがフリーズしたみたいに固まっている。
「俺は月水金だから」
机の上を片付けて、忘れ物もない。バッグを手に持ち、未だに動かない秋月に帰らないの? と聞くと、彼女は電池が切れかけている機械仕掛けの人形のように、動き出した。
塾の外は既に暗くなっている。少し前までは夜でも生暖かい風が流れていたのだけど、最近は心地の良い涼しい風が肌を撫でてくれる。週末は一気に寒くなるらしいけど。
俺の家は右の方にある。白く光る塾の看板の下で、秋月の方向はどちらか聞こうと振り返ったら、丁度彼女が口を開いた。
「私は月火木なんだ……」
「さっきの話? じゃあ、週に一回しか会わないのか」
少し、残念だ。一緒に授業を受けられたら楽しかったのに。
そんな事を思う。それと同時に秋月の様子がおかしいことに気付いた。いや、さっきからおかしかったけど。険しい顔をして押し黙っている。こういうとき、話しかけた方が良いのか、待った方が良いのか。俺には判断付かない。どちらか決めかねて口を開いては閉じてを繰り返していたら、急に彼女が声を出した。
「覚悟を決めてきてたのに。白駒君が同じ塾って言うから、完全に明日も一緒の授業だと思ってた」
その声は体育のある日に体操服を忘れた時のように、絶望に満ちていた。赤峰中の体育教師は忘れ物に煩いのだ。独り言のようでもあり、俺に言われたようでもある言葉に、なんて返せば良いか分からず困っていると、彼女は勢いよく俺の顔を見上げた。
「私、知ってる人が誰もいない場所苦手なの」
……なんで集団塾選んだんだろう。
俺の困惑を察したように彼女は話を続ける。
「余り高い所に行きたくなかったの。塾なんてお金が掛かるだけなんだから、別に行く必要なんてないって言ったんだけど。……パパがどうしても行っておけって言うから」
パパがと言った秋月は複雑な顔をしていた。仲が良くないのかも知れない。俺だって、親のことが好きかと言われれば答えに困る。仲が最悪に悪いという訳じゃ無いけど、煩わしく思うことも多くなった。だから、俺は少し同情して答える。
「そりゃ、大変だな。俺も安いからこの塾にしとけってお父さんに言われたんだ」
——本当は集団の塾が良いと言った俺の意見が採用されたからなのだけど、お父さんが安いから良いなと言ったのも嘘じゃない。
「うん。ここら辺で一番安い塾ってここだから。駅の方は個別塾ばかりでどれも高いし。って、そんなことはどうでも良いんだよ」
彼女はそう言って話を戻す。
「明日、白駒君いないんだったら、教室が知ってる人のいない空間になるってことでしょ? どうしよう」
「どうしようって。別に給食の時間があるわけじゃないんだし、授業受けるだけだろ?」
「でも、不安なの」
「そう言われても、俺なんにも出来ないけど」
何を求められているのか分からず、口を閉じる。丁度その時、自動ドアが開いて中から生徒が出てきた。俺達の教室にはもう誰も残っていないはずだから、別の授業の生徒だろう。彼は塾の前で立ち話をしている俺達を横目で見ながら駅の方へと歩いて行った。
「あ、俺こっちなんだけど、秋月は?」
「私も同じ方」
俺達は来た時と同じように二人並んで帰り道を行く。街灯の光りで出来た影が伸びたり縮んだりしていた。横を見ると、秋月の横顔が見える。通り過ぎて行く車のヘッドライトに照らされて、濃い影を落としているのが、急に彼女が大人になったような気がして落ち着かなかった。
「授業終わったら、こんなに暗いんだね」
ぽつりと彼女が呟く。さっきの話はもう終わったらしい。
秋月の歩く速度は遅い。それはわざとそうしているとかではなくて、元々俺と比べて歩幅の狭い彼女が普通に歩いているだけなのだけど。俺はそんな彼女の歩みに合わせて、意識してゆっくりと足を動かした。
「女子がこんな時間に歩いて危ないとか言われないのか?」
「……うちはちょっと特殊だから。それに夕方の方が怖いよ」
不用意なことを聞いてしまったらしい。彼女が話を逸らしたのは分かったが、俺はそれに乗っかった。少し興味もある。
「なんで夕方?」
そう尋ねると、彼女は後ろを振り返った。釣られて振り返るが、夜道が続いているだけで、誰もいない。視線を戻すと、秋月は誰かに聞かれまいとするように、声を潜めた。
「お化けが出るんだよ」
「お化け? 夕方に?」
お化けの出番は夜からだろう。夕方に出てくるなんて随分気の早いことだ。馬鹿らしいと思いつつも、なんとなく声を潜めてしまう。こうして話していると、本当に知らない何かがこちらを伺っているような気がして気味が悪い。
「夜に出るお化けなんて怖くないよ。夕方が危ないの。夕方は境界線が曖昧になってるから、向こう側に連れて行かれるかもしれない。それに噂を聞いちゃってさ」
彼女はそう言って身を寄せてきた。肩が俺の腕にぶつかり、制服越しに女子の華奢さが伝わってくる。でも、彼女の顔に浮かぶ緊張感が呑気に喜ばせてくれない。
「自転車を漕いでるお化けの話。目が塞がってて、大きな口をしている。追いかけてきて捕まると連れて行かれちゃうんだけど、そのお化けは自転車に乗ってるから逃げられない。見つかったら終わり」
「ただの噂だろ。第一、俺はそんな話聞いたことないぞ」
「それは白駒君に友達がいないからでしょ。それにね。調べたの。昔、夕方に失踪事件が起こってる。子供が何人も消えたって。何年も経ってるのに未解決なの」
「そんなの偶然だろ。何年も遡れば未解決の失踪事件ぐらい何処にでもあるって」
秋月の瞳が俺を捕らえている。何を考えているのか分からない。まさか噂を本気にしているなんて思わないけど。冗談にしてはたちが悪い。
——本日秋魚が大特価! 大特価です!
「うわっ!」
勢いよく音のした方へ振り向く。いつの間にかスーパーの前まで来ていたようだ。スーパーから出てきたおばさんは片手に膨らんだエコバックを持って、四人乗りの車の扉を開けた。広い駐車場には空きが多い。もう夕飯の準備には遅い時間だからだろう。
「あ、私ここで。夕飯買って帰らなきゃだから。じゃあね。また明日」
「え。うん。じゃあ」
唐突でろくに反応も出来ないうちに。秋月は手を振ってスーパーへと入っていった。
夕飯を買うと言っていたし、彼女の家では塾の日はスーパーでお弁当を買うことになっているのだろうか。遅くなるし、お母さんが夕飯を作って待っていてくれる俺の方が珍しいのかもしれない。
ふと、空を見上げると楕円形の月がこちらを見下していた。十五夜まではまだ日がある。なんだかお腹が空いてきた。俺はスクールバッグを持ち直すと、家路を急いだ。