7.殺人犯と保護司
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鈴木よういちは、刑務所の門の前で深深と頭を下げ、長年過ごしてきた刑務所に別れを告げた。その足で男は保護観察所へと向かい、阿部保護観察官のいる建物へとたどり着いた。
「お待ちしていましたよ。鈴木さん。」
保護観察官はそうにこやかに男を迎えてくれた。小さな部屋に通され、男は諸々の説明を受けた。
この日は、鈴木よういちという男が、仮釈放される日だった。
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「では、鈴木さん。遵守事項を守って頂いて、仮釈放の間はゆっくりと過ごしてくださいね。問題行動を起こさないように、とありましたけど、鈴木さんなら大丈夫です!ここを出たあとは、とりあえずこちらの家に向かってください。」
ひと通りの説明を終えると、保護観察官は男に、小さな地図の書かれた紙を手渡した。住所は男の家の近くの一軒家、と書かれていた。そこに保護司を務める右記という男がいるから、その人と仲良くしてくださいね、とだけ言われた。
「……はい、分かりました。色々と……本当に阿部さんにはお世話になりました……」
鈴木よういちは保護観察官の男に深深と頭を下げて、保護観察所をあとにした。
男が住所にあった家にたどり着くと、「おかえりなさい。こちらです。」と、優しそうな男性の声が聞こえてくる。
声の先を辿ると、スーツを着ている男性。
「はじめまして。右記と申します。」
そうにこやかに笑う男性に、鈴木はほっ、とした空気に包み込まれた。
「実はですねえ、今日は仮釈放のお祝いで、牛丼を買ってきました!」
「……いいですねえ」」
服役前によく食べていたと聞きました!と楽しげに笑う右記に、鈴木はにこりと口角を上げるだけだった。
確かに、チェーン店で食べる牛丼なんて、刑務所の中では食べられなかった。出所したら食べるだろう、と思ってはいたが、人から振る舞われるなんて想像もしていなかった。
鈴木はいそいそと慣れないテーブルイスに座り、ふたつある並盛の牛丼のうちのひとつを食べた。
「………おいしい」
一人で食べていた時とは違う、美味しさに思わず泣きそうになった。
「美味しいですね!鈴木さん!」
「…………はい」
牛丼を食べている時は、大体が飢えを凌いでいる時だけだった。お金が無いが、自炊をする気力がない時。500円程度しかお金が無かった時。バイトの後輩に奢らないといけない時。何時だって、汚い数百円を握りしめて食べていた。何かの代わりだった。それなのに、こんなにおいしいのか。
鈴木はガツガツと勢いよくかき込んだ。
久しぶりの満たされた食事に、鈴木という男は心も満たされたような心地だった。
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ゴウン、ゴウン。心地のいい生活音。
ガチャ、ガチャ、と聞こえる皿の音。
静かで、微かに聞こえてくる生活の音。
微睡みを誘いそうな時間の中で、保護司が一息ついていると、鈴木は「あのっ……」と話を切り出し出した。
「……保護司さん、聞いてください」
「はい、なんですか?」
心を許した鈴木は、保護司の右記に、自身の胸の内を明かした。
「ぼくは……人を殺したあの日のことを、今でも覚えています。ナイフで刺したあの時の感触は……忘れられません。……ぼくは……もう、まともじゃないのかもしれません。」
ー人を殺したのですからー
そう涙ながらに訴える鈴木は、どこか遠くを見ていた。人として、超えてはならないラインを超えたのだ。鈴木は、泣きながら饒舌に語り始めた。
「人を殺したのは、ほんとうに勢いだったんです。でも刺した瞬間思いました。『ああ、ぼくはなんてことをしてしまったんだ』って……。そして、ぼくは、あろうことか逃げてしまったんです。……情けない話しですが、自業自得なのに、ただひたすら怖くて……このまま警察に捕まったらどうしよう、とか。とにかくずっと怖くて逃げていました。……でも正直警察がすぐにきてくれて、本当に良かったと思います。ぼくは情けない奴なので、あの時ちゃんと後で自首をするのかわからなかったので。……勝手に逃げ回って、勝手に1人で苦しんでいたと思います。」
ーだから、もういいんです、残りの人生は遺族の方に罪を償って、できるだけ慎ましく生きていきます。ー
「だから、今日限りで幸せになるのをやめたいんです。右記さんも。仕事かもしれないですが、ぼくに優しい言葉をかけなくて大丈夫です。……久しぶりにご飯が美味しかったです。ありがとうございます。」
そう言葉をもらす男に、右記はしゃがんで歩み寄り、上目遣いで小さく切り出した。
「……確かに人を殺すことは普通ではありません。ましてや過去の過ちを消すことは出来ません。貴方は確かに人を殺し、人に迷惑をかけました。……でも、そうやって自覚をして、前に進もうとしているじゃないですか。……大丈夫です。貴方なら、絶対にやり直せます。」
ーだから、貴方の人生をまだ諦めないで下さい。ー右記がそう手を取り語りかけると、鈴木は「そんなのは綺麗事なんです。」と小さく泣いていた。「きれいごとじゃないんです。貴方みたいな人が、人生を諦めてしまうことに耐えられないんですよ」と右記は小さく泣いた。
鈴木という男は、その涙の何倍もワンワンと泣いた。ひたらすらに泣いて泣いて、ただ叫ぶように泣いて、そうして小さく「ありがとうございます…」とだけ漏らして涙を拭った。
鈴木よういち仮釈放初日。
泣き疲れた彼は、久しぶりに夢を見ない眠りの中で朝を迎えた。