原作崩壊に臨んだ結果
そこそこの国に存在している貴族たちが通う学園。
小さな社交場として人間関係を作ったり人を見る目を養うためのそこには、成人前の年頃の貴族たちが通っている。
基本的には自国にある学園に通う事になるのだが、場合によっては留学だとか親の仕事の都合上共に移動して別の国の学園に、なんて事もある。
学園は国によって多少の違いもあるけれど、基本はそう変わる事がない。
とはいえ、人間関係次第でいくらでも変わってしまうわけだが。
ある国の学園で、ちいさな騒ぎが起きた。
大っぴらにならなかったのはそれが学園内での事件だったからと言えよう。
学園内部は将来国を背負って立つ貴族たちによって様々な運営がなされている。一つの自治区みたいなもの、と言えばいいだろうか。
生徒たちの自主性を育むべくなのか、生徒会がそこそこの権力を持っている。
一部の人間からすれば、あぁはいはいよくあるやつねオッケ把握、とか言いそうなやつだった。
その学園で、とある令嬢を取り巻く恋の事件が巻き起こった。
彼女はマリエル・サニーディット。男爵令嬢である。
貴族と言っても平民に近しい生活を送っていた彼女は、ある日突然魔法の力に目覚める事となる。
その魔法は人の傷を癒し、また植物の成長を早める力であった。
かつての聖女の再来――そんな噂もかすかであったが囁かれていたのだ。
そして、そんな彼女に恋をしたのか彼女の周囲には数名の令息たちがいた。
これだけ聞けばファンタジージャンルの恋愛物か、一昔前どころか乙女ゲーム黎明期にとっくに使い古された設定ですか? と言いたくなるようなものだが生憎この世界にそんなものはなかったので、そういった部分に誰も突っ込むことはなかった。
さて、マリエルが誰か一人とくっついてハッピーエンドを迎えていたならよかったのだが、彼女は何と言い寄ってきた令息たち全員と関係を持ってしまった。乙女ゲームで言うところの逆ハーエンドというやつだろうか。
だがしかし、この世界はいくらそういった世界観っぽくあったとしても現実である。
現実として考えれば、その状況はとても危ういどころか一番最悪の選択肢だ。
そこそこ身分のある令息たちを複数名手玉に取ってしまったようなものなのだから。
マリエルの近くにいた令息たちが全員同じ派閥に所属している貴族たちであったなら、まだどうにかなったかもしれない。けれども、別の派閥に所属している者もいた。
学園内部がいくら縮小された社交場で、学園内部では身分に関わらず学ぶことに関しては平等である、なんて言われていたとしても流石にこれがどれだけ不味いかは余程のアホでなければわかるだろう。
誰か一人に絞ってそいつとくっつくなら問題はなかった。
けれども、派閥が違う家の令息たちと関係を持ってしまった。
この関係も単なる友人関係で言い逃れができる程度であればまだ良かったのだが、なんとマリエル、身体の関係を持ってしまっていた。
しかも関係を持った相手の中には婚約者がいる者までいたというではないか。
おおよそ考えられる限りで最悪である。
そんな欲張りバリューセットどうして選んじゃったの、とどうして誰も突っ込まなかったのか。いや、そこに転生者がいなかったらそんな事誰も言うはずがないのだが。
婚約者であった令嬢の身分がこれまた高い事もあって、マリエルの立場が好転しそうな気配がまるでしない。
事が大きくなったのは、学園で行われたとあるパーティーの日であった。
婚約者のいた令息が婚約者である令嬢に婚約破棄を突きつける。
更には彼女がマリエルを虐げていたと声高にのたまったのだ。
魔法は人によって威力に差があるが、マリエルは癒しと植物の成長に関して特化していた。だからこそ、怪我を負わされても魔法で治していた、と言われれば怪我をしていない理由はつく。
他のマリエルに侍っているも同然だった令息たちもマリエルを守る騎士のように彼女の周囲にいて、厳しい眼差しを周囲へとむけていた。まるでこの場にいる自分たち以外全てがマリエルの敵であると言わんばかりに。
婚約者であった令嬢がマリエルにした事と言えば、貴族として当然の礼儀作法がなっていなかった事を注意した事と、あとは婚約者のいる相手に必要以上に近づいてべたべたしないようにと忠告したくらいである。
常識的、というよりはいっそかなり良心的な対応であった。
本来ならば邪魔な相手を蹴落とすにしても、やり方を選ばなければ今頃マリエルの心には生涯癒えない傷ができていたかもしれないのだから。
マリエルの癒しの魔法はあくまでも肉体的な怪我を治すだけであって、心の傷まで対処できるものではない。
さて、断罪しようとしていた令嬢に淡々と論破されさながら正義は我にあり! とばかりであったマリエルたちの立場は一瞬で転落した。諸悪の根源はマリエルである、という事になり彼女は牢獄へと押しやられ――かくして、学園に平和が戻ってきたのであった。
――ビアンカ・マーレは転生者である。
前世で読んでいた小説に近しい感じの世界観だなと思いながらも、まぁそこそこ妥協できる範囲の不便さをどうにかしつつ生きてきた。
ちなみに読んでいた小説の中にビアンカというキャラはいなかったので、成程オッケー自分はモブ! という認識で生きていたのだが、自分を雇ってくれていた貴族の令嬢が特に非はないにも関わらず噛ませ犬系悪役として転落人生からの死を遂げる事になると知り、原作を改変しようと試みた事があるだけの、そこまで特筆すべき点はない転生者であった。
自分の雇い主である令嬢の破滅人生は回避され、彼女を溺愛する侯爵青年と結婚し現在彼女は幸せな人生を送っている。
だがしかし、彼女に秘めた想いを抱いていたのを小説読んで知ってるし、という事で彼女の婚約者として彼なんてどっすか? というノリでお勧めした結果、何でか優秀な人材の烙印を押されただのメイドであったはずのビアンカは気付けば侯爵青年の家で諜報部員のような仕事をする事となってしまったのである。
戦闘とかはからっきしなため、暗殺者みたいな物騒な仕事は回されなかったのが救い。
自分の恋のキューピッドになったビアンカの事を、侯爵青年は好意的に見てくれている。人脈だけは馬鹿みたいにあるからか、好みのタイプとか聞かれて答えたが最後、程よい感じの結婚相手を見繕われそうで怖い。
ビアンカが仕えていた令嬢もまた、元婚約者が浮気していただとか、母親がしでかした悪事を彼女のせいにしようとしたのを暴いた事でビアンカの事をかなり信頼していた。
何せあのままであったなら、全ての悪事の元凶とされて着の身着のまま家を追い出され行くアテもないままロクでもない未来に突き進むしかなかったかもしれないのだ。
騙されて人買いに売られどこぞで奴隷生活、なんていう想像が本当に現実になっていたかもしれない。そう思えば、そんな最悪の未来を粉砕してくれたビアンカには感謝するしかない。
侯爵青年からの過大評価に関しては正直胃がキリキリしそうだが、侯爵夫人となったお嬢様の期待には応えたい。そんな感じで仕事を頑張れば頑張っただけ、侯爵青年からの評価が上がって最近ビアンカは胃薬を常備するべきかどうか悩んでいたのだが。
そんな彼女にとある任務が下されたのだ。
隣国にある貴族たちが通う学園での情報収集。
生徒として入るにはビアンカの年齢も流石にちょっと……となってしまうので、臨時の教師として入り込むことになった。仮にも貴族たちが通う学園なのだから、身分が不確かな怪しい人物が入れるはずもない。だがどうやったのか、侯爵青年の力によってビアンカはしれっと臨時教師となっていたのだ。
侯爵青年の力だけではなく、彼の知り合いも関わっているのだろう。権力と人脈があると恐ろしいものなのね……と内心戦慄しながらも、ビアンカは教師の仮面を被りながらお仕事に励んでいたのだが。
そこで繰り広げられる一人の少女を中心とした恋模様。
あれ、これどこかで……そう思ったのは一瞬だった。
直後思い出される前世の記憶。
とある小説の世界に転生したんだな、とは思っていたが、その作者が書いていた別シリーズの小説に確かこんなのあったなー、というノリで思い出した。思い出してしまった。
そして思い出したと同時にビアンカは顔を青ざめさせていた。
強い癒しの力を持った聖女の再来。
そう言われた少女を巡る恋の話。
それだけ聞けば一体どんな乙女ゲームだ、と言われそうだが、なんとこの話、恋愛物ではなくサスペンスである。
犯人は婚約者である令嬢。殺害対象は少女だけであったはずが、事前に綿密な計画を練っても想定外の事故が起きたりした結果何度か少女を殺す事に失敗し、更には殺す必要がなかった者まで手にかける始末。
そしてその殺された人物の中に、臨時教師が存在していた。
トリック自体は魔法だとかがある世界なので普通に考えてても意味がない。密室トリックだろうと時間差トリックだろうと魔法である程度誤魔化しがきいてしまうので。
魔力の痕跡だとかを調べれば犯人とかすぐわかりそうだが、婚約者である令嬢はそこら辺を上手く誤魔化していたはずだ。
ぶっちゃけると細かい部分は覚えていないので、どういうトリックが使われていたか、などは完全に忘却の彼方である。
だがしかし、聖女扱いされている少女を殺そうとした時に不測の事態により失敗し、その光景をたまたま目撃してしまった臨時教師が殺されるシーンがあったのは覚えている。
臨時教師はモブなので、そこまで明確に外見の描写があっただとか、印象に残るシーンは無い。けれども今、この学園にいる臨時教師は限られている。一体誰が犠牲になるのか……
そう、ビアンカである。
限られた臨時教師。その数一名。
ここまでくればもうどんなおバカさんでも誰が犠牲になるかなど分かり切った事だろう。
かつて、お嬢様がこのまま婚約破棄されて家を追い出されたら、お嬢様付きのメイドやってた私も職を失う事になってしまうのでは!? と将来を憂えてどうにかその未来を回避しようと頑張ったというのに。まさかこんなところで次なる死亡フラグが自分に降りかかってくるなど誰が予想しただろうか。
というかだ、同一作者の作品とはいえ別シリーズなんだから混ぜるな危険!! と声を大にして叫びたい気分であった。
ともあれ、どうにかしないとうっかり犯人にとって不都合な場面を目撃してしまい、その結果殺されてしまう。あの小説読んでた時は臨時教師が死んだ所を、どうしてあの時あんな場所にいたんだ不幸なやつだな、なんて思っていたけれど、今ならわかる。
臨時教師として潜り込んでここでいくつかの情報収集しないといけないからですね! そりゃあ本来ならいるはずのなさそうな場所にいても仕方ないよね!!
そしてその結果死亡フラグがしれっと存在している、と。
冗談ではない。
死んでたまるか。
かくしてビアンカは己の死亡フラグをへし折るために奔走する事となったのである。
まず聖女再来と言われたマリエルを本気で口説いているらしい婚約者のいる不誠実な令息の名をアドルという。そしてそんな彼の婚約者であり作品の犯人として暗躍する令嬢の名をリュドミラ。
リュドミラは毒の魔法に長けていて、同時に解毒の魔法にも長けていた。
作中では毒の魔法で相手の動きを鈍らせてそうして鈍器や刃物で攻撃し、死ぬ直前に解毒魔法で毒を解除していたはずだ。なんでそんなまどろっこしい事を……と思ったのだけは覚えている。
直接的に毒で殺せば毒物を誰かが持ち込んだという可能性に勿論行き着くし、そこで毒が出なければ次にある可能性として魔法を疑われる。そうなれば毒の魔法が得意であるリュドミラが容疑に上がるのは当然の流れだ。だからこそ、なのだろう。
つまり、ビアンカがリュドミラに殺されるシーンは一見すると撲殺か刺殺されてるわけなのだが、実際は毒で身体の自由を奪われて抵抗できない状態で鈍器で殴られたりナイフで刺されたりするわけだ。
死体に抵抗した様子がない事で、臨時教師と親しい間柄の人物が確か容疑者にあがっていたような気がするが、ビアンカとリュドミラは別に親しいわけでもない。それもあって最後の犯行に及ぶまでリュドミラは上手く容疑者から外れていたのだ。
けれども、最後の最後で失態を犯し、結果マリエルに事件の真犯人だと暴かれてしまう。
パッと見イラストもふわっふわの少女漫画テイストだったし、設定だってどこの乙女ゲームです? みたいな感じだったくせにその実中身はドロドロの愛憎劇サスペンス。
突然の別作品にビアンカとしては勘弁してほしいの一言に尽きた。
ビアンカが死ぬのは話の中盤あたりだが、余裕をかましていられるはずもない。被害者が一人でも出た時点でストーリーが加速度的に進んだらあっという間にビアンカの順番がやってきてしまうかもしれないのだから。
侯爵青年からの仕事として言われている情報収集と同時並行してマリエルとリュドミラについても調べた。
リュドミラの家はこの国で古くからある貴族の家なのでちょっと調べただけでも結構な情報が集まった。とはいえ、特に何があるでもない想定していた範囲内での情報しかなかった。
だがしかし。
マリエルは違った。
なんと彼女は転生者だったのだ。
同士なら、頼めば殺人事件を起こさず穏便に終わらせてくれるかもしれない――なんていう淡い期待を抱いたこともあった。あったのだけれど。
結論から言うと無理だった。
頼む以前の話だ。
ビアンカがマリエルに接触しようとするほんの一瞬前に、マリエルが呟いた言葉。
「どうせやるならやっぱ逆ハールートよね」
その言葉で悟ってしまった。
和解は無理。あと同じ転生者だけど多分別の世界線の人なんだなと。
ビアンカが知っているのは小説であって、ゲームではない。けれどもマリエルはまるでこの世界がゲームであるかのような言い方をしていた。
よりにもよってそのルート選んじゃうんです? と言いたくなった。
言いたくなったけれど言うわけにもいかない。ここで彼女の目論見を知ったとしても、臨時教師という立場の自分と聖女の再来と言われているマリエルとでは、きっと説得力が違いすぎる。
臨時教師という立場であっても、例えば何らかの権威を持っているとかであれば話は違ったかもしれない。けれども本当に単なる臨時教師なのだ。一時的に休職する羽目になってしまった教師の代理でいるに過ぎない。それと比べれば正式でなくとも聖女という肩書を持つマリエルの方が発言権は圧倒的だろう。
なんだったらちょっと瞳をうるうるさせて、
「酷い、どうして私の事そんな風に言うんですか……?」
みたいな事を言えばたちまちこちらが悪者になってしまいそうだ。
だからこそ、ビアンカはそっとマリエルから距離を取ったのである。気配も足音も消していたため気付かれずに済んだ。
であれば、次に接触すべきはリュドミラだ。
どうにかして彼女の凶行を止めるしかない。
殺害動機は愛する婚約者が自分を捨ててマリエルを選ぼうとしていたから、というとてもわかりやすい理由だった。マリエルを殺そうとして失敗した結果増える犠牲者とかどうかと思うが。
下手をすると自分を殺す女に接触したいとは思わない。
けれども。婚約者がいると知っていながらお互いの距離を縮めようとしているマリエルと、嫉妬によって邪魔な奴を殺そうとするリュドミラと。元凶度合で言うならマリエルの方がどうかと思っている。
しかもビアンカが知る原作のマリエルならまだしも、中身は転生者でよりにもよって逆ハールートを行こうとしているのだ。全くとんだ悪女である。
それならまだ、愛する人を取り戻すために凶行に及ぶリュドミラの方がまだ理解できなくもない。お友達になりたいとまではこれっぽっちも思わないけれど。
マリエルの魔法は癒しの力と植物を急速に成長させるもの。
それについてはビアンカが知っている原作と同じであった。マリエル曰くのゲームでもきっとそうなのだろう。特にその能力について不思議そうに思っている様子も、何か余計なオマケ的な能力がついててラッキー♪ みたいな反応もしていなかったし。
ビアンカが臨時教師として入り込んだばかりの頃はまだストーリー的なものは然程進んでいなかった。学園に入ったばかりなのだから、精々オープニングが終了したところなのだろう。とはいえ、油断はできない。小説ならある程度時間の進み具合も把握できるがゲームであれば学園行事でのイベントだとか季節ごとのイベントだとかの、開始する日時が決まっていそうなイベント以外はフラグ回収をサクサクしてしまえばあっという間にストーリーが進んでしまう可能性もある。
出会ってその日のうちにいきなり好感度マックス、なんて事はないと思いたかったがビアンカには懸念があった。もしそれが当たってしまったら。
それはそれで面倒な事になりそうだなぁ……と思いながらもビアンカはリュドミラにそっと手紙を出したのである。
――さて、結論から言おう。
どうにか信用を得る事ができたのか、リュドミラは早まった真似をしなかった。殺人事件回避である。
令息たちを誑かしたとされるマリエルは牢獄へと押し込まれた。ただちょっと色恋に溺れただけ、そう思っているらしくマリエルはあまり事態を重く受け止めていなかったようだが……真の地獄はこの後待ち受けている。
必要な情報も集め終わったビアンカは臨時教師からも解放されて、あとは帰るだけだ。
とはいえその前に確認しておかなければならない事もあるけれど――
「――それで、報告は以上かな?」
「そうですね」
やるべきことを全て終えて戻り、報告する。
それに耳を傾けて、終わったと思えるあたりで侯爵青年はそう問いかけた。
「ふむ、隣国で密かに広まっていた違法薬物に関してはこれ以上増える事もない、か……こちらにあの薬が流れるようになっていたらさぞ面倒な事になっていたからね。未然に防げたのは大きい」
そう、侯爵青年がビアンカに情報収集をしてこいと言った内容は、隣国でじわじわと流通しつつあった違法な薬物に関してであった。
邪魔者を排除するのに毒を用いる事など貴族間ではそこそこあるらしいが、此度の薬は精神面で多幸感を与えそこに少しの酩酊感といった、まぁ端的に言えば精神的にハッピーになれるお薬である。
だがしかしどうにもそれだけではないらしい……という噂もついて回っていた。
侯爵青年は当初政敵側の連中に何者かがそれらの薬を流したのだと思っていたが、その薬の被害者になったであろう人物を調べてみれば実に様々な派閥に属しているではないか。どこかの派閥が自分たちにとって邪魔な相手を陥れようとするにしては、無差別がすぎる。
では、貴族相手に恨みを持つ者だろうか、と考えたものの平民にこんな薬を広める伝手などあるはずもない。後ろ暗い事をしている者たちまで調査の手を伸ばしてみたけれど、むしろそういった連中はその薬を欲しているように見えた。自分たちが使うにしろ、他者に売りさばくにしろ使い道は沢山ありそうな薬だ。販路も製造ルートも探していたようだが、目ぼしい情報は得られなかった。
まぁ実際発見できるはずもなかっただろう。
製造しているのはマリエル。彼女の植物を急速に成長させるという魔法によって薬の原料である植物が育てられていたのだから。
マリエルの実家でもあるサニーディット家では、密かにその植物を育てていた。
その植物から採れる花の蜜と花粉を加工すれば薬になるが、違法薬物の原料となるのは花粉の方だ。
花の蜜は解熱鎮痛の効果をもつ薬へと調合可能で、植物自体を育てる事は特に違法ではない。
花粉も人工的に受粉させる際に採取する事はあるが、そもそも量がそこまであるわけでもないために薬の材料にする分を確保した時点で受粉できなくなる。
花粉と蜜と、それ以外の材料を調合する事で出来上がる違法薬物。
しかしその材料は大量に得られる物でもない。だからこそ、今までその薬がここまで流通するような事はなかったのだ。
しかしマリエルの魔法を使えば種さえあればいくらでも植物を育てられる。そこに目をつけたマリエルの父が――その薬を大量に作り、そうして密かに売りさばいて家の資産を潤わせていた。男爵家であるサニーディット家が属する派閥はそこそこの穏健派揃いであったが、サニーディット家はその派閥でそこまで存在感があるわけでもない。だが、マリエルの父にはそれなりに野心があったらしい。敵対する派閥も、自身が所属する派閥も、邪魔者が大勢いなくなれば自分が上に立つこともできると思ったのだろう。
学園に行く前にマリエルに大量に魔法を使わせて、そうして薬そのものは一度に流出させず少しずつ売っていった。慎重に足がつかないように。
サニーディット家にとっての誤算があるとするならば、マリエルだろう。
父が薬を調合する場面をマリエルは何度も見てきた。だからこそ、実際に調合する事がなかったのに手慣れた様子でマリエルも作る事ができてしまった。
種さえあれば、いくらでも増やせる。他の材料だって用意しようと思えばできるもの。一番材料を集めるのに苦心するのは花粉だが、それだってマリエルからすれば花を大量に咲かせればいいだけの話だ。
サニーディット家は学園から離れた位置にあるために、マリエルは学園寮を利用していた。
その自室で彼女は人知れず花を育てていたのだ。魔法で一気に成長させて、必要な材料を確保したら花は処分すればいい。枯らしてしまえば処理は案外簡単に終わる。
「それにしても、随分と色々な派閥にばら撒いたものだ。全てを娘のせいにして切り捨てたサニーディット男爵も結局は貴族として終わったわけだろう?」
「ですね。娘のせいにしたところでそうするようにしたのは男爵本人ですし。下手すれば内乱に発展する可能性もあったわけでしょ? 王族相手にやらかしてないとはいえ、ねぇ?」
「学園内部で薬を使った連中は?」
「しばらくの間はつらいかもしれませんが、薬が完全に抜けきれば大丈夫かと。リュドミラ嬢の婚約者も薬による依存性でしばらくは大変かと思いますが、リュドミラ嬢が献身的に看病するようですし他の被害者でもある令息たちもまぁ、多少の処罰はあれどどうにか持ち直すんじゃないでしょうか」
「そうか」
薬はお茶などに混ぜてしまえばほとんどわからなくなる。マリエルが狙いをつけた相手にはそうやって摂取させて、お薬のせいで少しばかりふわふわしている時に彼女は身体を使って篭絡していたのだ。
とはいえ、マリエルは派閥に関して全く考慮していなかった。ただ見目の良い相手を選んだだけだろうけれど、本来なら同じ陣営になどなるはずがない相手が何故かマリエルと共にいるというのは異様な光景だったらしい。そのせいで一部貴族たちに不信感を抱かれていたわけだ。
ビアンカもリュドミラに手紙であれこれ知らせた時にそこら辺について書いておいた。聖女の人柄に惹かれて、とかではなく薬のせいですと最初に教えて、婚約者もそうなってしまっていると知らせておいたからこそ彼女は凶行に及ばなかった。
下手に殺人事件を起こされたら、原作通りの展開キター! となってマリエルの思うつぼであったわけだし。むしろ令嬢として当然の対応をしてもらうだけに留めてもらえば、あとは勝手にマリエルが自滅するだろうと思っていた。
実際、彼女は誰彼構わず身体の関係を持ち、最終的に妊娠していたわけだし。牢に入れられた後は誰の子であっても外聞が悪すぎるというのもあって、堕胎薬を飲まされていたようだ。そうして早々に流産した事も確認している。
「……牢獄はあの後燃え盛り跡形もなくなった。サニーディット男爵は貴族生命を終えた。薬物の原料となる花を育てていた聖女もどきはもういない。とはいえ、あの薬を根絶できたわけではないが。……ま、だがしかしそれも以前のように一部だけで使用されて流通するほどまでになる事はないだろう。
こちらの国にまであの薬が流れてくる可能性は潰えたわけだ。ご苦労だったな、ビアンカ」
「いえいえ、情報収集って言っておきながらまさかこんなことにまでなるとは思いもしませんでしたけど。追加報酬とか出ます?」
にこやかに笑うビアンカに、侯爵青年はなんとも言えない表情を浮かべた。
彼女に与えた任務は最近増えつつあった薬の流通経路。また、製造元を突き止める事。
貴族たちの間で使われ平民にまでは使用されていない事から貴族と繋がりがあるだろう存在が犯人だろうと思っていたものの、それ以上は隣国ゆえに踏み込めなかった。
社交の場にはどうにか潜り込めても、年頃の貴族たちが通う学園ももしかしたら……という可能性があったため、そちらをビアンカに任せたのだ。結果として読みは当たった。
隣国の情勢が少々不安定になりつつあるが、そこまではこちらの知った事ではない。
ビアンカからの報告書に視線を落とす。
マリエルの毒牙にかかった令息たちの大半は薬が抜けた後は徐々に元に戻りつつあるらしい。
とはいえ、やらかした事は消えない。多少なりとも罰を与えられることとなったようだが、全員がその罰を潔く受ける事にしたのだとか。
リュドミラ、という令嬢の婚約者であった男も自らの意思で浮気をしたわけではない。単なるハニートラップだけなら引っかかる事もなかっただろうけれど、そこに薬まで用いられた結果だ。正気に戻ったかの婚約者は己のしでかした事に酷く後悔し、自分はリュドミラに相応しくないと言い身を引こうとしたようだが、リュドミラはそれを拒否したようだ。
悪いと思うのならば、生涯をかけてわたくしを愛して下さいませ。
そう、言ったのだと聞いている。
侯爵青年には知る由もないが、いかんせん婚約者の心を取り戻そうとするためだけに邪魔者だと判断したマリエルを殺そうとして複数の殺人事件を起こすはずだった令嬢だ。そう簡単に婚約者を手放すはずもない。
もし、心のままにマリエルを排除しようとしていたら、ビアンカの知る原作展開に入っていた事だろう。マリエルもまた転生者で、リュドミラは悪役令嬢という立場になっていただろうから。そうなれば愛しの婚約者とは永遠に離れ離れになるところであった。
ビアンカがリュドミラに出した手紙の中には、マリエルが転生者であるという事こそ記していないが、それでも自分を邪魔だと判断したリュドミラが手を下そうとするのをむしろ待ち望んでいる可能性が高いと示唆しておいた。つまりは罠。それを知ってまで実行しようとするならばビアンカの目論見も儚く崩れ去っただろうけれど、リュドミラはギリギリで踏みとどまってくれたのだ。
「それで? 追加報酬といったね。何をお望みかな?」
「えっとぉ、紹介してほしい人がいるんですよぉ」
侯爵青年から目を逸らしつつも、ビアンカははにかんだようにそう伝えた。
「誰をお望みかな?」
最愛の人物と自分の縁を結んでくれた彼女だ。
侯爵青年は己の人脈を駆使してでも望みの人物を紹介しようという気持ちはあった。
今までは結婚とか今はまだそこまで……と乗り気でなかったが、いよいよ心に決めた人物ができたのか。そう思えばむしろ微笑ましささえ浮かんでくる。
だがしかし。
ビアンカが告げた相手はそうではなかった。
「……全くきみというやつは……いいだろう。紹介しよう」
「わぁい、流石ご主人様人脈ひろ~い」
「一つ聞いていいだろうか。きみは、彼女の事を恨んでいるのかね?」
「え? いいえ。なんか使えそうだなっていうのと、懐かれたから」
「そうか」
「はい」
今度は視線を逸らすことなくにっこりと微笑んだビアンカに。
侯爵青年もまた笑みを浮かべていた。とはいえ、こちらの笑みには若干の疲れが滲んでいたが。
――話は少しばかり遡る。
マリエルが牢へと入れられ、堕胎薬を無理矢理飲まされそうして流産した直後の事。
胎児はまだそこまで育っていなかったとはいえ、それでも愛していた誰かとの結晶だった。
複数の相手と関係を持ってしまったため、誰が父親かはわからなかったがそれでも確かに愛の結晶だとマリエルは信じていた。それが、無残な事になってしまい牢の中でマリエルはどうしてこんなことになってしまったのかと嘆くしかなかった。
出せと叫んだところで周囲には誰もいない。牢の随分と奥、見える範囲の他の牢には誰もいない、暗く冷たくじめじめした空間。お腹の中でこれから育っていくはずだった我が子は流れ、マリエルは一人ぼっちになってしまった。
転生したと気づいた時に、知っている作品の話だったのもあってマリエルはこの知識を用いて自分は絶対に幸せになるのだと信じていた。むしろ幸せにならない方がおかしいとさえ。
原作のストーリーが始まる前まではそれなりに苦労することも多かったけれど、しかしその苦労はこの先幸せになれるからこそあるのだと疑ってすらいなかった。
けれど、一体どこから間違えたのだろう?
学園に入って、そうして攻略対象と言えるはずの人たちと出会って。
ここまでは問題なかった。
話の展開を知っていたからこそ、唯一婚約者のいる彼に近づくことを悩んだ事もある。
近づかなければ。婚約者であるリュドミラが嫉妬に駆られ殺人事件を起こす事はない。けれども、それで果たしてマリエルが幸せになれるのか、となると不安だった。
物語が始まったのならば、物語は終わりに向けて進んでいく。けれどその始まりを無視してしまえば?
予想外の展開になってしまって、自分がどれだけ相手との仲を深めたところで誰のエンディングにもならなかったら?
いや、それどころか、仮に誰かとくっついたとしても、その先が長く続くかもわからない。
原作ではあの殺人事件を共に乗り越えてきたからこそ、マリエルと攻略対象との仲は深まったのだ。それが吊り橋効果によるものであろうとも。そうして結ばれた二人は末永く共に暮らす事となる。
けれど、その事件が起きなければ?
学園を卒業する時点でそれぞれの生活に戻る可能性もあるかもしれない。
学生時代の思い出になってしまって、その先のマリエルの人生は明るくないかもしれない。
原作から外れた時点でのもしもを想像すれば、多少の犠牲者が出ようとも原作通りにストーリーを進めた方がマリエルには都合が良かった。
犠牲者といっても、バッドエンドになるような事をしなければマリエルや攻略対象の誰かが死ぬこともないし、マリエルの人生に関係のないモブがどれだけ死のうともマリエルにはどうでもよかったのだ。あくまで優先すべきなのは自分の幸せであった。
けれど、いつまで経ってもリュドミラが最初の殺人を犯す事はなかった。それどころか、マリエルと遭遇してもあくまで貴族としての観点からの常識を説いてくるだけで嫌がらせもしてこない。
一体どうして。
この時点でマリエルは素直に諦めて逆ハーレムを作ろうなんて考え捨てておくべきだったのだ。
けれども、その諦めるという事が難しかった。諦めてしまえば今後の先行きが不透明になって幸せになれる未来とは違う道に進んでしまうかもしれない。そういった不安が付きまとうようになった。
最初は、ゲームのシナリオ通りに振舞っていた。けれどもリュドミラは行動に出ない。刻々と時間だけが過ぎていき、このまま学園を卒業するような事になったら?
そうしたら、そうしたら――
一人はイヤだった。
学園を卒業したら家に帰って、そしたら。
父はわたしの事なんてなんとも思っていない。使える道具とは思っているだろうけれど、愛する家族だとは思っていないのは今までで充分理解できている。
家に戻ったら。
きっと父の選んだ相手と結婚する事になる。その人がわたしを愛してくれるなら構わない。けれどもきっと、父が選ぶ人だ。父と同じく自分の事など便利な道具としか思わないような相手だろう。
そう思ったマリエルは、原作通りに話を進めるために父が作っていた薬物を学園で再現し、そうしてそれらを使い、更には身体を使って彼らを虜にする事にした。いずれも身分の高い令息たち。結婚せずとも人脈という点で父はきっとそれらを喜ぶだろう。
父が選んだ結婚相手が嫌なら、彼らのうちの誰かと結婚すればいい。どちらにしても父が用意する相手と彼らなら、身分が高いのは彼らだと言える。
原作通りに接していた時と違って、彼らはあっという間にマリエルの虜になっていった。
これなら、きっと大丈夫。
そう思っていたのに。
まさかリュドミラがあの薬について調べていて、しかも音声と映像を記録できる魔石にバッチリ証拠までおさめられていたなんて――!!
殺人事件に対する探偵役としてハッピーエンドを迎えるはずだったマリエルは、しかし違法薬物を製造しそれらを周囲の人間に服用させた事でリュドミラと立場が入れ替わってしまった。リュドミラがマリエルに嫌がらせもしてこなかったから、陥れるために多少自作自演もしたけれど、それもまさか証拠として確保されていたなんて思ってもみなかった。
ただリュドミラが言うだけだったら、まだ丸め込めたかもしれないのに。
「どうして、ただ愛されたいだけだったのに……皆に愛されたいって思うのはいけない事だったの……!?」
堕胎薬を飲まされて、既に胎に子はいない。いないけれど、まるでその事実を責めるように時々下腹部が痛んだ。
「愛されたかったんですか? それはまた、なんというか」
その声が聞こえたのは、思った以上に近くだった。知らず俯いていた視線を上げれば、牢の向こう側に一人の女が立っていた。
「貴方は……」
名前はなんだったか覚えていないけれど、確か学園にいた臨時教師だ。節度は守って下さいね、と攻略対象の令息たちと集まっていちゃいちゃしていた時にそれだけを言って立ち去って行ったのは覚えている。
てっきりモテない女の僻みかと思っていたから、あの時はむしろ笑いものにしていたけれど。
その彼女が、何故ここに?
「愛されたいなら順番は守った方がいいと思うんですよね。あと方法も選ぶべきかと」
「うっさいわね! アンタに何がわかるの!?」
「貴方の事情なんて知りませんよ。聞いてないし。でも、わかってないのはそっちでしょう。なんでわざわざ不幸な道に進もうとするかなぁ」
「え?」
「大勢の人に愛されたい、の愛がどんなものかにもよりますけど。
貴方聖女の再来なんて言われていたんだから、男性に色目ばかり使わないで令嬢たちとも仲良くしとけばよかったんですよ。年取ってからならともかく若いうちに同性の友人がいないとか、可愛い自分に嫉妬してるんです~、が通用するのは女見る目のない男だけよ?」
大体肉体関係ありきでの愛なんて期間限定もいいところでしょうに。
そう言われてマリエルは思わず目を瞬かせていた。
「貴方が娼婦だったなら、貴方の言う愛もわからなくもないんですよ。でもそうじゃなかったわけでしょう?
正直薬で色々と理性が取っ払われかけてたとはいえ、正気に戻った令息の皆さん、貴方の事無料サービスの娼婦か何かだと思ってる節ありましたよ?
金も払わずヤらせてくれるとか、昨今道具だってそこまで都合よくないのにね」
恋人同士だとか、夫婦だとかであれば肉体関係に金銭が生じないのは当然の話だ。しかしマリエルは恋人と言いながらも複数名を相手にしていたし、そこに金銭は発生していなかった。けれどもその愛というか恋というかは、お薬の力在りきな部分も大きい。
正直仕事で金をもらっている娼婦の方がまだマトモに思える程に。
「大体年とったらしわくちゃのじじいばばあですよ。その時になってもこの関係続くとか本気で思ってたんですか? 金の切れ目が縁の切れ目じゃないけど、性欲だけで繋がってる関係なんて性欲が減退した時点で解消されるのでは? そうなったら貴方、年取ってから見捨てられて一人になるんですよ?」
「そ、そんな事、ないわ。その頃には別の形で愛が続くかもしれないじゃない……!」
娼婦以下、と言われたマリエルは怒りがふつふつと沸きあがるのを感じていたが、臨時教師はそれを気にした様子もない。
「別の形って? いい家の人たちならお金に困らないだろうから、都合のいい性欲処理の道具でしかなかった相手なんて軽やかに捨てるにきまってるじゃないですか。そうして今度は若くて見目のいい別の人を用意するんですよ。よく聞く話ですよね。
その頃でも続くのって、年とってもまだ性欲が衰えてない相手だけでは?」
そう言われて、思わずマリエルは年をとって老人になってしまった自分と恋人だと思っていた令息の一人を想像してしまった。若いうちならまだしも、しわくちゃの老人になってからの性行為をつい赤裸々に想像し、知らず「うわ」と声が出る。
今までそんな事想像もしなかった。けれども想像すると、中々に厳しい。
「仮にその関係が全員と続いたとしても、年取ると体力落ちるし貴方身体持ちます?」
「…………」
嘲っているでも馬鹿にしているでもなく、純粋に疑問に思っている臨時教師の言葉に。
マリエルは何も答えられなかった。
恋人たち数名との行為を、年を取った自分たちで想像しその光景をおぞましいと感じてしまったので。
軽率に複数の相手と肉体関係を結ぶ程度に貞操観念が緩かったマリエルだが、それでも多少なりとも潔癖さを持ち合わせていたらしい。
「婚約者のいない令息の方々もいたんですから、せめてその中の一人に絞って婚約してから子供ができた、とかであれば今頃はこんなところに押し込まれたりもしなかったでしょうに。順番一つ間違えるだけで大惨事な事って世の中それなりにあるんですよ」
「そ、そんな事言われたって、順番順番って、そんなに順番って大事!? 多少前後したって結果は大して変わらないじゃない!」
臨時教師の言う事が間違っている、とは思わなかった。けれども、あまりにもズケズケと言われてマリエルの中に反抗心が芽生えたのもまた事実。こうなってしまったことに対する後悔はしているのだから、今更のようにお説教なんてされたくなかった、という本音もあった。
「えっ、それじゃ貴方、結果は同じだったらトイレでう●こする時に下着下ろす前に出しちゃうんです?
出すっていう結果は同じだけど、途中経過が異なるだけでも結構な大惨事になると思うんですけど、出した後その下着どうするんですか。処理にだって困るのでは」
「あっ、それは確かに大惨事」
突然の下ネタに、この臨時教師をどうにか言い負かしてやろうと思っていた心が急速に萎えた。
この件に関しては確かに順番とても大事。そう納得してしまった時点で、言い負かすも何もあったものじゃない。
というか、臨時教師にとってはマリエルがやらかした今回の一件とパンツ下ろす前に脱糞する行為が同じ扱いというのも正直心が折れそうになる。つまり彼女は今まで複数の令息たちと関係を持ってる自分の事を、わー、この人パンツ下ろす前にう●こするタイプなんだー、とかいう目で見ていたって事でしょ!? は!? それは流石に同じ扱いしないでほしいんですけど!?
そう抗議したいが、しかししたらしたで、今度はどんなとんでも例えが出てくるかわかったものじゃない。
臨時教師にしてみれば初手・様子見の軽いジャブくらいの言葉なのかもしれないが、マリエルにとってそれはやたら重たいボディブローも同然であった。
これより酷いたとえを出されたら、何というか既に割と心がへし折れそうになってるのに、本当にポキンと逝ってしまいそうで下手なことを口に出せない。
けれども臨時教師はマリエルのそんな内心を知ってか知らずか、のんびりとした口調で言葉を紡いだ。
「貴方が食い散らかした令息様方のご家族や、同じ学園にいるというだけで困った風評被害に遭いかけたご令嬢、ついでに自らの婚約者に手を出されたリュドミラ様方におかれましては、私の方からマリエルさんはちょっと順番を間違えただけなんです、と先程の例えをお出しして説得しておきました。
その結果、とんでもない毒婦扱いから学園にうっかり迷い込んだ野良犬くらいの認識になったかと思いますよ」
「社会的に死んでるじゃないよそれええええええ!!」
わっ、とマリエルは思わず顔を覆って泣き叫んだ。
「えぇ、まぁ、でも。あのままだと貴方、公開処刑かこの後の食事に毒盛られて表向き病死しましたのどちらかで人生終了するところでしたので。
かろうじて命を繋ぐことはできましたよ。とはいえ、このままこの国にいればこの国に巣食っている違法薬物を扱う裏社会のボスだとかに狙われて誘拐からの飼い殺しが待ってると思いますけど」
「ひっ……!?」
言われた言葉を即座に理解できなかったけれど、しかし理解してしまえば自分が置かれた状況はどう足掻いても恐ろしいことになっている。
知っている作品に転生して、逆ハー築いて幸せハッピーライフ♪ を目論んでいたはずのマリエルは、しかしそんな未来が待っている事などないと今更のように知って。
さぁっと血の気が引くのを感じ取っていた。
「な、なんでよ、なんでそんな……あ、あんたなんでトドメ刺すような真似しに来たのよ……!?」
何も知らないまま、まるで悲劇のヒロインのようだなんて思っていた先程と異なり現実を突きつけられたマリエルからすれば、臨時教師の行いはまさしく死体蹴りも同然であった。公開処刑であったなら納得いかずに最期の時まで泣き喚いていたかもしれないが、食事に毒なら本当に最期まで悲劇のヒロインでいられたかもしれないのに。
自分を利用していた父親はとっくに貴族としてはやっていけないだろうと思っている。であれば後ろ盾などあるはずがない。母は数年前に亡くなっているし、親戚筋を頼ろうにも助けてくれそうな相手に心当たりはなかった。
そもそも父がまともにまだ貴族であったとしても、どのみち男爵という身分だ。平民相手ならともかく、同じ貴族相手ではこの身分も守りにはなるはずがない。
それならいっそここで死んだ方がマシだった。
死にたいわけじゃない。死ぬのは怖い。けれど、仮に生きてここから出されたとしても、守ってくれる人などいるはずがないし、そうなれば今臨時教師が言ったように自分を利用する事だけを考えた裏社会の人間に骨の髄までしゃぶり尽くされるのは明らかだ。
その部分を言われなければ、どうにか生きて今回の事は乗り越えたと能天気に思っていただろう。けれども、最低最悪な可能性を提示された今となってはここを出たら終わるとしか思えなかった。
平凡な容姿だとしか思わなかった臨時教師が、今はとても邪悪な死神に見えてきた。
けれどもそんな邪悪の化身は。
きょとんとした顔をして小首を傾げているのだ。
「いえ、私貴方には利用価値がありそうなので、ここ脱獄させて亡命してもらおうかなって思っただけなんですけど」
「だ、誰があんたなんかに! むしろあんたが裏社会のヤバイ奴じゃないの!? だったら! ここで死んだ方がよっぽどマシよぉっ!!」
鉄格子を掴んで叫ぶ。目の前にあるこの鉄格子が邪魔で仕方がない。なければ、間違いなくマリエルはこの臨時教師に殴りかかっていた。
「私の雇い主様、人脈はあるのでこちらに来るなら貴方にピッタリな殿方を紹介する事も可能ですよ。
愛されたいのでしょう? 流石にその若さで死ぬのはどうかと思いますし」
イケメンで、貴方だけを愛してくれて、年をとってもずっと愛してくれる人。
一応伝手はあるんです。
あ、勿論お薬なんて使わない、素面の状態ですよ。
「…………は」
それはあまりにも悪魔の誘惑そのものだった。
「貴方はちょっと間違えただけ。なのにやり直す機会もなく死ぬだなんて、あまりにも酷い話だと思うの」
ね? とにこやかに言われてしまえば。
マリエルは学園での彼女の事を思い出す。
臨時教師。一時的にしか学園にはいない。
けれども、彼女は生徒たちの相談にも親身になっていたではないか。
複数の男を相手にしていたマリエルにも、それとなく苦言を呈していたのだから。あの時は単なるモテない女の僻みだとしか思ってなかったけれど。
僻んでる女が、自分に利用価値があるからといって果たしてここまでやってくるだろうか。
放置しておけば確実に処刑されていただろう相手のために、社会的に死ぬのは免れなかったけれどそれでも命を奪うまでは……となるように働きかけるだろうか。
大体、確かに薬とか使って少しばかり正気を失わせていたとはいえ、それでも愛を囁いてくれた彼らはマリエルが牢に入れられてから数日の間、様子を見に来る事もなく――直接会える状況じゃないにしても手紙の一つでも出すくらいはできたはずだ。
あの愛は偽りだった、そういったこちらを糾弾するような内容であったとしても。
けれどもそんな物すら寄越す事はなかったのだ。誰一人として。
マリエルは前世から人間関係が希薄な状態が当たり前であった。周囲に人がいても常にあるのは孤独感。それを埋めるように、前世でも彼女はすぐ知り合った男性と身体を繋げる行為をしていた。行為に耽っている間は孤独感も消えるけれど、あくまでも一時的。
けれどどうすれば孤独感が消えるのか、わからなかったのだ。
そんなマリエルに、臨時教師の言葉はまるで甘い毒のように浸透した。
「本当に」
声が震える。
「本当に、愛されるの……? 独りに、ならない?」
マリエルの問いに、臨時教師はにこりと微笑んだのである。
――そういうわけで。
あの後ビアンカは牢の鍵をサクッと開けて牢からマリエルを出すと、事前に用意していた爆薬などを用いて牢獄を爆破。騒ぎを起こしてその隙にマリエルを連れて国外に脱出したのである。
そこからここに戻ってくるまでの間にマリエルの面倒を見ているうちに、彼女には懐かれてしまった。
産んだ覚えもないのに母親か何かかと思われている気さえしてくる。
サニーディット家で生活していた時は母親がいた時はともかく、母が死んだ後は父親は自分を利用するだけだったためか常に寂しさを感じていたようだ。結果として自分の周囲に常に誰かいないと不安になるのだと言っていた。逆ハー目指してたのは一人だけしかいないともしその一人がいなくなったら孤独になる、というのもあったのかもしれない。それにしても目指す方向性がどうかと思うが。
「それで……そのマリエルはどうしたの?」
侯爵青年の妻であり、ビアンカがメイドとして仕えていたアリアンヌに問われ、ビアンカはにこりと微笑んだ。有無を言わさぬ笑みであった。
「独りが嫌だと言っていたので、絶対に一人にしてくれそうにない相手を旦那様から紹介してもらって、そこに嫁入りすることになりましたよ。
彼女の癒しの魔法も植物を成長させる魔法も腐らせるには惜しいですからね」
「えぇと……そのお相手ってもしかしなくても」
「はい。ニールヴァルド家の伯爵さまです」
「…………そう。いいのかしら、それ」
「大丈夫ですよ、マリエルは生涯ずっと愛してくれる人と一緒になれて幸せ。伯爵さまも過去はどうあれ可愛らしいお嫁さんと一緒に暮らせて幸せ。私も面倒な相手を押し付ける事ができて幸せ。ね?」
「……貴女の突拍子もない行動は今に始まった事じゃないけれども……いえ、お互いに幸せなら、いいのかしら……?」
「不幸になるよりマシでしょう」
複雑そうな表情のアリアンヌに、しれっと言い放つ。
そう。隣国へ仕事に行く前、ビアンカは一人の男性によければ妻に、と乞われていたのだ。
それがニールヴァルド家の伯爵である。
顔良し家柄良し金もあるし仕事もできる。にも拘らず婚約者がいないことで、彼の事をよく知らない相手からは憧れの君、みたいな認識をされていたのだが。
ビアンカに言わせてもらえば確かに彼は何も知らなければ優良物件であろう。
だがしかし、愛は重く執着心も強く、いっそ自分がいなければ生きていけないくらいに依存させてこようとするタイプであった。平たく言えばヤンデレである。周囲に危害を加えるタイプではないけれど、あれと結婚したら最後、おはようからおやすみまで一人になれるタイミングなんて精々トイレに行く時くらいではなかろうか。
ビアンカは前世でならヤンデレ美味しいですモグモグムシャア、とか言えたけれど、リアルでヤンデレと一緒になるのはノーサンキューしたい。一歩間違えたら恋のドキドキが生命の危機的な意味でのドキドキになってしまうようなのはごめんだった。
一人の時間も大切にしたいビアンカからすれば、彼と一緒になったら確実に自分の精神が病むのがわかりきっていたので、どうにかして回避したいと思っていたのだ。ビアンカも一応男爵家の生まれであるけれど、今は侯爵家にお仕えする身。それも二人の仲を結んだとしてそこそこのびのびさせてもらっているのだ。まぁ、危険な事もある諜報の仕事はどうかと思っているけれど。
他の誰かと恋仲になろうにも伯爵がビアンカへの想いを抱き続けていたならば最悪殺人事件が起きてしまうかもしれない。いや、権力にモノ言わせてくる可能性も……と考えているうちに隣国へのお仕事を言いつけられたのでこれ幸いと先延ばしにしていたのだ。
まぁ、先延ばしにして向かった先が別作品の舞台だとか思ってもみなかったけれど。
本当だったら、ビアンカはマリエルを助ける義理なんてどこにもなかった。なかったのだけれど……途中からふと思い至ったのだ。
あのヤンデレに彼女を与えたら自分は安全圏に離脱できるのでは? と。
伯爵は確かにビアンカを気に入ってはいたけれど、それでもまだ、何が何でも手に入れたいとか思われる程ではなかった。もっと執着されていたらマリエルを押し付けたところで意味がなかったかもしれないが、侯爵青年経由でマリエルと伯爵を会わせてうまい事押し付け、そうしてビアンカの思惑通りに二人はくっついた。
孤独を恐れる女と、愛した相手を片時も離したくない男。
需要と供給が一致した割れ鍋に綴じ蓋カップルの誕生である。
マリエルに過去男がいて既に経験済みという部分は伯爵の嫉妬心に上手い事火をつけたのか、過去の男のことなど忘れさせてやるとなったのか執着が凄いことになってしまったけれど、ガッチガチに束縛してこようとするそれも、しかしマリエルにとってはこの人は絶対に自分を一人にしないと思うだけのものにしかなっていなかった。
マリエルの魔法については時々こちらも頼る事はあるかもしれないが、そこら辺は侯爵青年がどうにかするだろうと思っているので、ビアンカとしては私の目の届かない範囲で幸せになれよといったところである。
ちなみに先日マリエルから手紙が届いて、毎日が幸せすぎて怖いくらいだとか書いてあった。
マジでおはようからおやすみまで一緒にいるらしい。もしビアンカがその立場になっていたら、多分三日で発狂していたに違いない。
あんなことをした自分が幸せになっていいのだろうか、みたいな事も書いてたけど、お前がそのヤンデレを抑えておくんだよ! といった気持ちである。
ビアンカにとってのマリエルはある意味で生贄扱いだけれども、マリエルから見たビアンカは一体どんな扱いになっているのだろうか。幸せを運んできた天使くらいに思われているかもしれない。
ついでに伯爵からも素敵な女性を紹介してくれたことに対する感謝の手紙が届いていた。
ビアンカは恐怖に駆られながらも手紙を暖炉にくべた。正直持ってるだけでも何か呪われそうな気がしたので。
感謝状って考えると素敵なもののはずなのに、ヤンデレからってなると途端に恐怖しかないのはなんでだろうね。
既にあの一件からはそれなりの月日が経過している。だからこそ、終わった話としてアリアンヌとこうしてのんびり話題にできているのだ。
危うく死ぬかと思っていた事もあったけれど、終わってみれば案外笑い話にもならなかった。
「でも本当に良かったの? ニールヴァルド伯爵、結婚相手として考えるならとても良いお相手だったのに」
ヤンデレだと気づいてすらいないアリアンヌは、ビアンカの婚期が遅れた事に対してどこか残念そうだった。
「結婚したくないわけではないんですけれども……」
だがしかしヤンデレだけはごめんである。
とはいえ、アリアンヌにそう言うわけにもいかない。下手をすれば侯爵青年に余計な事を教えるなと釘を刺されるかもしれないので。
だからこそ。
「でも今は、奥様と一緒にいられるだけで充分ですよ」
侯爵家に嫁に来る以前からの付き合いなのだ。そう言われてしまえば、アリアンヌもまた嬉しそうに微笑んだ。
そう。例え婚期が遅れてしまおうとも。
うっかり殺人事件に巻き込まれるかもしれなかった一件も、ヤンデレと結婚するかもしれなかった可能性も回避できたのだから。
ビアンカからすればそれだけで本当に充分であったのだ。