忘れていた彼の存在
「おいお前何やってんだよ。これが先だろ。」
「す、すみません。」
「謝ってる暇あるんだったら動けよ。」
「す、すみません。すぐ行きます。」
たくさんの人々がこの狭い空間に行き交う。
厨房のコンロの前でフライパンを必死に上げ下げしながら料理を作るコック。
出来上がった料理を盛り付ける、見習いコック。
そして、盛り付けられた料理を運ぶパートタイマーの従業員。
そして、
シンクの前で積み上げられたお皿たちを限られた時間の中でひたすらに洗う私を含めた見習いコック。
「おい!お前何ボーッとしてんだ」
「す、すみません」
今日も料理長の怒鳴り声が厨房内に響き渡っている。
ここはホテルの厨房だ。
180cm越えの身長に長いコック帽子を見に纏った料理長の大きな声は、私に威圧感を与える。
私は、15歳の頃からこのホテルでコックの見習いとして働いている。
今年で5年目になる。
何故学生の頃から仕事をしているかというと、父の抱えた借金を返済するためだった。
私の家族は、母、父、弟、妹の5人家族。
弟と妹には、私と同じ想いをして欲しくない。
弟がもうすぐ義務教育が終わってしまう。
彼を高校、大学に通わすには私がもっと頑張らなくてはならない。
そのためにこの仕事を頑張っている。たとえ料理長に大声でとなられても、周りの見習い、コックに女性と言う理由だけで、舐められたとしても、家族のためにこの仕事を頑張ってこられた。
今日もそんな想いを抱えながら、終わりの見えない皿洗いを必死に続けている。
そんなある日のことだった。
「さらちゃん、来週来られる団体客見た?」
私の眺めている景色にやっと灰色が見えてきた頃、パート勤めの山本さんが話しかけてくれた。
山本さんは、このホテルで料理を運ぶ仕事をしている。
いつも落ち着いた頃にいつも話しかけてくれるのだった。
「結婚式ですか?」
私は残りの皿を洗いながら答えた。
「いやそういう感じじゃないのよねぇ」
彼女は、注文表にチェックを入れながら何か考えた様子だった。しばらく手を顎に付けながら考えていた様子だった山本さんが思い付いたように口を開いた。
「あ!どちらかというと夜の世界かも」
「へぇ、そうなんですね。」
私は料理長が、次に帰ってくるまでに、この皿洗いを全部笑わせなければならない。そのことに集中しすぎてあまり話を聞いていなかった。
「うん。ホステスとかさあるじゃん?」
「あ〜。ありますね。」
「しかもね、代表者の名前がナイトっていうのよ。いかにも夜って感じよね?」
「へぇ。ナイト?」
どこかで聞いたような聞いたことがないようなそんな気がした。そんなことよりもなかなか皿洗いが終わらないことに焦りを感じていた。
「でさ、その人がさぁ、支配人に求人チラシ配ってたんだけど、月に500,000円以上稼げるらしいよ。初心者でも。」
「え?本当ですか?」
私は初めて皿洗いをする手を止めた。
「そんなに興味あるの?」
私は、思わずうなずく。
正直言って、今の給料では、弟と妹を進学してあげられることができないことに気づいていた。
月に500,000以上稼げる。非常に興味を湧いた。でも、私には一筋の希望があった。
「でも、さらちゃん、来週から正社員登用でしょ?」
そうだ。
15歳から5年間アルバイトとして頑張ってきたが、ついに来週から正社員登用が決まったのである。
あと1週間で月に500,000円稼ぐことができるようになる。
そうすれば、家族を養うことができるようになる。
その時はそう思っていた。この時までは。