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Shine  作者: 水原渉
9/12

 菜沙と翠は仲良くなり、一緒に手をつないで集合場所に行くようになった。翠は「島内翠」になった。時々「本田翠」とか「本田姉」と呼ばれたが、翠は全然気にしていないようだった。きっと、菜沙自身が「火星」より「本田」の方が良かったのと同じように、「沢村」より「本田」の方がいいのだろう。

 そう思って尋ねると、翠は明るく否定した。

「菜沙ちゃんと同じなのがいいんだよ」

 学校では、翠は相変わらずいじめられているようだった。菜沙はわざとその現場に行き、今まで自分が言ってきたことを否定した。翠は必死に菜沙をかばおうとしていたが、菜沙は頑として受け入れなかった。

 3年生の教室でも、翠を「家政婦」と呼ぶ友達を怒った。おかげで菜沙は「嘘つき」と呼ばれるようになったけれど、それは翠の「家政婦」よりは定着せず、しだいに消えていった。

 家での仕事は分担になった。パパの帰りは相変わらず遅かったが、もう菜沙が寂しいと思うことはなくなった。それどころか、菜沙は翠と女の子の秘密を持つようになり、逆にパパが寂しがるくらいだった。あーあ。

 菜沙は意識したわけではないが、パパが翠を連れてきた理由を実感していた。平和な日々。しかしそれは、ある日唐突に失われた。

 菜沙が友達の家から帰ると、翠が部屋の隅っこでぽつんと膝を抱えて座っていた。菜沙は翠が熱を出して倒れた日のことを思い出して顔色を変えた。

「ミドリちゃん?」

 心配そうに覗き込むと、翠の頬が涙で濡れていることに気が付いた。

「どこか痛いの?」

「大丈夫……」

 かすれた声で、翠が言った。いつもの笑顔は見せなかった。

「でも、ミドリちゃん、泣いてる……」

「大丈夫。何も言わないで。そばにいて。手を握ってて」

 それは本当に大丈夫な人間の発言ではなかった。菜沙はひどくショックを受け、泣きそうになりながら言われた通りにした。

(パパ、早く帰ってきて……)

 長い長い時間、翠は手を握ったまま何も言わなかった。菜沙は何か言いたい衝動を懸命に堪え、永遠に近いその時間の終わりを待った。

 やがて、翠が小さな声で何か呟き始めた。それは、いつかウサギ小屋の前で聞いた、あの不思議な言葉だった。

「あなたは、この地球に一人しかいない、とっても大切な人です……」

 翠は何度も繰り返した。菜沙はそれをじっと聞いていた。何度も聞くと、「あなた」が翠のことで、それは翠が誰かに言われた言葉なのだとわかった。

 20回も繰り返すと、翠の声に元気が戻り、翠がいつもの切ない微笑みを浮かべた。

「もう大丈夫。ありがとう、菜沙ちゃん」

 菜沙も安心して笑った。

「うん。ミドリちゃん、それ、ミドリちゃんが元気になれる『まほうのことば』なんだね」

「魔法……? うん、そうかもね」

 翠は曖昧に笑った。

 その夜は何事もなかった。翠はいつも通り笑っていたし、パパも異変に気付かなかった。菜沙ももう翠が一人で泣いていたことなど忘れていた。

 しかし、それは決して終わったわけではなかった。

 翌朝、三人で朝ご飯を食べている最中、翠がまるで世間話でもするような口調でパパに言った。

「ねえ、俊一さん。わたし、このうちに来てから、頑張れてますか?」

 パパは少し驚いたけれど、満面の笑みで頷いた。

「もちろんだ。菜沙もママができたって喜んでるし、飯は美味いし、本当に助かってるよ」

「ありがとう。じゃあ、一つだけわがままを言ってもいいですか?」

「ああ、なんでも言ってくれ」

 パパは楽しそうだった。思えば、翠はこの家に来てから、何一つお願いをしたことがない。そんな翠が初めて言うわがまま。楽しくならないわけがない。

 菜沙も瞳を輝かせた。一体翠は何をお願いするのだろう。ゲーム機でも欲しいのだろうか。

 翠は嬉しそうに微笑んだ。そして、言った。

「俊一さん、わたしもう、学校に行きたくない」

 翠が落とした涙とともに、菜沙の心は粉々に砕け散った。


 まさかこんなシリアスな展開になるなど、誰が予想しただろう。作者も考えていなかった。

 こんなことなら、初めからギャグっぽい要素は排除し、シリアス一辺倒で書けばよかった。

 その日、翠は学校を休むことを許された。菜沙は不安に高鳴る胸の鼓動を抑えられぬまま、一人ランドセルを背負って家を出た。

 加藤君がやってきて、菜沙一人なのを見て表情を暗くする。

「ねえ加藤君。ミドリちゃん何かあったの? 学校に行きたくないって……」

「うん、まあ……」

 加藤君は曖昧に頷いた。菜沙はしつこく問いただしたが、加藤君は「まあ」とか「たぶん」と言うだけで、具体的な話は何もしなかった。

 集合場所に着くと、班長が視線を落とし、誰かが「やっぱり……」と呟いた。ママたちがひそひそ話をし、暗い空気が立ち込める。

「ねえ、保奈ちゃん。今日はみんなどうしたの?」

 菜沙は怯えたように幼馴染みの服をつかんだ。しかし、保奈ちゃんも曖昧に微笑んだだけだった。

「さぁ。わからない……」

 焦る必要はなかった。学校に着いて1、2時間もすると、菜沙の聞きたくない情報まで3年生の教室に伝わってきた。

「ねえ菜沙ちゃん。お姉さん、お父さんもお母さんもいないって本当なの?」

「捨てられた子なんだって?」

「万引きして捕まったって本当?」

「人を叩いたから、前の学校にいられなくなったって聞いたんだけど、おうちでも叩いたりするの?」

「僕はタバコを吸ったって聞いたけど」

 いきなりのしかかってきた噂と情報の量と重さに、息が苦しくなった。

「なんのこと? あたし、知らない……」

「みんな言ってるよ? 翠ちゃん、ミナシゴだって。だから菜沙ちゃんのパパが引き取ったって」

「お兄ちゃんはシセツにいたって言ってたよ。そこでいじめられたから逃げてきたんだって」

「小さな子をいじめたから追い出されたって聞いたよ?」

「いじめられたんだって! 翠ちゃんがいじめるはずないじゃん!」

「でも、万引きとかするんだろ?」

「みんな怖がってるよ。何か盗まれるんじゃないかって」

「お姉ちゃんは、菜沙ちゃんのお姉ちゃんのこと、『泥棒』って言ってた」

「翠ちゃん、悪い子なの?」

 情報の氾濫は、チャイムが鳴るまで続いた。その短い間に、菜沙は全身をずたずたに切り裂かれたようなショックを受けた。一体翠は、昨日一日でどれだけ傷付けられたのだろう。

 次の授業が終わると、菜沙は「知らない」と癇癪を起こしたように怒鳴りつけて、情報をシャットアウトした。自分まで友達が減ってしまったような気持ちになったけれど、もう「ミドリちゃんのせいで」とは思わなかった。

 帰り道、菜沙は虚ろな瞳で校門を出た。やっと一日が終わった。帰って、そしてもう、ここには来たくない……。

 前に翠に学校について聞かれたとき、「楽しいよ!」と言った自分を思い出して泣きそうになった。

「菜沙ちゃん……」

 不意に後ろから呼び止められて、振り向くと自分よりもさらに暗い顔をした保奈ちゃんが立っていた。

 保奈ちゃんも何かつらいことを言われたのだろうか。直接翠の友達ではないが、菜沙と仲が良いのは周知である。

「ちょっと、来て……」

 菜沙が何かを言うより先に、保奈ちゃんは菜沙の手を取って歩き始めた。菜沙は大人しく従った。

 保奈は随分長いこと歩き、とうとう駅まで来た。しかも駅で切符を買い、改札をくぐる。

「保奈ちゃん?」

 菜沙は不安になって保奈ちゃんの手を強く握った。ランドセルの女の子二人で電車に乗るのは、小さな菜沙には冒険である。

 保奈ちゃんは「大丈夫だから」と言っただけで、行き先は告げなかった。

 20分ほど電車に揺られ、保奈ちゃんは鈍行しか止まらない小さな駅で下りた。辺りは暗くなりかけている。菜沙は見知らぬ土地に来た不安に押し潰されそうになり、保奈ちゃんに寄り添った。保奈ちゃんはそんな菜沙を安心させるように、ぎゅっと手を握ってくれた。

 やがて、保奈ちゃんが足を止めたのは、塀に囲まれた広い敷地の前だった。敷地の中には学校の校舎のような建物があり、中央にはグラウンドと芝生があった。しかし、人の気配はない。門には鎖がかけられ、「立入禁止」と書かれた札が下がっていた。

 塀に建物の名前が刻まれたプレートがあったが、菜沙には読めなかった。尋ねるように顔を上げると、保奈ちゃんが小さな声で答えた。

「児童養護施設 虹ノ丘学園。お父さんが働いてた施設。今は、見ての通りだけどね……」

 菜沙が首を傾げる。静かに、保奈ちゃんが続けた。

「翠ちゃん、ここから来たんだよ」


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