プロローグ
碧。
萌ゆる緑と窒息しそうな草いきれが、その領域を支配している。
たがいに支えるように密集したぶなの木に、手入れを頓挫したような生えほうだいのシダの葉。
空気さえ若木の色にけぶるような自然のなか、その集落は、ひっそりと存在した。
「ハルー」
声がする。
鳥の巣のように木のうえにつくられた、高床式の住居群。
耳のながい、総じてうつくしい外見をする光の妖精――アールヴやたちや、枯れた鉱山から引き取ったずんぐりむっくりの鉱夫――地下妖精たち。人のすみかの拡大につれ、森や丘から追いはらわれた小人たちが、昼餉のために木のはしごをのぼって各々の住居に帰っていく。
原始的な生活の光景の中心に、一本の大樹があった。
根元に大きな洞があいている。それだけでひとつの城をのみこむかというような、天にも届く神の社。
この天然の御舎は、竜の寝所だった。
蔦の帳をくぐって、そこにはまだ幼い――金色のドラゴンがいる。
「ハあールー」
じゃばじゃば。
竜の姉――銀色の髪をおかっぱにした、白衣の乙女は、手にした哺乳瓶をふった。
齢十四ほどの少女である。
ペンドラゴン王家の次女だが、巫女としての宿命を持ってうまれたために、人の世に留まりつづけることはできない。
ここ、霊的に人界より隔離され、保護された【霊樹の里】に精霊の御魂を還し、かつ育み世界をみまもるのが彼女の役目だ。
竜はいずれ、人間のもとに帰さなくてはならない。
そうあることが正当であり、竜にとってもさみしくはなかろうと、銀髪の少女――フローラは思うのだが。
「ほーら、ごはんよー。こっちおいで~」
かいこの糸で織った布に、鶏の羽を詰めたねどこで、金の小竜はフローラに背をむけていた。
けっ。
と一瞬フローラを見たものの、すぐにそっぽをむいてしまう。
「もー、なんでなのよー。私あんたのおねーちゃんよ? もっとなついてくれていいのに」
結局は自分のほうから歩いていって、フローラは小竜をつかまえた。
十一年まえに、母ビーナスの腹から生まれた、末っ子である。竜の体のために、成長は遅い。
いずれはこの大樹の洞ほどにもなる体格も、いまは人間の乳飲み子とおなじくらいの大きさ。翼もちいさく、とかげのような体躯はうろこにおおわれているもののたよりない。
短い腕も、体に比しておおぶりな足も、筋肉が未発達で遠目からはぷにぷにしてみえる。
わにのような輪郭にはえた二対の角もまた、ちっちゃくて牙みたいだが、これもいずれ、煙突ほどにのびる見込みである。
体の半分を覆うおむつもいずれは取れて、それこそ『聖典』のかたるような神々しい存在へと変貌を遂げるのであろう。
『ぎゃふっ』
フローラは竜――ハルモニアを抱きあげた。
足をじたじたさせて、妹はむだなあがきを繰りかえしている。
フローラは竜を片腕に抱えなおして、くちに哺乳瓶の吸いくちをやった。
爬虫類めいた――それでもプリチーだというのはフローラの断固たる意見だが――が、ぎろっと姉の青い目をにらむ。それからしかたなさそうに、ハルモニアはミルクをのんだ。
ごっ。ごっ。ごっ。ごっ。
いきおいよく瓶のなかみが減っていく。
「よーし、のんだわね。えらいえらい」
カラになった瓶を置いて、ハルモニアにほおずりしようとした。が。
『ぎゃあ』
ごうっ!!
火を吐かれた。
フローラの顔から頬にかけてが黒こげになる。
ちりちりと、銀色の髪の焼けるにおい。
「ハルはいたずらっ子ねー。性格のわるい妖精がめんどうみてたせいかしら?」
ほおずりはやめず、にこにことフローラは言った。
やけどは巫女として生まれた際についてきた【再生】の魔法をつぶやけばすぐに治る。
瀕死の状態からでも復活を約束するこの術は、強力な回復力を持つ一方で、自分以外の者には使えない――効果を発揮しないという制約がある。
なんにしても、フローラは徹底してハルモニアをかわいがった。
十一年まえに、生まれてすぐ妖精につれていかれてしまった末っ子。自分にもようやく下の子ができると思ったのに、さらわれてしまった。
(兄上や姉上は、下の子なんてめんどーでわがままで自分勝手なだけで良いもんじゃないって言ってたけど)
……。
だれのこと言ってんのかしらね。
心あたりを振りきって、フローラはハルモニアへのほおずりを再開した。
いやー。とばかりに短い手をつっぱって、竜が少女を押しのける。
「いやがってるんだからやめてあげなよ。フローラ」
洞のまえに、ひとりの女の子がいた。着ているのは、フローラのつけているのと似た白い布のワンピース。履きものもそのへんの木から採った材料で編んだ、質素なサンダルだった。
「パンドラ」
巻き毛の少女をフローラは振りかえった。
「いやがってなんかないわよ。ちょっと恥ずかしがってるだけ」
「それをいやがってるって言うんだよ」
ほかにも意見はあったが、パンドラは中止した。要件を伝える。
「フローラ。私、人間界におつかいに行ってくるね。出かけるまえに、ハルモニアさまと巫女にごあいさつなさいって、セレンに言われたから来たんだけど」
「ちょーっと待った。なんでハルは『さま』づけなのに、私は敬称略なのよ?」
「にじみ出るオーラがしみったれてるからじゃない?」
「あ?」
「で、下界にいく理由はこれ」
うしろ手に隠していたものを、パンドラは差し出した。
象牙でできた、四角い――。
それを見て、フローラはすっとんきょうな声をあげた。
「箱?」
と。