違う明日を
大きな何かがある。その何かがどれほどの大きさなのかは分からない。地平を見通せない大地が、彼方まで広がる天空が、果てしなく続く漆黒が。実際にどれだけの広さを誇るか理解できないのと同じように。机上や理屈の上では及んでも、体感では、その膨大な内のかけらに触れられる程度でしかない。現実には途方も無いほど、見えない無窮と無限が広がるのみだ。
その脇に、といっても感覚的にそう思えるだけの位置に、先の巨大と比べてとても小さな何かが存在している。興味を向けた途端、意識はそこに吸い込まれる。
また夢を見る。夢の中で自分は誰かと会話をしている。
輪郭はあるが顔立ちははっきりとしない。自分より背の低い人物と大きい人物。その二人を中心として何かが話されている。周りには他にも何人かの人間が存在しており、自分はそんな彼らと向き合っている。そこからは良好のような、険悪のような、不思議な雰囲気が感じ取れる。
そして、目の前にいる二人を意識し、その顔を覗き込もうとした瞬間、世界はまた崩壊を始める。ボロボロと形を失っていく光景を、やはりどうしようと止めることはできない。全ては終わり、過去となった。今や微睡みのひと時に過ぎず、故に介入する術はどこにも存在しない。
崩れるゆく世界の中で、怜悧に輝く翡翠の瞳だけが印象的だった。
「朝か」
ロアは借りた宿の一室で目を覚ました。すでに合同探索が終わってから二日が経過していた。
ディセレイ遺跡の前線基地でメリアと別れたロアは、自分の車両に乗り付け特に何事もなく都市へ帰還を果たした。借りていた宿の自室に帰着すると、何かを腹に入れる気にもなれず軽くシャワーだけ浴びて、すぐに就寝した。
その翌日、つまりは昨日。昼過ぎまでたっぷりと睡眠に耽ったロアは、探索者協会から連絡が来ていることに気づいた。その内容は、合同探索中に起きた出来事に関して、聞き取り調査を行う旨を告げるものだった。
不可抗力とはいえ合同探索をほっぽり出した形だ。そうなるのも当然だと考え、ロアはすぐに了承の意を返した。
しかし、話し合いが持たれた場所は予想と違った。呼び出しを受けたのではなく、わざわざ協会職員が宿まで訪れた。
満足にもてなしもできないロアの前で、やって来た協会職員は前置きも短く、質問を開始した。
何があったか。何を見たか。何と戦ったか。まるで取り調べのような事務的で機械的な口調で、鎖の徊廊に飛ばされてから脱出するまでのことについて、淡々と質問を重ねた。ロアは頭の中でペロと相談しながら、事前にメリアと口裏を合わせた内容を、隠したいことは隠しつつ、可能な限り嘘をつかないように話した。
最奥の空間で自動人形と会話をしたと話したとき、聞き手の後ろで控えていた者の空気が一瞬だけ変わったが、特に何事もなく聞き取りは終わった。話すのは自由であるが、むやみやたらに言いふらさないよう忠告されて、彼らは帰還した。
昨日までの出来事を軽く想起したロアはのろのろとベッドから降りて、室内に備え付けられたテーブルと椅子の方へ向かった。そこで買い置いた食料を適当に食べた。
鎖の徊廊での激しい戦闘による疲労や不調はなかった。まるで数日間の休暇を取ったみたいに調子が良かった。今すぐ遺跡に行ってモンスターと戦おうと問題ない。そう思えるほど体調は万全だった。
ただあれだけの死闘を演じた後だ。精神的な疲れは多少なりとも感じていたので、しばらくは戦いの場に赴きたくなかった。昨日に引き続き今日も休みと決めて、ゆっくり過ごすことにした。
手の込んだ外食に比べるとだいぶ味気ない食事を食べ終わり、外出の身支度を始める。
まだ失った戦闘服の代わりは買っていない。休日の間にそれも買わなければと思い、鎖の徊廊で手に入れたインナーを身に付ける。その上に、以前モンスターの攻撃でボロボロになった戦闘服の代わりに買った、変哲のない普通の衣服を着る。
準備を済ませて宿を出ると、眩しいくらいの日差しが頭上から降り注いだ。時刻は朝というには遅れていて、昼に近かった。合同探索からの帰還が遅れたことで、生活のリズムが微妙に狂っていた。その狂った生活リズムも、この休日の間に正さねばと思った。
外出することを決めたが、特にこれといった予定があるわけではない。今まで訪れなかったところを意識的に寄ろうとだけ考え、当てもなく街中へ繰り出した。
「あっ、これ美味しい」
ロアは途中で適当に買い付けた氷菓子を口に含む。冷たい甘みが舌の上で溶けていく。
今いる場所は繁華街にある通りの一つだ。街の中心部を貫く大通りに比べれば人の波は疎らだが、ここも十分に人が多く活気に溢れている。道の両脇に並んでいる店の一つから、何となく気になったものを適当に選んで買った。
ペロと出会う前は、気軽にこのような贅沢はできなかった。遠巻きに眺めるか、自分には縁がないものだと素通りするか。興味や関心を抱くほどの知見すらなく、そこにありながら、存在しないものとして扱ってきた。
それが今では別だ。かつては手の届く位置にすら無かった贅沢を、懐具合を全く気にせず消費している。昔なら数日分の食費になるほどの金銭を、たかだか嗜好品のために、躊躇いなく対価として支払っている。それは装備に関しても同じだ。ほんの数ヶ月前までは、新しい装備を手に入れることに大きな喜びを感じた。稼ぎが増えて、より高価な装備に更新することに、強い達成感を得た。だが、今となってはそこまで強い感慨を覚えない。多少の興奮や喜びを感じるだけで、もはや当たり前の事実として受け入れている。
望むものを一つ手に入れるということは、望むものが一つ減るということ。それが果たして成長なのか、慣れなのか、何かを失った結果なのか。ロアには分からなかった。
また目的地を定めず移動した。
フラフラと人の間や街路を縫うように進むと、徐々に人の気配が少なくなってくる。そして頭上からは影が差し始める。見上げた先には、一つの巨大な建造物が屹立していた。
「壁、か」
そこには都市の内側と外側を分断する壁があった。一定の範囲を囲い込み、何者も寄せ付けないように聳える灰色。ロアはそれを複雑な感情を載せた瞳で仰いだ。
あの壁はただの壁ではない。多くを隔てる壁だ。
生まれを、富を、身分を、価値を、生き方を、区別する。たかだか一枚の壁が、およそ人という社会における全てを、厳然と隔てている。灰という色で彩られた壁は、まさしく非対称的に分けられた世界の中間を司る、都市における象徴だ。
この壁は今日も明日も、そして明日以降も、変わらず内と外を隔て続ける。壁の外で生まれた者のほとんどは、一生をその壁を仰ぎ見て暮らす。持たざる者として、生まれてから死ぬまでずっとその外側で生き続ける。
ならば、あの壁を越えることができれば、何かが変わるのだろうか。あの壁の向こうに行けば、今とは違う自分になれるのだろうか。新しい何かを見つけられるのだろうか。
ロアは己の行く先を想像した。そして薄々と察して、視線を下げた。
きっとおそらく、自分の未来は変わらない。
どれだけ強くなろうと、どれだけ金を稼ごうと、どれだけ多くの者たちから認められようと。未だ路地裏にいたあの頃と、大きく変われた気はしない。
この先も、変われる気がしない。
自分はこの壁の外側で生まれた。持たざる者として生きてきた。どれだけの成功を積み上げ、見せかけの栄光で塗り固めようと、根差した本質が変わるわけではない。
壁を越えたところで、壁の先に行けたところで、自分以外の何かになれる気はしなかった。
しばらくその場に留まっていたロアは、壁から視線を外して、背中を向けた。これ以上仰ぎ見た見たところで、何かがあるわけではない。明日からまた元の生活が始まる。探索者としての日々が返ってくる。今や当たり前となった日常に戻るため、来た道を戻ろうと踵を返した。そこで、腰元に装着していた端末から反応があった。
また協会あたりから連絡でも来たのか。ロアがそう思い端末を手に取ると、そこに表示された名前を見て意外そうに目を丸めた。すぐに通話を繋いだ。
「リシェルか?」
『ええ、そうよ。久しぶりってほどじゃないけど、サルラードシティ以来ね』
聞こえてきたのは間違いようもなく、サルラードシティで出会った女性探索者リシェルの声だった。彼女と別れてまだ一ヶ月ほどしか経っていない。それなのにその記憶は、とても遠い過去の思い出のように感じられた。
懐かしさに浸り切る前に、ロアは先んじて用件を尋ねた。
「何か用……もしかして、そっちでトラブルでもあったか?」
リシェル達には別れる直前の会話で、自身にまつわる事を含めてネイガルシティについて教えていた。そのことが原因で、彼女たちを要らぬトラブルに巻き込んでしまったかもしれない。そう思い、ロアはかすかに声を強張らせた。
『ええ、まあ。あったにはあったけれど、そっちはもう解決済みよ。今回連絡したのは、あなたと話をさせたい相手がいるからなの』
それを聞けてロアは安堵する。そして安堵はすぐに疑問に変わる。
発言の意味を思案するより早く、『代わるわね』という一言ともに、通話の先にいる人物の気配が変わった。
『ロア……?』
その声を耳にした瞬間、ロアは心臓が跳ね上がる思いがした。どうして通話の先から彼女の声が聞こえるのか。どうしてリシェルが彼女と知り合ってるいるのか。全く予期していなかったせいで息を飲んだ。
なんとか反応を絞り出した。
「レイア、か」
『うん』
通話の先にいたのは、ネイガルシティで別れっきりになっていた幼馴染の少女、レイアだった。彼女の声を聞いた途端、ロアの頭の中に彼女と別れた時の記憶が蘇る。感情を失った瞳で、自分の方へ銃口を向ける少女の姿が。
心の動揺を抑えて、平静を意識して、ロアは問いを投げかける。
「どうして、リシェルと一緒にいるんだ?」
『リシェルさんたちは、私たちのグループの助けになってくれたの。あれから色々あって、大変で。でも私たちがロアの知り合いだからって、色々とお世話になって。それで今は一緒に』
「そう、なのか」
レイアの話を聞いたロアは軽い罪悪感に苛まれた。
ネイガルシティを出立する直前、ロアはレイアたちが所属するグループのリーダーであるオルディンを始めとして、主要構成員の多くを殺害した。最終的にその数は二十人以上に及んだ。それだけの人数を失えば、組織として立ち行かなくなるのは当然だ。どうしようもなかった事とはいえ、そんな状況に追い込んでしまった事実を知って、自己嫌悪した。
同時に有り難く思った。決別しようとレイアやカラナ幼馴染だ。かつての大切な仲間だ。その彼女たちを助けてくれたリシェルたちに感謝した。
ロアは次に何を言おうか考えて、言葉に詰まる。何を言えばいいのか思いつかなかった。おそらく話せることは、話したいことは、たくさんある。だが、言葉が喉の奥に重くつっかえたように、口から思うように出ていかない。
それはレイアの方も同じだったようで、しばらく互いに無言が続いた。
一度大きくを吐き、考えをまとめたロアは、意を決して伝えるべきことを言葉にした。
「俺は今、ミナストラマって所にいるんだ。そこで、ダンとウェナの二人に会った」
『え?』
「それで二人から、ウィルバとマナは死んだって聞かされた」
少し遅れて、通話の奥から息をのむ気配が伝わってくる。レイアがどんな気持ちでいるのか、同じ経験を味わったロアには痛いほどよくわかった。それでも話を続けた。
「ネイガルシティを出てから、俺は次に訪れたサルラードシティで、ある人に出会った。その人は同じ探索者で、俺よりも経験が豊富で、探索者をやっていく上での知識とか小話とかをいろいろ教えてもらって、とても世話になったんだ。一緒に遺跡探索だってした」
ロアはまだ何ヶ月も経っていない当時の出来事を想起した。初めて訪れた都市。初めて訪れた協会。初めて訪れた遺跡。そして、そこで会った一人の探索者。足元で血まみれになって横たわる人物の姿を、記憶に焼きついて離れないその光景を、鮮明に思い浮かべた。
「その人も、俺は殺した」
感情を込めず、抑揚を抑え、過去の事実を述べるだけのように、淡々と言った。
今度はなんの反応も返ってこなかった。相手が本当に聞いているのか、いないのか。それすら定かでなくても、ロアは言葉を続けた。
懺悔のような独白を続けた。
「俺は正直、お前らに恨まれてると思ってる。仲間をたくさん殺したから。そのことを、後悔してもいない。今だって、お前のことを心配する気持ちや、迷惑かけたことを申し訳なく思う気持ちはあるけど、自分がやったことを、殺したこと自体を、決して悪いとは思っていないんだ」
これはロアの本音だ。ロアはオルディンを殺した。彼と彼の仲間たちを容赦なく皆殺しにした。それはルーマスやベイブ、遺跡で襲ってきた探索者たちに関しても同じだ。ロアは彼らを明確な覚悟と自らの意志を持って殺した。
そこに、負い目や悔悟は抱いていなかった。
「そんな自分がおかしいって自覚はある。知ってる顔を普通に殺せて、その命を奪える自分が、普通じゃないとは思ってる。でも、俺はそういう人間だ。平然と人を殺せる人間だ。それで多分、これからも、たくさんの人を殺すと思う」
どうしてこんなことを言うのか。ロアにもはっきりとは分からなかった。ただ漠然と伝えようと考えた思考だけが、自然と口の中から漏れ出てきた。
「だけど、お前はきっと、違うと思う。俺なんかとは違って、ちゃんとした、普通の道をいけると思う。だからもう」
『待って』
しかし、続く筈だった言葉は、言い終わる前に止められた。
特別大きかった訳では無い。強い感情が載せられていた訳でもない。けれど明確な意思が込められた声によって、最後まで言い切ることができなかった。
『お願いだから、それ以上は言わないで』
泣きそうな声音が耳の奥を震わした。どうしてかロアの頭には、顔をくしゃくしゃにして泣いている、幼い頃のレイアの顔が思い浮かんだ。
黙っているロアの耳元に、レイアの息遣いが伝わってくる。
『私は』
言葉が途切れる。次の言葉を探すような息遣いが伝わってくる。ロアは急かさず、促さず、静かに耳を傾ける。レイアが何を言おうとしているのか、どんなことを伝えたいのか。いつかのように黙って待ち続ける。
『私は……まだ、あなたに何かを言える言葉は、持ち合わせていない、けれど、──でも……!』
再び声が耳元を震わした。その声は途切れ途切れに、感情の発露を形にしていくように、言葉という形を帯びていく。
『いつか、いつかちゃんと! あなたと、ロアと、またあの時みたいに! 一緒に話したいって、そう、思ってるから……』
発する一言一言には、少女の切実なる想いが込められていた。
『だからあのね、あのねロア。だからわたし、私ね……!』
「うん」
ロアは無意識のうちに、伝える声に力を込めて相槌を打っていた。
『頑張るから……! 私も、あなたに負けないくらい、ちゃんと頑張るから!』
ロアの相槌に呼応するように、レイアの感情は強さを増した。
ロアはその想いをはっきりと受け取った。
『それだけは、伝えたかったの』
そこで言葉は終わった。返事を待つように今度はレイアが静かになった。
レイアの気持ちを受け取ったロアは、すぐに何かを言い返そうとして、間を置いた。何を言うべきか真剣に考え、時間をかけて、また口を開いた。
「お前がどうしてそういう結論に至ったのか。それは分からない」
思案した結果、余計な言葉を飾り付けるのはやめた。ありのままの想いを返すことにした。
「でも、俺はもう一度、そこに帰ってくるから。いつかちゃんと、お前に会いに、戻ってくるから。だからそのとき、次に会った時に、あの日できなかった話し合いをちゃんとしよう。……それでいいか?」
『うん……!』
レイアからは泣き腫らしながらも、嬉しそうな返事が返ってきた。
その声を聞けて、ロアも何だか嬉しくなって、自然と顔を綻ばせた。
「じゃあなレイア。お前と話せてよかった。あと他の奴ら、カラナやリシェルたちにもよろしく言っといてくれ。それと、次に会うまで元気でいてくれな」
『ロアも! 無事に帰ってきてね! 本当に、絶対に絶対に約束だから!』
「ああ、約束だ」
ロアは力強く頷いた。
守れるか分からない約束をするべきではない。ロアはそう思っていた。今でも思っている。探索者だ。いつ死んでもおかしくはない。約束をしたって、守れるとは限らない。
そう思いながらも、約束した。この一つの約束が、お互いを結び付ける唯一の繋がりだ。断ってはならないと、誤魔化してはならないと、無意識的にそう思った。
ロアとレイアはこれ以上の会話を重ねず、やがてどちらからともなく通話を切った。
ロアは端末を握っていた腕を下ろした。小さく息を吐き出した。口元には穏やかな笑みをこぼしていた。
それから顔を持ち上げた。空を仰いだ。先には青い空が見える。雲などほとんどない澄んだ空が見える。
この場所から輝かせる陽は見えない。高い壁に遮られて、その姿は見通せない。けれど、確かにそこでは今も輝いている。その輝きは壁の有無にかかわらず、きっといつまでも変わらない。
ロアはおもむろに右手を掲げた。そこにはない光に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。そして、それを掴むように、開いた手のひらを握りしめた。
世界は変わっていく。一秒一秒ごとに移り変わる。常に違う明日が訪れ続ける。
でも、変わらないものもそこにはある。変わっても、変わり切らない何かがある。変わらないでいてくれる何かがある。
たとえ明日の世界が今日と全く違うものだとしても、そこにある全ては、確かに今までを引き継いでいる。変わらずとも、変われずとも、きっとそれは、悪いことではない。
ロアは握りしめた手を下ろした。中を覗くようにそっと開いた。
届かなくても。掴めなくても。手の中には確かに、その暖かな温もりが感じられた気がした。
三章終了です。




