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シンギュラーコード  作者: 甘糖牛
第三章
69/72

メリアという少女

「メリア! そっちに抜ける!」


 主語の省かれた簡潔な言葉が飛ぶ。後方から戦況を把握していたメリアはその意味を正しく理解する。自分の方へ走り寄ってくる一体のモンスター。そちらに狙いを切り替え、援護のために発動待機させていた魔術を射出する。

 対象となったのはタテガミの生えた四足歩行の怪物だ。筋肉の盛り上がった体躯は全身から金属質の光沢を放っている。広がる口内には体表と同質の牙が生え揃う。平均的な人の体格を上回る図体は見る者に威圧感を与え、そこから繰り出される突進は反撃の手を鈍らせる恐怖と威力を伴う。大きさも体重も速度も並みの装甲車両と遜色ないモンスターが、巨体に似合わぬ俊敏さで、放たれた魔術を身軽に躱し切った。

 ただメリアにとってその程度は想定内。避けられた魔術を能動制御で操り、無防備な背後から狙った。貫通力に特化させた槍状の魔術。意思一つで軌道変更が可能なそれを、相手の視界外で操作して、メタリックな色合いを持つ皮膚を串刺しにしようと貫いた。しかし、モンスターの皮膚は見た目以上に強靭だった。普通の鋼鉄程度なら貫ける魔術をあっさりと弾き、効果を霧散させた。

 攻撃の失敗を視界に映したメリアは小さく舌を鳴らした。そして勢いの衰えがほとんど見えない巨体を避けるため、横へ跳んだ。敵を捉え損なったモンスターが、逃した獲物を追うため自身の体に急制動をかける。巨体を支える剛力を床に押し付け、足先から生える爪で材質を削り取り、強引に動きを止めた。

 その瞬間をメリアは狙った。体を切り返す際に、一時的に止まらざるを得なかった行動パターンを読み、相手の側面へ回った。モンスターの脇腹に両腕を突っ込み腰を落とした。

 最低でも数トンはくだらない体重は、非力な少女が動かすことは到底不可能だ。しかし人外の膂力を有したメリアにとって、この程度の重さは苦にならない。全身に着込んだ強化服と魔力による強化を重複させて、強引に体を持ち上げる。金属の塊に等しい巨体をひっくり返した。

 モンスターが横倒しになり腹部が露わになる。メリアはそこに杖を向けた。動きながら構築していた魔術。機械系の頑丈なボディを貫く目的で設計された対装甲魔術に魔力を通していく。防御力など関係なくダメージを与える一打を、至近で放った。

 指向性の衝撃波が杖先から腹部へ伝わる。それが更に体内の奥深くまで浸透していき、モンスターの内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜ破壊する。モンスターは本物の生物のように、肉体の構成を担う体液を口から吐き出し息絶えた。


 無事に敵を倒し終えたメリアはホッと息を吐いた。それから勝利の余韻に浸ることなく、意識を別の対象に移した。まだ戦闘は終わっていない。すぐに共闘者の援護に入るため戦意を立て直した。

 しかし、その心配は無用だった。運命を共にする少年であるロアは、メリアが倒したのと同様の敵を、ちょうど倒し終えるところだった。頑丈な外皮など関係ないように、モンスターの頭部にブレードの切っ先を突き立てる。体の制御を司る器官を的確に破壊して、自身より大柄なモンスターを戦闘不能に追いやった。その周りには同様の死体が、他に二体転がっていた。

 メリアとてそれほど手間取ったわけではない。むしろ費やした時間を考えれば優秀な部類に入る。それなのに、彼女が一体を相手にしている間に、ロアは三体の敵を屠っていた。明らかな実力の差がそこにはあった。


 もはや言い訳の余地すら見当たらない明白な事実を前にして、メリアの胸中は暗然たる感情に覆われた。




「……そっちにばっか負担を押し付けて悪いわね」


 戦闘を終えて一息つくロアの元に声が掛けられる。声をかけたのは同じく敵を倒し終えたメリアだ。メリアの声と表情には内心の感情が込められていた。

 その後ろめたさが混ざった謝罪の言葉に、ロアは気にした様子を見せず応じる。


「別にいいよ。俺はずっと一人で戦ってきたから、これくらい慣れっこだ。それに、少しでも敵を引きつけてもらえばそれだけで助かる。援護だってしてもらえてるし」


 ロアはメリアの働きに、十分助かっていると感謝を述べた。

 それを聞かされても、メリアは表情を暗くしたままだった。


『俺、なんか不味いこと言ったかな?』

『さあ、女心と上の空って言いますからね』


 ロアはメリアを気遣っているつもりだった。

 メリアの扱う魔術は強力だ。中級ランク帯にも十分に通じる威力があり、敵の強さや相性によっては一撃で倒すほど優れている。だが発動までに時間を要する。その時間はこのレベルの敵が相手では大きな隙となる。そして、それは数的不利な状況では力を発揮しきれないことを意味する。一体を相手にしている最中に、別の敵に襲われれば致命的だ。

 だから敵の数が多いときは、自分が前で壁を張る必要がある。その分、敵が強いときは援護を頑張ってもらう。最初の敵を倒したときのように、それぞれの強みを生かして、互いが互いを助け合う。この場所から二人揃って脱出するためには、そういう協力が必須であると、ロアは認識していた。

 しかし、当人がその現実をきちんと受け止められるかどうかは別だ。事実のみを列挙するなら、確かに片方が大きな負担を被っている。引け目を感じておかしくはない。

 オッゾからは気位が高い人物だと聞いていた。おそらくあまり力になれていない現状に、忸怩たる思いを抱いているのかもしれない。ロアはそう考え、メリアが自分の気持ちに折り合いをつけられるようになるまで、放っておくことにした。

 次いで床に転がるモンスターへ視線を移した。その眼には複雑な感情が載せられていた。

 倒したモンスターはまだ消えていない。床の上に転がったままだ。生体型のモンスターであるので、いつもならばさっさと魔力に変えている。だが今回ばかりはそれができない。ロアはその現実を歯がゆく思った。

 感覚で言えば討伐強度22前後はある敵だった。防御力は固く、俊敏性にも優れた個体。単純ゆえの手強さを感じた。新しいブレードでなければもっと苦戦していた筈だ。それだけの強さを持つ個体を一人で三体も倒せた事実には、成長を実感する。だのに、見返りとなるものは何一つ手に入っていない。魔力と体力、ついでに装備を損耗しただけ。

 強力なモンスターと無理やり戦わされて、金も魔力も手に入らない。踏破時に報酬が貰えるという話だったが、余程のものでなければ割りに合わなかった。


(……言ってもしようがないか。金や魔力より命だ。死ななければ儲けものくらいに考えよう)


 ロアが合同探索で手に入れた遺物は結構な金額となった。もしも装備や魔力を使い果たすことになっても、その金で拡錬石を買えば、最低限魔力の補給はできる。残りで装備を買って、またコツコツと再始動すれば、困窮探索者になることだけは避けられる。

 ロアは鎖の徊廊からの脱出を最優先とし、残りの懸念や心配事は二の次とした。

 少し休憩を挟んでからまた先へ進んだ。




 出てくるモンスターに規則性はなかった。

 生体型のモンスターが出たと思えば、次は機械型のモンスターが出てくる。かと思えば、生物と機械の両方の特徴を持ち合わせた個体も出てくる。さらにその見た目や性質は千差万別で、一度として同じ敵が現れることはない。複数の同個体が現れることはあっても、以降は全く別の敵が出続ける。

 幸いと言っていいのか、強力な個体は単独で出現し、そうではないものが徒党を組んでいる。その点は迷宮と共通している。

 常に異なる特徴を持った未知の敵を相手に、全く別の戦い方や対処法を編み出して応じ続けなければならない。培ってきた戦闘経験と、探索者として蓄えた知識が、何よりモノを言う場所だった。


 経験も知識も足りないロアとは異なり、メリアは養成施設時代から何度も座学や訓練を受けている。探索者が命がけで集めてきた知識を優れた頭脳で吸収し、高度なシミュレーションによって様々なモンスターと仮想戦闘を行ってきた。その経験値がある分だけ、鎖の徊廊に出てくる初見のモンスターたちに対応しやすかった。

 外見の大まかな特徴から、モンスターの有効な倒し方を予測する。外皮の硬い相手は腹部分が浅いと予想し、素早い相手には面での制圧が効果的だと判断する。駄目ならまた別の弱点を模索し攻め立てる。養い育み積み上げてきた経験を、申し分なく発揮した。

 だがここは鎖の徊廊。数多の探索者を飲み込んできた試練の場だ。そして対敵するはモンスター。人知を凌ぐ怪物だ。安易な機転と画一的な戦い方だけで乗り越えられるほど、甘くはない。


「ぐっ」


 メリアの口から苦悶の声が出た。腹部に受けた痛みで構築中の魔術が未遂に終わる。

 今彼女と対峙しているのは小さな敵だ。子供の腕でも抱えられそうな小柄な体躯をした、純白の毛皮を持つモンスター。その個体が頭部に生えていた細長いツノを、弾丸のような速度で飛ばした。外見の大まかな特徴から、突進とともにそのツノで標的を刺し貫くと判断していたメリアは、想定外の攻撃方法を取られ虚を突かれた。なんとか回避行動に移れはしたが、脇腹にはモンスターが飛ばしたツノが、深々と突き刺さった。

 痛みと衝撃で悶えるメリアに、モンスターがツノを無くした頭部で頭突きを行う。小柄と言えどれっきとした怪物による一撃だ。魔力という超常の力で強化された体は、体格差という不利を容易に撥ね退ける。メリアはなんとか手に持つ杖で防ごうとするも、踏ん張りの効かない防御は簡単に突き崩された。

 尻餅をついたメリアは必死に立ち上がろうと腕と足に力を込めた。だが痛みを発する腹部のせいで、すぐには立ち直れない。眼前では再びツノを生やしたモンスターが、追撃の構えを取っている。

 痛みでぼやける視界を懸命に凝らすメリアは、目の前で鈍色の斬影が宙に描かれるのを見た。


「大丈夫か?」


 ただの一振りでモンスターを仕留めたロアが、腹部から血を滲ませるメリアのそばに近寄った。


 当初は前衛で戦うロアのサポートをこなしていたメリアだったが、敵の数が増えるにつれ思うようにいかなくなった。メリアの戦い方は数的優位を前提としたもので、一対一や数的不利な状況には向いていない。だから次第に後方から援護を入れることもままならなくなり、足を引っ張る機会が多くなった。

 メリアは魔術を組み立てるのが遅い。すなわち攻撃までに時間を要する。それは彼女が即興組立型の発動体を使用しているのが要因である。

 キザニスに指摘された通り、メリアは多少無理して即興組立型の発動体を使っていた。使い易さでは前提成立型が勝っている。予め発動体に魔術の効力を一任するこちらは、使用者の能力に依存せず一定の威力が保証される。戦闘時にいちいち思考を割いて魔術を扱うのは難しい。前提成立型の発動体は未熟な者か近接戦闘と併せて戦う者に好まれ使われている。

 故に、メリアはあえて即興組立型の方を選んだ。即興組立型は前提成立型より、強力で拡張性の高い魔術を発揮できる。最初は前提成立型を使う探索者でも、高ランクになれば徐々に即興組立型へと切り替えていく。近接戦闘という選択肢を予め捨てているメリアは、早くから難度の高い装備に慣れるために、積極的にこちらを使用してきた。

 普段の探索ではこれで問題にならなかった。チームでの探索は前もって狙うべき敵の特徴や状態の把握に努める。戦闘時間は拙速より巧遅が基本だ。倒す速さより慎重さが優先される状況で、彼女の戦い方が足手纏いになることなど、まずなかった。

 しかし、鎖の徊廊では勝手が異なる。ここでは事前に敵を調べることは不可能だ。闇の先からいきなり現れる敵に対して、瞬時に戦い方を定める即応力が求められる。効果的な攻撃手段を企図する十分な時間は与えられない。

 そして鎖の徊廊のモンスターは当然のごとく魔力を操っている。それは討伐強度が20を超えている証だ。

 中級探索者であるメリアは普段からそのレベルの敵を相手している。なんなら、DDDランク帯のモンスターの討伐経験だって持っている。ただしそれは、味方の存在があってこそだ。数的優位を確保しての話だ。自身の適正ランク帯の敵と一対一で戦い勝利を収めた経験など、ほとんどなかった。

 ずっと一人で戦ってきたロアとは異なり、少数の敵を複数人で相手にしてきたメリアでは、明確に戦闘経験に差が表れていた。


「……だいじょうぶ、よ。これくらい」

「そうか」


 強がりを口にするメリアは腰元のポーチに手を伸ばした。そこから傷を治すための治療薬を取り出した。それを汗と涙の浮かんだ表情で乱暴に口に含み、鎮痛作用を感じ始めるとともに、腹部に刺さったツノを一思いに引き抜いた。引き抜く際の痛みで直前より大きな苦痛を喉の奥から漏らしたが、荒い息を吐きながら必死に痛みに耐えた。傷が塞がり切るまで傷口を両手で抑え続けた。

 その様子を側で見ていたロアは、過剰な心配は無用だと思い、背中を向けた。再び通路の奥を見据えた。

 この迷宮の底意地の悪さは既に知れている。戦闘後の緩んだ瞬間を狙ってモンスターが現れるのを警戒した。案の定と言うべきか、おかわりと言わんばかりに追加の敵が現れた。


 ロアはこの迷宮に来て一つの技を試していた。前回の探索時にペロから聞いた一つの話。肉体の感覚器官を経由せず身体を動かす技術。すなわち動きの極意。

 手本は既に持っている。脳裏に思い描くのはある動きだ。リシェルやハルトが行っていた予知に等しい反応行動。あれを己の身で再現しようと試みる。

 ここまで開けていた眼を直感的に閉ざした。


(目や耳で捉えるんじゃ駄目だ。それじゃ遅すぎる。考える前、認識するのと同じタイミングで動き出さないと)


 感覚器官に頼るやり方では上手くいかないと悟った。視覚や聴覚による余計な情報を意識から排除して、存在感知を唯一の手がかりとした。

 前方から現れるのは敵の数は三体。二体は地を這い、一体は宙を飛んでいる。二体は同じ形状を持っている。

 ロアは走り出した。通路の壁に沿って接近した。迫るロアをモンスターが迎え撃つ。地を這う二体の個体が魔力を高め、背中から生える金属の棘を大量に飛ばした。

 攻撃の初動を察知したロアが、壁に向かって跳ぶ。足裏に魔力を集中させて、床と平行になってそこを駆け上がる。遅れて大量の棘が飛んでくる。走り抜けた箇所に鋭利な棘が断続的に突き刺さる。ロアは相手が照準を合わせ切るより一瞬早く加速して、背後から追ってくる濃密な気配に捕まらないよう、壁の上を走り抜ける。その間もずっと目を閉ざしていた。

 攻撃時に膨れ上がったモンスターの存在感が、時間の経過とともに急激に萎んでいく。間も無くモンスターによる攻撃が完全に途切れた。 

 攻撃が途切れる一瞬前、ロアは壁を蹴って直下へ舞い降りた。天井に近い高所から床に張り付いた敵に仕掛けた。狙うは攻撃の際に最も強いオーラを発した箇所だ。落下の勢いを利用し、ブレードを逆手に持ち替えて、その部分を強化した刃で正確無比に突き刺した。体表を覆う硬い鱗と、その下に詰まった肉組織より奥に位置する、硬い物体を貫いた感触を手元から得た。モンスターの命に等しい拡錬石を砕いた。

 一体を一刀の元に屠ったロアは、刀身から返ってくる手応えを頭で認識するより早く、ブレードをモンスターの体から引き抜いた。体の向きを反転させ、すぐそばにいるもう一体の頭部に向けて振り放つ。反応しきれず固まったように静止していた個体が、頭部を二つに切断されて絶命した。

 最後の一体。空中を飛行する個体がロアの軌道を辿って追ってくる。上空から垂直に降下するモンスターは、ロアに向かって直線的な機動で飛翔する。

 ロアは相手の急激な存在感の増大を感じ取り、準備していたスタッガーエッジを射出した。左手から飛び出した魔力の刃が、降下するモンスターに高速で突き刺さる。そして発生した衝撃がその小さな体を吹き飛ばすと、モンスターは内側から爆散した。

 爆発とともに飛び散る棘のような鋭尖な体組織を、ロアは遮蔽障壁を張って防ぎきり、若干顔をしかめて呟いた。


「自爆するタイプか。エグいな」


 もしもブレードで斬り裂いていれば、至近から爆発を受けて多大なダメージを受けていた。接近を許しても同様だ。見た目は明らかに生物だった。外見から判断していれば自爆するとは思わなかった。鎖の徊廊という場所は、とことんまで先入観や意識の隙を突いてくるのだと認識した。

 切り替えたロアは、今しがたの戦闘の出来を相棒に批評してもらう。


『今のどうだった? できてたと思うか?』

『まあまあですね。さっきよりは少しだけ良くなりました』


 本人としては手応えを感じていたつもりだったが、返ってきたのはやや厳しさの残るものだった。


『個人的には悪くない感触だったんだけど』

『理解度が欠足しています。まだまだ頭で考えている部分が大きく、もっと直感的な動作でなければいけません。それと大前提として、根本的な身体能力が全く足りていません。こればかりは地道に鍛え上げていくしかありません』


 そう言われたらロアには何も言い返せない。

 ペロの目指す完成形がどこにあるのか。まだまだ道のりは長そうだと苦笑した。




(強いとは思ってたけど、まるでハルトみたい)


 手持ちの治療薬で傷を回復させるメリアが、まだ鈍い痛みを発する腹部から意識を逸らして、眼前で行われた戦闘を眺めていた。熱意を失い、意気の削がれた面持ちで、その戦い振りを観察していた。

 戦闘時に背後に位置取るメリアは、自然とロアが戦う姿を見る機会が多くなった。その観察の結果からすれば、目の前の少年は一戦一戦を乗り越えるごとに、強くなっている気すらした。それほど卓越した実力を秘めていた。


 (……これだけ強いなら、ステルス系の奇襲に気づけても当然でしょうね。それなのに、無駄に対抗意識を燃やして、空回りして……、ほんっと馬鹿みたい)


 自身の言動を振り返りメリアは自嘲する。口元に力無い笑みを浮かべた。

 メリアがキザニスとの無謀な勝負に乗ったのは、彼に対する苛立たしさだけが理由ではなかった。イラついたのとは別の原因が存在した。それは今運命を共にしている少年に起因したものだった。

 一昨日の合同探索中に起きた二班によるモンスターの討伐作戦。それに後衛役として参加していたメリアは、戦闘中にあるモンスターから不意打ちを受けた。その個体は高いステルス性を有した個体で、彼女を含めた戦闘に参加したほとんどの者が、その奇襲に気づけなかった。

 ハルトしか気づけなかったのならよかった。彼はCランクだ。若手の中で抜きん出た実力を持っている。仮にそうであったなら、実力差があるのだから当然だと納得できた。仕方がないで終わった話だ。

 しかし、モンスターの奇襲に気づいた者はもう一人いた。しかもその人物はメリアと同じDDランクで、一流チームに属しているわけでも、実力が知られているわけでもない。ソロで活動する無名の若手だった。

 その事実がメリアのプライドを刺激した。同ランクの無名の探索者が気付けて、アケイロンという一流チームに属する自分が気付けなかった。そして奇襲に気づけなかったことが原因で、己は死にかけた。それがメリアにとって何より許せず、情けないことだった。

 だからキザニスとの勝負に乗った。他の班員が力を見せる中で、自分が劣っている存在だと認めないために。キザニスとの勝負で、その少年に自分の実力を見せつけ、被った屈辱を払拭するために。一人の探索者としての矜持と自尊心が、あれ程までにメリアの心と感情を突き動かした。

 そんなメリアは、もはやそのときの熱を完全に失っていた。残ったのは、冷たくなったプライドと、空虚な底意地だけ。自分という人間に対する何もかもが、滑稽で馬鹿馬鹿しいものに思えていた。

 空いた胸中を埋めるように、ひらめきに似た一つの確信が湧き上がる。


(きっとこういう人間が、上に成り上がる才能を持った人間なのでしょうね。……私なんかとは違って)


 自分は彼らには及ばない。特別な存在にはなり得ない。

 メリアの中で湧き上がり始めた劣等感と諦念が緩やかに混ざり合い、空っぽになった胸の内をじんわりと満たした。





『家の役に立て』


 それが父からよく聞かされた言葉だった。メリアは家族から愛情をもらった記憶はほとんどなかった。

 メリア・コーイッド。それが彼女の正式の名前だ。

 壁の外で性は一般的ではない。正式な身分登録が存在しないため苗字を持つ必要がなく、血縁集団を持たない者にとっては、己が根差した地縁と世俗の関係性が、自身の生を意義付ける全てだからだ。壁外で仮身分を取得する際も、性を持つ書類上の義務は生じない。そのため性を持つのは基本的に壁内の住人だけとなっている。

 当然ながら壁の外で暮らすメリアは壁内の市民権を得ていない。ただ彼女の社会通念上の父親は市民権を持っていた。メリアが性を持つのには特殊な事情があった。


 境域では気まぐれに作られては捨てられる子供がいる。それは主に人工子宮から生まれている。

 人工的な出産技術の発達により、生きた母体を介さずとも子供を作れるようになった。結果、人工的に作られる子供を人的資源とする見方が強まった。今日では境域指定都市連合という支配組織の誕生で、その手の風潮には一定の歯止めがかかっているが、個人の持つ人権を重視しない無法都市では、日夜こうした資源としての人材が生み出されている。それは無法都市だけに留まらず、連合の加盟都市でも似た事例が存在する。

 管轄指定都市では子供を作るのに法で規制が掛けられている。各人の年収や地位、社会的信用力で持てる子供の数が決められている。これには壁内の人口を制御するという目的がある。

 壁の内側に住める人間の数は限られる。壁で覆われた都市では利用できる土地の範囲は有限で、居住エリアの数は土地の広さに応じた量となる。人工的な妊娠技術により気軽に子供を作れるからと、無制限に作られては都市の許容量は簡単に破綻する。

 人が増えて過密が進めば快適性は失われる。安全で快適で過不足ない暮らしを提供するために、都市による綿密で厳格な人口計画が立てられている。それに基づき出産定員は定められ、誕生する赤子の数は正確に管理される。

 そうなると問題になるのが自身の後継者に関してだ。子供を持てる枠は決まっている。そして壁内で産んだ子供には必ず扶養義務が発生する。壁の外とは異なり、壁の内側では誰もが生まれつき市民権を有する。成人年齢に達するまで、正当な理由なく自身の子を放逐することは法律で禁止されている。また、壁内では子供を作った数に応じて税が課される。扶養枠の範囲内でもそれは変わらない。子供を持ち過ぎれば経済的な負担は増加する。

 都市や企業の要職に就く者に限らず、誰もが我が子には高い能力を求める。以前は天運に任せる部分が多かった生殖も、人為的な妊娠技術の発達により容易となった。それは子供の能力に関しても例外ではない。遺伝子操作や先天的肉体改造を施されて生まれる調整児。境域では発育段階の胎児に対する調整が当たり前に行われている。

 調整児は高い能力を持たせるほど費用が増す。同時に自然や不確定に頼る部分が大きくなる。全く同じ遺伝子に同じ調整を施しても個体差が生じる。胎芽や胎児の段階で成長予測はつくとはいえ、正確な能力が測れるようになるのは嬰児の段階からだ。

 高い金をかけて失敗したくない。より高い能力を宿した子供を手に入れたい。富裕層や権力者ほどその思いは強く、非道な手段を選ばせる。

 人口抑制策による都市の規制には抜け道が存在していた。壁の外で産まれた子供に関しては、規制の対象外となっていた。彼らは法律の庇護の外に生まれている。だから壁内のルールには縛られない。

 そして一定の地位にある者であれば、自身の扶養枠を使い、壁外の住民を壁内に招き入れることが可能である。故に一部の者は、壁の外で作った調整児の中で、優秀な個体だけを厳選して扶養に入れている。残りは壁外の養護施設に成人までの養育費とともに放り込まれるか、嬰児取引によって他の市民の元へ引き取られる。

 都市が非人道的とも言えるこのやり方を事実上黙認しているのは、壁外での経済活動や探索者活動を活発化させるためである。高い技術力で作られた子供は遺伝的に優秀さが担保されている。彼らが大人になり探索者や商売人として成功を収めれば、ひいては都市の利益に直結する。六代統轄が求めるような優秀な人材も生まれやすくなる。

 壁の外で容姿や能力に優れ頭角を現す者は、そういった背景を元に生まれた子供が多い。壁内の事情を少しでも知る者にとっては、公然の秘密となっている都市の闇の一部である。


 メリアは調整児ではない。母体出産で生まれた人間だ。正確には母体にいる際に遺伝的な調整を受けていたが、母親の胎内から産まれたので純粋な調整児とは呼べない。その程度の話だ。

 完全な体外出産とは異なり、母体出産では上記のような裏道は使えない。厳密には可能でも、その場合は壁の外の人間との間に子供を設けるか、一時的に市民権を喪失してわざわざ壁の外で出産を行う必要がある。当然ながら調整児ですらない子供を手に入れるために、そのような面倒な真似をわざわざ行う者は存在しない。

 だが、世界には決して体外出産では産まれ得ない存在がいる。それこそが魔法使い。産まれながらの超越者だ。

 生まれつき他の人間とは隔絶した力を持つ魔法使いは、人間の母体からしか生まれないというのが通説である。世に存在する魔法使いの多くが、壁の外や無法都市にて誕生している。

 メリアの父は魔法使いを手にするため、人工的な胎生機器を使わず母体から子供を出産させた。魔法使いが生まれる確率は数百万人に一人とも、数千万人に一人とも言われている。常識的に考えれば狙って魔法使いを生み出すなど不可能に近い。しかしメリアの父は、とある筋から魔法使いが生まれやすい条件があるという情報を手に入れた。

 魔法使いは生まれながらの超越者だ。上級探索者すら凌駕する力を持つ存在だ。手に入れれば自身にとって大きな手札になると考え、その方法を実行した。

 結果は語るまでもなく、完全な失敗だった。方法はあくまで生まれやすいだけで、確実とは程遠いものだった。メリアはそれなりに優秀なただの一人として生を受けた。けれど失敗に終わったメリアの父に落胆などなかった。彼自身も、本心からその方法で上手くいくとは思っていなかった。上手くいけば儲けもの。失敗したところで大したリスクはない。その程度の心算で行われた賭けだった。

 望まぬ結果を宿せなかったメリアの扱いは雑だった。壁の外で生まれたため市民権は得られず、扶養枠にも入れてもらえない。認知されなかったわけではない。虐げられたわけでもない。ただただ子供の一人でありながら、興味のない存在として扱われた。


『家の役に立て』


 たまに父親と顔を合わせるたびに、まるで呪いをかけるように同じ言葉を聞かされた。メリアにとって父という存在は、家族でありながら親愛とは無縁の場所にいた。生活圏の外から自分の人生に多大な影響を与えてくる、赤の他人に等しい存在でしかなかった。母親とは顔を合わせたことすらなかった。

 家族と物理的にも精神的にも切り離されたメリアであったが、生きるのに不自由はしなかった。養育を兼ねた生活支援用の自動人形を与えられ、生活費も壁の外では充分な額を支給された。教育に関しても高度なものを受けられた。壁の外にいながら、壁内の下流階級と遜色ない暮らしを送ることができた。

 そうして成長したメリアは、年齢を重ねるごとに、己の現状へ理解が及ぶようになった。同時に将来に対する不安と恐れを抱いた。今はまだ役立つことを期待されているから生かされてるだけ。もしもその価値すら認められなくなればどうなるのか。自身の足元が決して安定した状態ではないのだと理解した。

 だからメリアは決意した。父親という人生の束縛から逃れるため。価値を示さねば必要とされないという、染み付いた強迫観念に背中を押されて。己一人で生きていける力を望むようになった。

 力とは暴力。壁の外で成り上がるとは探索者になること。メリアの取るべき進路はこうして定まった。本人に自覚はなくとも、彼女もまた境域という場所に人生を左右された一人だった。探索者の養成施設に入ることを、父親には止められなかった。聞き慣れた言葉とともに、関心なく送り出された。

 生憎とメリアは才能に恵まれた。曲がりなりにも調整児として、遺伝的に優等な個体として生まれた彼女だ。壁の外で生まれた凡人に遅れを取りはしなかった。同期が次々と落ちこぼれていく中で、才覚を発揮して優秀な成績を残し続けた。それは彼女の生まれついての才能や不断の努力の賜物だったが、幼少の頃から与えれらた高度な教育のおかげでもあった。探索者を志す子供の中には、親に死なれた者や捨てられた者など、貧しい者たちが少なくない。養成施設に入れる余裕がある者ですら、高度な教育を受けた者はほとんどいない。父親に対して純粋な感謝を向けるほど割り切れはしなかったが、その事実を認識するくらいの理性は残っていた。

 養成施設を卒業したメリアは、正式にアケイロンの一員となった。アケイロンはウェイドアシティでも指折りの探索者チームだ。手に入れた成果としては申し分ない。まだ理想の自分には程遠くとも、これで父の影響に怯えて生きる必要はなくなった。メリアはここで一つ、自分の人生に区切りをつけることができた。

 心の安心を得たメリアは、アケイロンに入団した一人の少年に惹かれた。心の底に押し込めていた感情。年相応の恋心を自覚し始めた。養成施設時代は色恋沙汰に割く余裕も興味もなかった。けれど張り詰めた心の緊張が緩んだことで、初めて少女らしい無垢な感情を抱いた。

 だが、少年のそばには既に別の少女がいた。そこに割り込む余地など見つからなかった。メリアはそれを知ってすぐに諦めた。父親からの束縛を逃れようと、これまでの人生観は深く根付いたままだ。今さら何も知らない乙女のように、一途に他者へ人生を預けられるほど、自尊心を捨てきれはしない。メリアにとって、誰かに助けを切願することと、自助自立の道を行くことは、どうしようもなく不可分だった。他者へ一方的に期待や依存する関係など、望んではいなかった。初めて抱いた淡い初恋は、あっけなく終わらせた。

 メリアは再び浮ついた感情に蓋をした。それは自分の人生に必要のないものだと認識した。生きていくのに必要なのは己の力のみ。初めて探索者という道を選んだ時とは別の方向から、同じ結論に至った。

 以前のストイックで自制的な己に立ち返った彼女は、チームメンバーとの馴れ合いや交友も拒んだ。特に自身より能力の劣る者を嫌悪した。実力が劣っているのに、死に物狂いにならない。他者と群れて馴れ合い、ぬくぬくと過ごす。それは彼女が嫌う弱者の生き方そのものだった。己の生き方を汚す染みでしかなかった。だから同じチームの仲間であっても容赦なく糾弾した。無能と蔑む相手にどれだけ嫌われようと気にしなかった。

 そうしながら、メリアは己の信条や信念とは相反する行動を起こしていた。私生活ではお洒落して着飾った。身だしなみを欠かさず、常に可愛く見られることを意識した。他者を惹きつける自分でいることを心がけた。

 それは承認欲求なんて、俗物的な欲求を満たすためではなかった。ただただ、自分の価値を示すための行為だった。メリアは己という存在を、自分が認める他者から認めて欲しかった。自分の持つ本質的な価値に気づいて、手を差し伸べてくれる誰かが現れるのを望んでいた。

 そんなささやかで少女じみた贅沢な願いを、決して誰に明かすこともなく、ずっと胸の内に抱き続けていた。




 分かれ道はあるだけで、基本的に一方向に進んでいる。直線距離にすればかなりの長距離が続いている。一定範囲内に築かれる普通の迷宮と比べれば、明らかに異様な構造を持っている。

 道中で発生する突発的な遭遇戦は予断を許さない。闇の先から現れる敵に対応するため、戦闘中でなくても気を抜けない。加えて、ほとんど変わらない迷宮の景色は、精神的負担を重くする。暗く閉ざされた環境は、挑戦者の心身をじわじわと蝕む。

 戦闘後に気休め程度の休憩時間を取っていようと、一戦一戦が積み重なるごとに疲労は濃くなってくる。

 ロアは明らかに困憊した様子を見せるメリアの方を振り返り、提案する。


「少し休憩するか」

「まだ大じょ……いえ、お願いするわ」


 あからさまに気遣われた事実に忸怩たる思いを抱き、メリアは反射的になされた提案を跳ね除けようとした。しかし、自分より強い者からの提案と、無意味な意地を張るべきではないというプロ意識が、空虚なプライドを押しとどめた。同時に、小利口になった己の思考を自覚して、また内心で自嘲した。もしもこの場所に来る前ならば、絶対に意地を張って断っていただろう。その冷静な自己認識が、彼女の自己嫌悪をさらに深めた。

 ロアとメリアは通路の壁に横並びで腰を下ろした。その距離感は信頼を置く相手ほど近くはなくとも、一蓮托生の相手と呼べるくらいには近いものだ。異性同士の浮ついた空気とは無縁の、命を預け合う連帯意識を互いに抱いていた。

 ロアは背負っていたリュックの中から食料を取り出した。どれだけ常人より優れた体力を獲得しようと、補給なしで活動を続けるのは難しい。調子(コンディション)を良好に保つためにも、食事は取れるときに取る必要がある。買っておいた栄養補給食を摂取した。

 味にこだわり用意した食事は、こんな時でも変わらぬを美味しさを提供してくれる。むしろこんな時だからこそ、いつもより美味しく感じるのかもしれない。そう思いながら食べ進めた。

 食べる途中で、ロアはさりげなく隣に座る少女の方を窺った。当然のごとくと言うべきか、メリアも同様に補給を行っている。彼女は強化服の上から身につけたポーチバッグから小さめのケースを一つ取り出して、その中に入っていた丸い物体を口に含んでいた。

 随分とささやかな食事に、ロアは興味深そうな視線を送る。気づいたメリアが疑問を呈する。


「何?」

「いや、悪い。なんかそれ、すごい小さいから気になって」

「高エネルギー変換糧食よ。体内への吸収効率やエネルギー効率に特化した探索者向けの補給食。探索中にトイレなんて行きたくないもの」

「トイレ? そりゃあ、俺だって行きたくないけど」


 答える途中でロアは一つの事実に思い至る。


『そういえば俺、ペロと会ってから探索中にそういうのなかったな』

『私が適当に対応してましたからね』


 何気なく言われた発言にロアは驚く。構わずペロは続ける。


『排泄管理はなかなかセンシティブな問題です。睡眠と同様、生物にとって致命的な隙になります。そのため私には老廃物を処理する機能も備わっています。と言っても、適当に存在変換しているだけのものですがね』

『そうだったのか。なら、普段からそうしてくれてもいいんじゃないか?』

『やれと言われればやりますが、その度に魔力は消費しますよ。それに生理現象を催さなければ、人として相応の違和感が生じます。あまり人間離れした特徴をひけらかすのはどうかと思います。まあ、最終的にはそうなるのが理想でしょうが』


 理解が及ばないロアはどういうことなのか尋ねる。


『魔力を生体エネルギーへ変換することで、無休無補給での活動を行うという意味です。強くなるほどに生命活動に必須の行為を無駄として省けるようになります。それは生理現象であっても同じです。別次元の新たな存在に生まれ変わるという表現が近いでしょうか。まあ、残そうと思えば生来の機能を普通に残せますので、まんま人外になるわけではありませんけどね』


 微妙に分かりにくい話でも、なんとなく分かった気がして、ロアは『へー』と頷いた。

 再び隣に座る人物へ意識を移した。


「ところで、もし食料を持ってなきゃどうするんだ? 飢え死にするしかないのか?」


 場合によっては移動ペースを上げる必要があるかもしれない。そう思ってロアは質問した。


「そこは外と一緒よ」

「一緒?」


 メリアは横目でチラリとロアの顔を窺いながら答える。


「モンスターを食べるのよ」

「え」


 意外な答えが返ってきたせいで、ロアは間の抜けた声を出した。


「機械系は無理だけど、生物系のモンスターは食べられるのが多いわ。探索者の養成施設なんかに通ってると、遺跡なんかで食料が尽きた場合や失くした場合を想定して、可食部位の見分け方や安全性の確保なんかを訓練で学ばされるの。その様子だとあなたは食べたことないみたいね」

「ああ、うん」


 モンスターが食べられること自体は、ペロから聞いていたので知っていた。実際に食用のモンスターを食べる機会だってミナストラマに来てから恵まれた。だが、他の探索者が訓練の一環でそんなことをしてるとは知らなかった。

 この迷宮に出るモンスターの味はどんなものなのか。外のモンスターと味は違うのか。この機会を逃す二度と食することはできないのではないか。

 モンスター食に興味を抱いたロアがそんなことに思考を割いていると、察したメリアが忠告を述べる。


「言っとくけど、興味本位で食べようなんて考えない方がいいわよ。クソ不味いらしいから」

「……クソ不味いのか」

「私も外のモンスターは訓練の一環で口にしたことがあるけど、ここはその比じゃない不味さだって言うわ。生還した人の中には、一番の戦いは食事だったなんて言う人もいるくらいよ。馬鹿にしてるわよね」


 メリアは口調と表情に僅かな嫌悪感を滲ませそう口にした。

 言った当人へか、置かれた状況へか。どちらに対しての言葉なのか見当がつかなかった。

 モンスターを食べる気が失せたロアは、食事を再開しようとして、もう一つ気になることを確かめた。


「そういえばさ、鎖の徊廊で持ち帰れるのって、持ってたものだけなんだろ?」

「……だから?」

「いや、食べたモンスターがどうなるのかなって」


 その一言でメリアの横顔が歪んだ。表情には直前のものより分かりやすい嫌悪が宿っていた。

  食事中に言うことではなかった思い、ロアは配慮に欠けた発言を反省する。一言「悪い」と謝罪して、自分もさっさと補給を済ませた。




「……また空間か」


 存在感知で読み取れた情報を呟いたロアが、表情をかすかに険しくする。後ろを歩くメリアも、静かに発動体を握る力を強くした。

 代わり映えのない光景が続く通路の途中には、時折迷宮にあったような広い空間が存在した。空間内には当然のようにモンスターが湧き出た。しかも強さは道中で出くわすものより強力だった。付け加え、これまで出くわした敵の強さや厄介さは、先へ進むにつれて徐々にであるが増している気がした。

 起きた戦闘は既に十を超えていた。空間で戦うのはこれで三度目となる。この段階で出てくる敵がどれほどの強さを持っているのか。モンスターへの警戒度を示すが如く、二人の顔つきも真剣と警戒が混ざったものに変わった。

 例外として、一番最初に対峙した個体が最も強かった。後にも先にも単体としてあれ以上に厄介な敵は出てきていない。

 それがなんとなくロアには引っかかったが、深く考えることはしなかった。終わった事象に思考を割いても仕方ない。気の散漫は命取りになると知っている。無駄な思考は省き、目の前の戦いに意識のリソースを費やした。

 臨戦態勢を整えて空間に突入した。


 空間に侵入した瞬間、来た通路への道が塞がれ退路が完全に断たれる。これも空間内での特徴だ。迷宮とは違って、一度入ってしまえば戦闘が終わるまで外へは出られない。

 もしも一人だけが突入したらどうなるか。ロアはそのことをメリアに質問した。だがそれに対する回答は得られなかった。試してみるも怖かったので、その疑問は解消されないままとなった。


 部屋に入ったロアたちは目を凝らした。前の二回では道が閉ざされすぐにモンスターは現れた。いつどこに現れても即応できるよう、全神経を注いでモンスターが発生する予兆を探した。

 そして視界に変化が現れるより早く、ロアの脳が新たな情報を拾い上げる。広げた存在感知内に何かが映り込むのを認識する。どこから出現したのかに気づき、ロアは声を張り上げた。


「上だ!」


 声につられてメリアも上方を向いた。二人の視力は敵の姿を視界に映し出した。

 天井から滲み出てきたモンスターが、現界とともに形と色を得る。その体色は背景に溶け込むような保護色を成しており、暗褐色の体には黒い縞模様が刻まれる。頭部なのか胴体なのか、膨らんだ球形からは複数の触腕が伸びていて、骨や関節が存在しないような曲線を描いている。

 重力の影響を受け取った八つ足のモンスターが三体、天井から落ちてきた。

 天井から現れたモンスターへ、ロアはスタッガーエッジで牽制した。魔力で構成された発光する刃が、明かりの乏しい空間内を光の軌跡を描いて飛ぶ。

 モンスターは落下の最中、胴体から伸びる足を鞭のようにしならせた。しなる足は破裂音とともに空気を叩き、何もない空中で反発力を生み出した。落下の軌道が変わり、飛んできた刃をひらりと躱す。八本の足を自在に操り、空間内を自在に駆け回り始めた。

 それを見た瞬間、ロアは走り出した。敵を引きつけるため前へ出た。二体がロアを標的と定めた。


 空中を縦横無尽に動き回る予測のつかないモンスターの動き。三次元で高機動を行うモンスターの高速は、強化された動体視力でも捉え切るのが難しい。視覚で敵の軌道を捕まえるのを難しいと判断したロアは、魔力による索敵に絞って位置を探った。広げた魔力の膜に浮かび上がる強い存在感。一体が側面から向かってくるのを感じ取る。素早い動きに軽く翻弄されながらも的確に居場所を捕捉し、タイミングを合わせてブレードを振るった。

 ブレードが振るわれる直前、モンスターが胴体にある筒状の部分から大量の黒煙を噴き出した。

 視界が一転して黒い煙によって覆われる。並行して広げた存在感知に僅かなノイズが走る。反射的に目と口を塞いだロアは、異常が走りつつも健在の存在感知を頼りに、モンスターの正確な位置を捉えた。闇の中を自分めがけてまっしぐらに迫る敵を狙い、右手のブレードを振り切った。粘つきを含んだ黒煙が全身に纏わり付き、微かな抵抗と不快感を与えてくる。それを魔力による強化で無理やり払いのけ、難なく一体を両断した。

 だが攻防はそれだけで終わらなかった。斬った際にモンスターの粘性の体液が刃にこびり付き、ブレードの斬性を大きく低下させた。さらに胴体を両断してもまだ生きている足が、ロアの体に絡みついた。

 捨て身の悪あがき。行動を阻害されたロアへ、残る一体が背後から急襲する。足を槍のように硬化させ、背中に背負うリュックごと貫こうと突き出した。

 その瞬間、ロアの全身を覆う魔力が変質する。ペロが一部の魔力を黒煙の特性を中和する性質に変化させ、行動を阻害する粘着性を無効化した。動きやすくなり動作が高速化したロアが、触腕による拘束を強引に振りほどく。振り向きながら背後の敵へ刃を振るい、硬質化した部位を含めた数本の足をまとめて切断した。

 奇襲に失敗したモンスターは再び距離を取ろうと後退を試みる。それを逃さまいと、ロアはがら空きの左手で残る足を捕まえる。ブヨブヨとした感触の足を千切るくらい強い力で掴み取り、触手の付け根箇所にスタッガーエッジの射出口を押し当てた。そして、そこを撃ち抜いた。

 射出された刃がモンスターの胴体を貫き、体内に深く食い込む。足から手を離したロアが距離を取りつつ、スタッガーエッジを解き放つ。体内で急速に圧力が膨れ上がり、モンスターの体は内側から爆散した。



 ロアの戦闘と同時進行的に、メリアも八つ足のモンスターと対峙する。数は当然のごとく一体であるが、今さらその程度のことは気にしない。目の前の敵を確実に葬ろうと戦意を研ぎ澄ます。

 モンスターの体から大量の黒煙が撒かれる。毒を警戒したメリアは反射的に目と口を閉ざす。

 並行して目を瞑りながら手元の発動体へ魔力を込める。視界を塞ぐ黒煙を散らすための風圧を発生させる。しかし、まるで重量を持ったかのような黒い煙は、発生した風を物ともせずメリアの全身に纏わりついた。


(なっ! これ粘性流体!? ネバネバして気持ち悪い……!)


 肌に粘着する不快感と行動を阻害された苛立ちにより、内心で悪態を吐いた。

 煙の影響はそれだけに留まらない。起動していた探知機にも異常が生じた。通信妨害に似た作用のせいで、モンスターの位置を探れなくなった。

 目を瞑っていたメリアは五感を捨てた。動作不良を起こした探知機とのリンクも切った。目視や探知機での索敵能力は喪失した。だが魔力による感知はなんとか通用しそうだ。共闘者が常時存在感知を使用していたこともあり、スムーズに探知機から存在感知への索敵に移行した。黒煙の中で強い存在感を発揮する敵の居場所を探り当てた。

 立体的な動きで接近してくるモンスター。その軌道が描く線を脳内に思い浮かべ、動きを予測し、予め用意していた魔術を行使する。進路方向に網目状の斬撃を壁のように張り巡らせ、行く手を塞いだ。

 しかし、それに手応えはなかった。代わりに腹部へ強い衝撃が訪れた。何事かと、メリアは腹部の異常を確かめた。彼女の腹からは、胴体を貫通した触腕が突き出ていた。モンスターは魔術が直撃するルートを直前に迂回して、背後からメリアの体を貫いていた。

 腹の底から何かがせり上がってくる感覚。強制的な嘔吐感を催して、メリアは堪らず血反吐を吐いた。腹部から発せられる激痛が脳内を駆け巡り、戦闘に必要な思考力と判断力が奪われていく。

 その状態でもなんとか残る精神力をかき集め、メリアは鈍る思考を回した。逆手に持ち替えた発動体を脇の下から通して、強引に起動する。精度よりもとにかく威力を重視した魔術。それを背後にいる敵へ向けて放った。背中からメリアの胴体を貫いていたモンスターは、充分以上に殺傷力のこもった衝撃をもろに浴びて、死亡した。


「あっ、ガァ……」


 モンスターの死亡とともに、体を貫いていた触腕が抜け落ちる。触腕と一緒に臓物を引っ張りだされるかのような激痛が生じたせいで、メリアは声にならない呻き声を出した。まだ黒い煙幕で視界が塞がれた状態で、腹部にべっとりとした感触があるのを感じ取った。


(あぁ、これ死んだかな……)


 どう考えても致命傷だった。この傷から脱却できる治療薬をメリアは持っていない。

 全身から力が抜け、立っていられず膝をつく。呼吸するたびに、鉄臭さのある液体が喉の奥に絡みつく。体の態勢を維持するのも億劫で、床に横たわるメリアは、生きるための思考を放棄した。意識が諦めに染まり、ただただ死を待つだけの状態となった。

 薄れゆく意識の中で、メリアは自分の体が持ち上げられる感覚を感じ取った。

 倒せてたと思っていたが、まだ生きていたのか。抵抗する気力も湧かないメリアは、無駄な足掻きなどせず、されるがままに任せた。

 そしてこのまま殺されるのだろうと状況を受け入れていたら、口の中へ何かを押し込まれた。


「むぐっ!?」

「再生剤だ。吐き出すなよ」


 流石にモンスターに体内から貪られるのは御免だったが、知ってる声を聞いて力を抜いた。言葉の意味を鈍った思考で咀嚼すると、口の中にあるものを言われるがままに飲み下した。少しすると、腹部に生じていた痛みは徐々に和らいでいった。

 やがて黒い煙で覆われていた空間が完全に晴れる。気づけば体に纏わりついていた粘りも、綺麗さっぱり消えていた。


「ふぅ、危ないとこだったな」


 メリアの体を片手で抱きかかえるロアが、安堵の声をこぼした。ロアはメリアがモンスターから攻撃を受けた気配を感じ取り、慌てて彼女の方へ駆け寄った。

 もしもモンスターを倒すのが少しでも遅れていたら、治療が間に合わなかったかもしれない。間に合ったとしても、重篤な後遺症が残ったかもしれない。負傷者を庇いながらモンスターと戦う余裕はない。自分か相手かどちらかの命を諦めることにならず、胸を撫で下ろした。

 しかしこれで薬の大部分を使い切った。まだ多少の残りがあるとはいえ、今のような大きな傷を塞げるかは微妙だ。保険としてはだいぶ心許なくなった。

 あといったいどれだけの戦闘が残っているのか。ロアは渋面を作りこの先について考えていると、唐突に胸元あたりを引かれる感覚を覚えた。


「メリア?」


 原因に思い当たったロアが名を呼びつつ、胸元に視線を送った。腕に抱えるメリアの表情は俯いているせいで、その顔は見通せないが、彼女の手は確かに自分の胸元を掴んでいた。ロアはその意図が分からず困惑げな顔を作った。


「なんで、なんで私なのよ……」


 俯いた顔の下から声が聞こえた。それは紛れもなくメリアの声だった。しかしその声色は、これまでの強気と自信を孕んだものとは違った。まるですすり泣く子供のような、か細く弱々しさに満ちたものだった。


「……もういや、帰りたい。……助けてよ」


 心の支えを、拠り所を求めるように、震えるメリアの手がロアの胸元を握りしめた。

 緊張、疲労、焦燥、不安、苦痛、重圧、恐怖、葛藤。迷宮に飛ばされてから、今の今まで蓄積した心身の負担は、いよいよメリアの意志を突き崩し、内心の脆い精神を苛んだ。常人では耐えられないような極限環境の連続が、少女の理性を削ぎ落とし、その内側にある覚悟を明確に挫いた。

 弱々しく泣きながら抱きついてくるメリアの体を、ロアは迷いながらも受け止めた。そこからどういう対応をしたらいいか分からず、戸惑い迷う。少しの時間、空中に手を這わせながら逡巡すると、正解がわからずとも自力で答えを出した。

 両の手で彼女の体を優しく受け止め、その背を撫でた。


「大丈夫だ」


 安心感を与える言葉とともに、二度、三度、力強くその背を撫でる。感情を落ち着かせるように、撫でる手つきに力を込める。遠い過去の朧げな記憶を参考にしたのか、あるいは遺伝子に刻まれた本能ゆえか。まるで泣きじゃくる子供をあやすように、ロアは傷ついた少女の心を、丁寧に優しくなぐさめ続けた。

 しばらく泣き続けたメリアは、それで安心したのか、やがて眠るように意識を落とした。

 ロアは腕の中のメリアが眠ったのを確認すると、彼女を起こさないようそっと体を持ち上げた。壁際まで運び、リュックを枕代わりにして床へ寝かせた。自身も壁に背中を預けて体を休めた。


『まさか、メリアがこんな風になるとはな……』


 横目で相手の寝顔を見下ろした。

 ロアはまだメリアのことを全然知らない。どんな性格なのかも測りきれていない。短い時間をろくな会話もせず共にしただけの関係だ。詳しい性格や人柄など知りようがない。

 それでも言動からはプライドの高い人物だと思えていた。

 その彼女が弱音を吐き出した。子供のように助けを求めた。それほど過酷な場所だった。


『正直、俺もお前がいなきゃ結構ヤバかったかも』

『存分に感謝してくれていいですよ』

『してるしてる。ありがとう』


 実際、ロアも精神的にかなり参っていた。移動する合間にペロと会話を挟まなければ、おそらく精神を病んでいたかもしれない。そう思えるくらいに。それほど、ここの性質はセイラク遺跡で挑んだ迷宮よりずっと厄介だった。


「装備、買い替えといて正解だったな」


 壁に背中を預けた状態で体を休めるロアが、眠気を振り払うため独り言のように呟いた。

 装備を買い換えたタイミングは交流会の直前だった。もしも装備更新を交流会の後か、合同探索の後にまで遅らせていたら、きっと今より低品質の装備でここへ来る羽目になっていた。当時は衝動買いに近い感覚で買い物をしたわけだが、それが結果的に良い方向に転がったのを幸運に思った。

 買い替えたばかりの装備は十分な耐久値がある。交流会後はあまり遺跡に行かなかったので、損耗度は軽微に抑えられている。これならば最後まで持ってくれるだろうと、個人的な希望や楽観を込めてそう願った。

 未だ起きて警戒を続けるロアに、ペロが声をかける。


『私が警戒してるので、あなたも休んでいいですよ』

『そうか? ……なら、俺も少し休むか』


 休憩を促されたロアは、少し迷って張り詰めていた精神を緩めた。普通なら安全を確保できていない遺跡の中で寝るなどあり得ないが、この場所自体が異常そのものだ。ペロが危険な状況で睡眠を勧めるとも思えないので、相棒の言葉を素直に信じ、壁に背中を預けたまま瞼を落とした。それで眠気があるのを自覚した。思っていたよりずっと疲れていたのか、すぐに意識は落ち、寝息が音を立てた。

 ロアが眠ったのを確認したペロは、周囲の警戒に当たりながら思考する。


(……鎖の徊廊でしたか。なるほど、試練の迷宮とはよく言ったものです。閉鎖空間に招き入れ、散発的に出現するモンスターと戦わせ、危機的状況下での挑む者の判断力と対応力を試す。それだけに留まらず、精神干渉系の暗示まで用意しているとは。悪趣味なことです)


 通路には挑戦者の心を挫く仕掛けが施されていた。対象の恐怖を煽り、平静を乱し、内面の不安感を増幅させる。精神的な動揺を引き起こす暗示が、通路の闇に溶け込むように設置されていた。探索者として多くの修羅場をくぐってきた筈のメリアが、決して長くない時間で精神に異常をきたしたのは、それも一因だとペロは考えた。


(ただ開始当初はこの仕掛けは無かった。途中から追加されたギミックでした。挑戦者の実力や精神力で対応が変化したのか、元から用意された仕様の範囲内なのか。弄ばれてるようで良い気はしませんが、理不尽な暴力で圧殺されるよりはマシと考える他ありませんね)


 そこには明らかに何者かによる作為があった。

 ペロは確信する。この場所は何者かの意思によって存在していると。

 さらに思考を続ける。


(不可解があるとすれば、難易度の不公平さでしょうか。ここまでまるで片方を狙い撃ちにしたような内容でした。実力に差があるとはいえ、両方を試すつもりなら随分とお粗末すぎます)


 メリアの働きを十分に評価していたロアとは異なり、ペロからメリアへの評価は低かった。足手まといよりかはいくらかマシ。いてもいなくても変わらない。その程度の認識だった。仮に彼女がいなかったところで、このくらいの難度ならロアだけで十分に乗り越えられた。聞いた話との差異に疑問が残った。


(本来ここに飛ばされるのはメリア一人の筈で、ロアはそこに無理やり割り込んだ。だから難易度がメリア用に調整されている。そう考えることはできます。……ですが、もしも今試されているのは彼女の方で、まだロアに対する“試練”が始まってすらいないのだとしたら……)


 ペロは想定できる最悪のパターンを想定した。


(杞憂であると切って捨てるにはここは余りに異質な場所。警戒して警戒しすぎことはないでしょう。場合によっては、犠牲も覚悟した方が良さそうです)


 内心でそんな算段を立てた。

 ロアがメリアを助けようとしてるのは分かっている。この普通とは離れた価値観を持つ支援対象が、他者を命がけで助けようとするのは今に始まったことではない。だからペロも可能な限りは協力する。

 ただしそれは無理のない範疇での話だ。いざとなれば他の人間など見捨てることを厭わない。ペロにとって支援対象であるロア以外は、所詮は取るに足らない有象無象に過ぎない。助ける意義や理由は存在しない。

 自らすらはっきりしないところで、ペロは着々と芽生える()()に影響を受け始めていた。




「……悪かったわね。迷惑かけて」


 目覚めたメリアは開口一番そう口にした。その表情は恥ずかしさで赤く染まっていた。

 メリアは意識を取り戻してすぐ、先に起きて周囲の警戒に当たっているロアと目があった。起き抜けで思考が正常に働かなかった彼女の脳は、それがキッカケで、徐々に気を失う前の出来事を思い出した。そしてすぐに全ての記憶を正確に呼び起こすと、顔色を真っ赤に変えて、自分の表情を両手で覆い隠した。しばらくはまともに顔を合わせられず、内心で羞恥に悶えた。

 友人ですらない人物に子供のように縋り付き、泣きつき、慰められた。しかも、ろくに知らない異性が相手だ。一人で生きていく覚悟を決めようと、価値観自体は年相応の少女と変わらない。自分から異性に抱きついた事実を認めて、メリアは恥ずかしくて仕方なかった。

 羞恥心で顔を見るのも難しかったが、今置かれた状況を再認識することで、動転する感情をなんとか押さえつけた。会話が可能な状態まで精神の安定を図った。

 そうしてようやく出した言葉が、迷惑をかけたことに対する謝罪だった。


「別に迷惑ってほどじゃないし、気にしなくていいよ」


 謝罪に対するロアの返事は落ち着いていた。声に上ずりや動揺は込められてなかった。

 メリアはチラリとロアの方を見た。顔を背けたまま目線だけで相手の顔色を窺った。もしも平静なのは声だけで、顔に何か露骨な反応が浮かんでいたら、恥ずかしさで耐えられないかもしれない。

 しかし、ロアの表情に変化はなかった。事の前後で平静を保っていた。そこには運命を共有する協力者への、純粋な意思表示があるだけだった。

 なんだか拍子抜けしたメリアは、自分だけ意識しているのが馬鹿らしくなり、諸々の思いとともに小さく息を吐き出した。それで完全に切り替えた。


「ところで体調はもういいのか? なんならもう少し休んでてもいいぞ」

「いいえ、おかげさまですこぶる好調よ。今すぐ戦闘が起きても問題ないわ」


 メリアは疲弊した様子を見せることなく、堂々と答えた。

 心身の消耗が完全に回復したわけではない。肉体的にも精神的にもまだ若干の不調は感じており、万全とは言い難い。だとしても、いつまでも泣き言を言ってはいられない。ここは未だ遺跡の中だ。命を脅かす脅威(モンスター)に溢れた危険地帯だ。そんな場所で、自分が休んでいる間ずっと警戒を行わせた。一方的に命を守ってもらった。既に大量の迷惑をかけていようと、これ以上の足手まといは死んでも御免だった。一度内心の思いを発散したおかげで、僅かなプライドと強がるくらいの意地は取り戻していた。

 ロアにはそれがなんとなく分かった。言葉の裏側に含まれた意味を、曖昧ながら汲み取った。けれど「そうか」とだけ言い、特に何も言わなかった。万全ではないのは自分も同じだ。さらなる休息を取ったところで、必ずしも事態が好転するとは限らない。彼女の見せた覚悟と意志が、より良い結果に繋がることを期待した。

 頷くロアをよそに、メリアは軽い口調で一つ頼みごとを行う。


「ねえ、あんたのブレードちょっと貸してくれないかしら」

「別に良いけど、なんで?」

「髪を切るのよ」


 返ってきた答えにロアは不思議そうにする。ただ断る理由もないのであっさりと応じた。ブレードを鞘から引き抜き手渡した。メリアはそれを軽い礼の言葉とともに受け取った。

 自身の装備を床に置いたメリアは、綺麗に編み込まれた髪を慣れた手つきでほどいていく。それからほどかれた癖のない真っ直ぐな長髪を、うなじあたりで一纏めにする。そして、そこにブレードの刃をあてがい、躊躇いなくバッサリと切り落とす。腰まで伸びていた長髪が、一気に肩口まで長さを縮めた。迷いのない行動に、何気なく見ていたロアが軽い驚きを顔に出した。


「心のどこかで、少しだけ期待していたんだと思う」


 切った髪の房を握り締めながら、メリアは静かな口調で口を開いた。

 雰囲気の変化を察したロアは、相手の表情を窺いながら耳を傾けた。


「お洒落して、綺麗に着飾って、可愛くさえあれば。いつか誰かが、このどうしようもない現実から私を見つけてくれて、引っ張り上げてくれるかもしれないって」


 その視線は切られた髪ではなく、どこか遠くを見ているようだった。


「……そんなわけないのにね。自分を見つけて欲しいって思う誰かも、誰かに見つけられたい一人でしかないのに。自分の行く先は、自分だけでどうにかするしかない。私たちはそんな当たり前を知ってる筈なのに、気づかないふりをしてる。何かにすがろうとしてる。……ほんと、救えない」


 一人で生きていくと志しながら、メリアは心の奥底で密かに期待していた。いつか自分を助けてくれる、物語の王子様のような誰かが現れるのを望んでいた。でも、その誰かが現れることはなかった。人はどこまで行っても一人で、都合よく助けてくれる誰かなど存在しない。現実の無情さをどうしようもなく痛感させられた。

 だからメリアは断ち切った。他者に縋ろうとする自分の弱さを。その象徴を。もう誰にも期待だけの関係なんて求めない。自分の力を一番に信じて生きていく。他者に縋る弱さを断ち切り、過去の自分と決別する。その思いで、自らの髪を切った。女としての証である髪を切ることを、その証とした。

 心中の想いを語り終えて、静かに佇むメリア。その表情はどこか憑き物が落ちたようにさっぱりとしていた。ただしそこには、何かに対する諦めや失意も感じさせた。ロアはメリアの表情から、その感情を読み取っていた。

 何かを言わなければと思ったわけではない。伝えようと思ったわけでもない。それでも何かに突き動かされるようにして、自然と口を開いていた。


「俺は、それは少し違うと思う」


 メリアは下げていた視線を上げて、ロアの方を見た。

 ロアはメリアの顔を真っ直ぐに見返して、続きを述べた。


「望まれようと、望まれまいと、人は生きてる限り誰かと関わってる。だからきっと、こんなときでさえ、俺たちは誰かとの関わり合いの上に成り立ってる。顔も知らない誰かに、助けられてる。それだけは、間違い無い、と思う」


 生きるすべ、探索者としての技術、身につけた装備。揃えた全ては自分だけで用意したものではない。誰かしらの助けがあって手に入れたものだ。そこに誰かの顔が見えなかったして、ここにあるものの本質が損なわれるわけではない。


「だから、ここに俺たちしかいなくても、それはきっと一人じゃない」


 混じり気のない真っ直ぐな表情で、ロアは毅然と言い切った。

 その瞳を正面から受け止めたメリアは、しばらく相手の顔を見返した後、再び視線を下げた。そして何かを噛みしめるように、小さく笑った。


「……そうね。確かにあなたの言う通りね。うーん、達観しすぎだったかな」


 苦笑したメリアは冗談めかした雰囲気で、軽く伸びをした。伸びをしながら、一度目を閉じた。くすぶる感情のわだかまりを、諸々の想いを、胸にうちにそっと仕舞い込む。

 再び目を開くと、顔つきを真剣なものに変えて、決意のこもった眼差しをロアへ向けた。


「だったら、微力ながら私が協力するから、あなたも私のために命を張りなさい。それで、こんなくそったれな迷宮から、二人一緒に生還するわよ」

「ああ」


 ロアは迷わず頷いた。迷いのない返事に、メリアはまた微笑した。そしてロアの顔から視線を外して背中を向けると、誰にも聞こえないよう、小さな声でそっと呟く。


「……誰かに心を許すのが、こんなに楽とはね」


 見えないように隠された表情には、安らかな感情が浮かんでいた。

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