13 サファイの助言
「私の名前は、ルチル・クォーツ」
その声が、耳から離れない。
夕方、ジェットは、自分の屋敷まで魔道車を走らせながら、未だに上の空だった。生気を吸い取られた廃人のようになっている。今日は『蔵』を出てからというもの、仕事もほとんど手がつかなくて。
ルチルが、伯爵夫人。
初めて本気で欲しくなった女性が、既に他人のものだった。悲しくて、辛くて、悔しくて、涙すら出ない。
職場である魔導品制作部に戻ってから、比較的気心の知れた同僚に話を振ってみた。極力冷静に、いたって普通の世間話を装って。
「資材部のルチル様って結婚してるんですってね」
同僚は、驚いたのか、作業の手を止めて返事した。
「え、天才でも知らないことってあるんですね!」
決して馬鹿にされたわけではないのだろう。むしろ、気を遣われたのかもしれない。だがジェットは、酷く打ちのめされた。
ジェットは盲目なので、周囲の貴族達の話の輪には入りにくい。言葉の中に出てくる「あれ」や「それ」はどれを指しているのか分からなくて、とてもじゃないが話題の流れについていけないのだ。
しかも、メモや普通の書物なども読めない。魔導品に関しても、自分で行う手探りの実験の結果か、誰かから聞かせられた話からしか情報は得られないのだ。
ジェットの生きる世界は、とても狭くて、暗くて、小さい。常に危うい。
その後、機転を利かせた同僚は、ルチルについて知る限りのことを教えてくれた。
彼女の名ばかりの夫、ラドライトは先の大戦で王国を勝利へ導いたことから英雄伯爵との異名があり、男色であることも有名。長く同性のパートナーがいるが、ジュウェール王国は異性同士の婚姻しか認めていない。
そこへ、降って湧いたのが、元庶民の公爵令嬢ルチルとの縁談だ。ラドライトは女嫌いで知られているのに、残した功績と名声と高さから、婚約したいと迫ってくる貴族は掃いて捨てるほどいる。ちょうど、そんな虫けらがうるさくて、対処に困っていたタイミングだった。
そこで、彼はルチルを妻として扱わないことを王に認めさせた上で、話を急速に進めていった。
そうして迎えた結婚式。実質的にルチル本人と顔を合わせたのはこの時のみ。指輪の交換でさえ、彼女と目を合わさず、一言も交わさなかったらしい。もちろんキスもしていない。
ジェットはその事実に一瞬浮足しだったが、ルチルのことを思うとあまりの不憫さに胸が苦しくなる。
ルチルは、配偶者に愛されないどころか、ほぼ居ないものとして扱われたのだから。
その後もずっと別居状態で、他人以上に他人の関係だそうだ。元庶民が『蔵』で働く権利を得るために仕方なかったこととは言え、彼女が払った代償はあまりに大きすぎる。
確かに生きる術を手にして、身元は確かに守られたのだろうが、心は――――
ルチルは明るい女性だ。けれど、単純にそれだけの人物でないというのは、前から薄々感じていた。きっとこういう背景があったからなのだと、ようやく納得がいく。
もちろん世間には、もっと酷い目にあっている女性がたくさんいる。でも今のジェットには、ルチルのことしか考えられなかった。
―――僕が夫だったら、ルチル様をもっと……
もっと?
もっと、何ができるのだろうか?
盲目のジェットに。
魔導車が屋敷に着いた。すぐに、執事のサファイが迎えに出てくる。一言、二言交わすと、日課をするべく、湖の前にある広場へ向かった。
上半身の服を脱ぐ。裸体になると、感覚がより一層鋭くなる。そこへ、軽装になったサファイもやってきた。
「今日は、手加減無しにしてほしい」
何かあったということは、これだけで伝わってしまう。サファイは「御意」と返事すると、次の瞬間にはその場から姿が消えていた。
ジェットの身体に鳥肌が立つよりも早く、硬い物がぶつかる音が森に響く。驚いた鳥達が、逃げるようにして赤く染まる夕闇の彼方へ飛び去っていった。
サファイは、ジェットの首元に魔導筒と呼ばれる武具を当てている。
魔導筒は、名前の通り筒状をしている。奥に仕込まれた火薬をぶっ放し、命中させることで死傷させることもできるが、的中させることは難しいと言われていた。
そのため、近接戦闘の際に使えるよう、強烈な魔導波を出す機能もついている。特殊な魔導波は人間の臓器すら破壊する。小振りなので、暗器のように使われることもあり、それを想定しての模擬戦闘だ。
ジェットは、キャンセラーと名付けた自作の魔導品で、サファイの魔導筒を受け止めている。接触した他の魔導品から一時的に魔力を奪う特性がある。
サファイの攻撃は、打撃としても強力なものだったはずだが、ジェットは身動ぎ一つしていない。
こういった鍛錬を続けて、もうニ十年以上が経つ。絶対的なバランス感覚と力の受け流し方を身に着けていた。さらには、巨体の相手と向き合った際にも耐えられるよう、筋力と精神力も高めていた。
サファイが、また別の角度から打ち付けてきた。武器も別のものになっている。ジェットの場合、飛び道具で攻撃されたら最後だが、それ以外ならば命拾いできる可能性があるので、ひたすら守りの練習を積んでいるのだ。
「ルチル様は、結婚していた」
ジェットは、サファイとすれ違いざま、声を絞り出す。
「存じておりました」
びっくりして、ジェットは立ち止まってしまう。次の瞬間、サファイからの蹴りが入って地面に転がってしまった。
「それがどうしました? 大切ならば、大切にすれば良いのです。彼女を守る権利があるのは、夫や父親だけではないはずです」
サファイの淡々とした声が、水辺に沿って広がる整えられた芝生の上へ、静かに広がっていく。
ジェットの方は、体が痺れたようになり、脚が腫れあがっている。前に、ここまでダメージを受けたのはいつのことだったか。
サファイは、ジェットの手を取って起き上がるのを手伝った。彼はいつも、ジェットを側で支えてきた。
母親の死からなかなか立ち直れなかった時も。目が見えなくなった時も。本が読めなくて、貴族学校の試験の勉強や受験方法に困っていた時も。
いつだってジェットを優しく叱り、精一杯の方法を提案してくれる。二人三脚で走り抜けてきた。
「あんなに柔らかく笑うジェット様を見るのは、久しぶりでした」
ジェットがルチルを職場から拉致してきた時のことを話しているのだろう。
「そんなに僕は、いつもふてくされているのかな」
「いつも真面目で、張り詰めてらっしゃいますね」
ジェットは、服についた土を手で払い落とした。サファイは、ボロボロのジェットに目を細める。
「泥臭くてもいいじゃないですか。諦めたら最後です」
これまで辛いことばかりだった。でも、諦めなかったからこそ、学校も優秀な成績で卒業し、志望通りでなくとも魔導品を扱う仕事につけた。
好きな人も、できた。
「サファイ、ありがとう」
ジェットは屋敷の者が夕飯の支度ができたと呼びにくるまで、サファイと模擬戦を続けた。
そして自室に戻り、風呂に入った。




