第五話 満たされているからこその難題
昔から私には人とは違う、特別な力があった。
誰にも教えたことはないけど、乙女ゲームの知識という一種の未来予知が一つ。
そしてもう一つが骨が折れるほどの怪我だって数十秒で治るほどの強力な自然治癒能力。
だから、実の両親から殴られたっていくらでも隠蔽するように塞がってきた。
だから、治るからと虐待は日に日にエスカレートしていった。
だから、ストレス発散のためだけに目が潰されて肋骨が折られて内臓がぐちゃぐちゃになるまで蹴られる日々だった。
……もしも普通の人間だったら傷跡から両親の虐待が発覚して、誰かが助けてくれるような都合のいいことでもあったのかな。そうじゃなくても、乙女ゲームの知識という希望を持つことがなかったら、あるいは異常な自然治癒能力がなかったら、死ぬなり逃げるなりといった今とは違う未来もあっただろう。
痛くて、苦しくて、だけど乙女ゲームの知識という希望と異常な自然治癒能力があったからこそあの最悪な日々にだって耐えられた。
いつか必ず乙女ゲームの中の何の悩みもなさそうに幸せだと笑う『私』になれると、それだけを頼りに。
だけど。
私は。
「アリアネちゃんっ。一緒にお茶でもどうですか?」
「……、うん。いいよ」
これだけのことでシルヴィーナ様は嬉しそうにガッツポーズをしていた。普段は公爵令嬢らしく威厳ある彼女が年相応の女の子のように私と一緒にお茶をするというだけで喜んでくれていた。
ああ、なんでだろう。
怒鳴られることも殴られることもなく、厳しくも私のために尽くしてくれる人たちがいて、自由にできる時間やお金が手に入って、誰もが一度は望む貴族という特権階級の中でも上のほうの娘に収まって、なのにどうしてこんなにも苦しいのかな。
満たされてはいる。
だけど、あの最悪の日々でも感じたことのない苦しさに胸が張り裂けそうだった。
「アリアネちゃん、どうかしましたか?」
「なん、でも……」
言いかけて、思い直す。
逃げるようにシルヴィーナ様から目を逸らしながらも、言葉を紡ぐ。
「ねえシルヴィーナ様」
「はい、なんですか?」
その柔らかな声音がむず痒くて、嬉しくて、なのに苦しくて。
だから私は吐き出すようにこう問いかけていた。
「どうして私に優しくしてくれるの?」
「どうして、ですか。……前にも言いましたが、わたくしは妹が欲しかったのです。それが理由の一つですが、それだけでもなかったのだと最近気がついたんですよ」
そっと。
目を伏せて逃げる私の頭を優しく撫でながら、悪役令嬢はヒロインにこう言ったのよ。
「アリアネちゃんが可愛くて仕方ないんです。ですから優しくしたいのですよ」
私は乙女ゲームにおけるヒロイン。
悪役令嬢であるシルヴィーナ=シーカフィン公爵令嬢を断罪することでヒーローと結ばれ、幸せを掴む存在。
逆に言えば。
ルートによるとはいえヒロインは高確率で悪役令嬢の犠牲がないと幸せになれない人間なのよ。
「私は……シルヴィーナ様にとって害になる存在かもしれない」
「そうかもしれませんね」
もちろんシルヴィーナ様は乙女ゲームによる未来予知のことなんて知らないだろう。私の言葉にそうかもしれないと返したのは、私という養子がもたらす影響を加味しただけのこと。
「それでも可愛いものは可愛いんですよ。例えアリアネちゃんという存在が巡り巡ってわたくしに牙を剥いたとしても、そのことさえも受け止めてあげたいと思えるほどに」
それに、と。
陽だまりのように暖かく、包み込むように言葉が続く。
「アリアネちゃんの存在がわたくしにとってどれだけ害になるとしても、その全てを跳ね除けるだけの力がわたくしにはありますので心配はいりませんよ」
「シルヴィーナ、様……」
「学ぶことで見えてくるものがあったのでしょう。その結果、わたくしや公爵家に迷惑をかけてしまうこともあるとわかったのでしょう。ですがそれはアリアネちゃんが気にすることではありません。お父様だって全てわかった上でアリアネちゃんを養子として迎え入れることを決めたのですから。それに、アリアネちゃん自身がわたくしたちに何か危害を加えるわけでもないのですから。例え『周囲』がアリアネちゃんを引き合いに攻撃を仕掛けてきたとしても、それはアリアネちゃんの罪ではありません。ですから、本当に気にすることはないんですよ?」
苦しい。
吐きそう。
信頼が、好意が、一切の曇りのない優しさが、鋭利な刃物のように私の魂を突き刺してくる。
こんなの、知らない。
両親に殴られ、普通の人間では死ぬような怪我をした時だってこんなにもひどくなかったのに。
違うんだよ、シルヴィーナ様。
悪役令嬢の敵は、シルヴィーナ=シーカフィン公爵令嬢に危害を加えるのはヒロインである私なんだよ。
もちろんシルヴィーナ様と敵対することなく攻略対象と結ばれて幸せになれるならそれに越したことはないけど──乙女ゲームとは似て非なるルートを辿る現実の先、もしも悪役令嬢を断罪しないとヒーローと結ばれないような展開になったら、私はどうする?
幸せになるために悪役令嬢を断罪するか。
悪役令嬢を救うために幸せを捨てるか。
その日、私は逃げるように逸らした目をついぞシルヴィーナ様に向け直すことはできなかった。




