第三話 悪役令嬢とヒロイン
それは公爵家に養子として引き取られてすぐの頃の話。
基本的に残飯を手掴みで食べるのが日常的だった私はナイフやフォークを使ってお行儀良くご飯を食べるってのに馴染みがなかった。
だから、お肉やスープが入った皿と一緒にナイフだのフォークだのを並べられても『どう使うものか』すらわからなかった。
……希少スキルだのなんだの、乙女ゲームの知識のお陰である程度の『設定』は頭にあったけど、食事の作法といった一般常識までは含まれていなかったからね。
『アリアネちゃん、遠慮することはありません。食べていいんですよ?』
隣に座ったシルヴィーナ様がそう言ってくれるけど、ガチガチに緊張している上にその頃の私には未知でしかないものを前にしていたからか、反射的にこくこくと頷くしかなかった。
頷いたからってどうすればいいかもわかっていないのに変わりはないんだけど。
『あ、あの、シルヴィーナ様……』
『はい、なんですか?』
『おねえちゃん』と呼ぶことを望むくらいには乙女ゲームとは違うとはいえ、相手は悪役令嬢にして高貴なる女の人。こんなこと言っては呆れられるか怒られるかするだろうとは思ったけど、最悪殴られるだけで済むならと私は口を開く。
『食べ方がわからないんです』
パチパチ、としばらくシルヴィーナ様は何を言われたのかわからないように瞬きをして、やがてぽんっと私の頭を撫でてくれた。
『そうでしたか。気がついてあげられなくてごめんなさいね。それでは、そうですね。テーブルマナーに関しては近いうちに練習するとして』
シルヴィーナ様は慣れた手つきでお肉を切り分け、フォークに刺し、私に差し出してこう言ったのよ。
『はい、あーんです』
『あーん……?』
『今日のところはわたくしが食べさせてあげます。ですからお口をあけてくださいな』
『いや、でも、悪いですよっ。シルヴィーナ様のお手を煩わせるなんてっ』
『わたくしがしたいからしていることですからお気になさらず。ですから、ね?』
そう言われては断るわけにもいかなかった。私は言われた通りに口を開けて、そこにお肉が入って──噛んだ瞬間、味覚が吹き飛んだのではと思うほどの衝撃が炸裂した。
『ん、んんっ、んんんんっ!? これっ、おいっ、おいしっ、美味しいです!!』
『ふふっ。それはよかったです。まだまだありますから、はいあーん』
『あーんっ!』
まあ、うん。
公爵家で出されるようなお肉をはじめて食べたってんだから軽く思考が吹っ飛んでいたんだろうね。もう言われるがままだった。
そんな私をシルヴィーナ様は笑顔で見つめていたっけ。
と、それが私がはじめて公爵家で食事をした時のこと。だけど、ナイフやフォークの持ち方から何から、常識的なことさえも一から丁寧にそれでいて厳しく『授業』で学んだ私はテーブルマナーくらいならもうマスターしていた。
何せ公爵家に養子として引き取られてから一ヶ月は経っているからね。
「アリアネちゃん」
「うん?」
珍しい。
食事の時はそこまで喋らないシルヴィーナ様から話しかけてくるなんて。
「テーブルマナーはもう完璧のようですね」
「そりゃあれだけ厳しい『授業』受けているんだから当然だよっ」
……?
私の答え、何か間違っていたかな? なぜだかシルヴィーナ様の表情は曇っている。
「で、ですが、やはりまだ慣れないところもあると思うのです!!」
「えっと……?」
何が言いたいんだろう、と私が悩んでいると、シルヴィーナ様はこう切り出してきたのよ。
「そういうわけで今日はわたくしが食べさせてあげてもよろしくてよ!!」
…………。
…………。
…………、えーっと。
「別に一人で食べられ──」
「はいあーん!!!!」
強引すぎる!!
いや、あの、シルヴィーナ様っ。表情が鬼気迫っているんだけど!?
まあ、うん。
使用人たちが後ろに控えている中でってのはちょっと恥ずかしいけど、断るほどでもないか。
「じゃあ、えっと、あーん」
というわけで、ぱくり。
シルヴィーナ様から差し出されたお肉を私が食べると、どことなく嬉しそうにしていた。
こんなことで喜んでくれるなら、悪い気はしないかな。
だけど、うん、だからといって連続はちょっと恥ずかしいからやめてほしいんだけど!? あ、ちょっ、シルヴィーナ様そんな悲しそうな顔しないでよっ。食べる、食べるからさぁっ。
ちなみに。
この件は微笑ましいお話として公爵家の中だけで広まって、ついには当主様から『仲良さそうで何よりだ』と言われることになるとまでは予想してなかった。