第十六話 乙女ゲームのヒロイン
「ティア=アークビー男爵令嬢。少々お話があるのですが」
「アリアネさんっ。そんな堅苦しい呼び方しないでいいの! ティアと、呼び捨てで構わないのっ。それと口調も楽にしていいから、ね?」
「……それじゃあ、ティア。話、いいかな?」
「アリアネさんとのお話であればいくらでも! 何ならお金を払ってもいいくらいなのっ」
私はティア=アークビー男爵令嬢と対峙していた。
学園の片隅。人気のない校舎裏にある小さな花壇を眺めていたきめ細かい銀の髪に深緑の瞳の愛らしい彼女は昨日と変わらず満面の笑みを浮かべていた。
乙女ゲームのヒロイン……のような令嬢。
本来『私』がなるはずだったアークビー男爵令嬢の立場に収まり、三人の攻略対象との仲を深め、ついには乙女ゲームと違って何もしていないはずのシルヴィーナ様に虐められた悲劇のヒロインとしての属性を手に入れつつある。
これが未来予知にも似た『記憶』──希少スキルと推察されるものがアークビー男爵令嬢へともたらした強制力なのか、それとも他に何か理由があるのか。
その辺りを突き詰めるのはとりあえず後にするとしても、ティア=アークビー男爵令嬢がクソッタレな現状を良くも悪くも左右できるのは確かなのよ。
シルヴィーナ様がティア=アークビー男爵令嬢に嫌がらせをした。端的に言えばそんな噂が流れていて、その噂を流している者たちの中に王族が含まれているのが厄介だってだけで、噂自体をどうこうするだけなら小難しく考えることはない。
当事者であるティア=アークビー男爵令嬢が噂は間違いであると公言すればいい。いかに王族といえども(そしておそらくは全てを裏で操っている宰相の息子でも)嫌がらせを受けたとされている令嬢が噂を否定すればそれ以上拘泥できるわけがない。
この噂を強行したいのは黒幕だけから、黒幕がごちゃごちゃ喚いてきたとしても公爵家が動いてくれるはずだから問題はない(私のような奴を養子として引き取り、本当の娘のように扱ってくれたシーカフィン公爵家であれば私的にはもちろん公的な理由でも根も歯もない噂で攻撃されているシルヴィーナ様を助けるために動くはずよ)。
「ティアがシルヴィーナ様に嫌がらせを受けているって噂が流れているのは知っている?」
「ああ、そうみたいなの」
「そんな事実はないって、ティアからみんなに説明してくれない?」
「どうして???」
…………。
…………。
……な、ん?
「どうしてって、ティアはシルヴィーナ様に嫌がらせを受けてないじゃんっ」
「まあ、うん」
「間違った話が出回っているなら否定するのは普通でしょう? あ、噂を流している連中が連中だから怯えるのは無理ないけど、その辺りは私……じゃあ頼りないかもだけど、シーカフィン公爵家がきちんと対処してくれると思う。だから報復に怯えることはないんだよ!?」
「そうじゃないの」
いっそキョトンとしていた。
何でこんな簡単なことがわからないのかと言いたげに。
そして。
愛らしい顔に明るく、元気にしか見えない笑みを貼り付け、乙女ゲームのヒロインに付随していたアークビー男爵令嬢という冠を持つ彼女はこう告げたのよ。
「ヒロインは悪役令嬢に虐げられるものなの」
意味が。
わからなかった。
「アリアネさんのことは本当に、ほんとおーに尊敬しているの。無数のルートの中で極悪非道な悪役令嬢を退け、ヒーローと結ばれる姿はわたしの憧れそのものなの。だからわたしはヒロインになった。憧れのヒロインは不在で、アークビー男爵令嬢という『枠』が空いていたら誰だってそうするの。まあ不在だったってのはわたしの勘違いだったけどね」
理解が追いつかない。
思考が回らない。
「まあわたしは名前もない脇役だからちょろっと裏技使ったけどね。王子様や騎士を射止める魅力がない脇役がヒロインになろうとするなら強制的に恋心を植え付けるような裏技でも使わないとなの」
だけど、一つだけわかったことがある。
「アリアネさんには悪いけど、わたしは憧れのヒロインになるの。そのためにも悪役令嬢にはきちんと破滅してもらわないと、ねえ?」
愛らしく、ニコニコと笑う目の前の令嬢は敵だ。それだけわかれば十分よ!!
「そんなの、許さない。意味のわからない理屈でアンタがシルヴィーナ様を貶めるっていうなら、私が! 全部ぶっ壊してやるんだから!!」
「……やっぱり『現実の』アリアネさんはヒロインじゃないの。そのことは残念だけど、でも本物のアリアネさんに出会えたことは普通に嬉しいの。だから、できることならわたしの邪魔はしてほしくないの。邪魔さえしてこなければ、憧れの人をこの手で傷つける必要もないんだしね」
「シルヴィーナ様を貶めるような真似をしているアンタを見逃せるわけないじゃない!!」
気に食わない。
こんなの許せるわけがない。
ティア=アークビー男爵令嬢の意味不明な思考回路に納得なんてできるものか。悪役令嬢だからと、そんな理由でシルヴィーナ様が不当に傷つけられるのを見過ごすことなんてできるわけがない。
だから。
だから!
だから!!
「退く気はない、と。だったら仕方ないの」
瞬間、鈍い衝撃と共に私の意識は霧散した。
ーーー☆ーーー
シーカフィン公爵家当主は調査報告書に目を通していた。
ティア=アークビー男爵令嬢。
元は盗賊団により攻め滅ぼされた村の生き残りであり、平民ながらにアークビー男爵家に養子として引き取られた少女である。
希少スキル持ちなどの特異な素質はないが、愛らしい外見をしているので適度に教育すれば政略結婚の道具として他の貴族との『接点』を築くのには使えるだろう。
子宝に恵まれなかったアークビー男爵家が養子を引き取り、『接点』を用意することはそう不思議なことではない。
とはいえ、だ。
いかに身分が上の家との『接点』を望むのが貴族としては当然のこととはいえ、騎士団長の息子や宰相の息子、果ては第二王子とも親しい関係を築くなど普通ではない。
いくらなんでも身分に差がありすぎるのもそうだが、いかに学生とはいえそれなりの教育を受けて、相応の能力を身につけた彼らをいとも簡単に籠絡できるとは思えない。
思えないが、現実として王族を含む男たちはティア=アークビー男爵令嬢に夢中だ。それこそ学生のうちはあくまでシルヴィーナを宰相の息子の婚約者候補としておき、少しでも自由にさせてあげたかったところを早急に婚約を結び、外堀から埋めようと周囲が考えるくらいには、だ。
ティア=アークビー男爵令嬢には何かがあるのではないか。そう考え、調べさせたが、めぼしい報告はあがっていない。
「ふっ。そう簡単に判明する程度の秘密であれば、息子の暴走に頭を悩ませるお歴々が対応していることだろうよ」
「……、ギリス。消えたままだぞ」
「おっと。我としたことが」
言下に当主の目の前に一人の男が浮かび上がる。
ギリス=シーカフィン。
シーカフィン公爵家次期当主にして希少スキルの使い手である。
「五感どころか『その先』の感覚さえも騙し、姿や気配、果ては魔力反応や魂の波動さえも消し去ることで希少スキル持ちであることさえも周囲に気取られない『隠密』、か。そんなものを使って今まで何をしていた?」
「ハッ! それはもちろん我が妹のために動き回っていたに決まっているさ。ま、ドヤ顔するほどの成果があるわけでもないがな」