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鬼の面と人の面

作者: ののん

 引き立てられてきた女性は、音もなく手をついてひれふした。

「そのほうが、静か」

 庭に面する縁に腰を下ろした頼朝が、低い声で問う。しかし女性の方は、庭園の中央で頭を下げたまま、何も答えない。かがり火の薄い光の中で、まるで周囲に並ぶ石のごとく、ただそこにあり続けていた。

 頼朝の傍らに控える政子は、そんな彼女と夫の様子を交互に見ることしかできない。

 女性も黙ったままだが、一方の頼朝もそれ以上は声を発しなかった。切れ長の目を、ただじっと彼女にそそぐのみである。だがそれは、睨みつけているのかというと、そうも見えない。何かを探るような視線とも違う。冷ややかというよりは、まるで何も読み取れない瞳。その瞳で、ただ彼女を「見て」いる。少なくとも政子は、そういった印象を受けた。

 場には三人の他には誰もいない。夜の冷えきった空気が、今にも割れてしまいそうに張りつめていた。

「静とやら、顔を上げていただけませぬか」

 見かねた政子が声をかけると、女性はようやくゆっくりと顔を上げた。


 噂にたがわぬ美しさである。


 見事な黒髪に、透き通るような色白の肌、涼しげな目元。逃亡生活の疲れからか、やややつれて青ざめてはいたが、なるほど美女とはこのような女性のことを言うのだろう。

 ただその表情はどこまでも無表情のまま、まるで絵に描かれたように動かなかった。

 頼朝の方も、それは同じである。静が美人画ならばこの方は彫像かと、そんなことを胸の内で呟いたあと、政子は再び女性に視線を戻した。

「静殿、殿がそなたをお呼びになったのは、尋ねたいことがあるからですーー聞けばあなたは、九郎殿の行方を、頑としてお話しにならないそうですね?」

 静は相変わらず無言のままだが、政子の言葉に耳を傾けてはいるらしい。

「九郎殿の恋仲で、しかも途中まで同行していたそなたでも行方を知らぬというならば、それを直接そなたの口から聞きたいと、殿はおおせです」

 なるべく穏やかな口調で語りかける。

 しかし静は、やはり何も答えずーー再びゆっくりと手をつき、顔を伏せてしまった。

 無意識の内に、政子の口からため息がもれる。

 そのとき、傍らの頼朝が音もなく立ち上がった。

「まあよい、そこまでして話したくないのであれば無理に問い詰めることはせぬ。今宵はもう戻れ、あまり長くそのような場所におると体に障る」

 踵を返し屋敷内に戻っていく夫を、政子は慌てて追う。途中振り返ると、静御前はやはり身じろぎもせずひれふし続けていた。


*  *  *


 頼朝が向かった先は普段から使用している執務室だった。政子が追って中に入ると、すでにすずりに墨をすり始めている。

 政子はその背後に控え声をかけた。

「あの静とやら、なかなかに強情なおなごのようですね」

 なにしろ捕らえられてからずっと、別れて以降の義経の行方は知らないの一点張りである。その言葉に関してはあるいは真実かも知れないが、頼朝と直接相対しても全く臆する様子はなかった。

 頼朝はうむとだけ答えると、やりかけの書類に筆を走らせ始めた。

「・・・静殿の処遇は、いかがなさるおつもりで?」

「・・・私とておなご殺しは好かぬ。命までとるつもりはない」

 手を止めることなく、こちらに背を向けたまま答える。

「では、九郎殿の他の一族は?」

「・・・・・」

 頼朝はやはり手を止めない。

 ここで引いてはならぬような気がして、政子はさらに尋ねた。

「最後の最後まで、一つも余すところのなきように、ですか」

 ーーしばしの沈黙。

 ややあって、恐ろしいほどに落ち着きはらった声が答えた。

「敵対者の血筋を残しておけばどうなるか。その見本が、そなたの目の前におる」

「・・・・」

 政子は何も言えず、ただ黙ってその背を見るしかない。

 燭台の日が、薄暗い室内で揺れている。

 不意に、政子の喉の奥から独りでに言葉が漏れた。

「もしも私や北条があなたと敵対したならば、あなたはやはり私どもを切り捨てるのかもしれませぬね」

 頼朝の筆が止まった。ゆっくりと、肩越しに妻を振り返る。

 切れ長の目。鋭利な光が光っていた。

「--どのような答えを望む」

「出過ぎたことを申しました」

 政子が頭をさげると、頼朝は再び背を向けて書類仕事に戻ってしまった。

「ところで、あの静殿、なかなかに評判の白拍子だとか。わたくし、ぜひ見てみとうございます。鶴岡八幡宮で舞を奉納させてはいかがでしょうか」

「そうだな、手配しておこう」

 やはり振り向いてはくれない。もっとも振り向いたところで、今は無表情の他は見せてくれないだろう。

 ーー以前からこうだったろうかと、そんなことを考えながら、胸に何か薄い霞のようなものを感じる政子だった。


*  *  *

 

 文治二年四月八日、鶴岡八幡宮。

 設えられた舞台の周囲を、大勢の観客が取り囲んでいた。

 席に腰を下ろした政子の隣で、十になるかならぬかの幼い娘ーーー長女の大姫が、不意に額を押さえて顔を伏せた。

「気分が優れませぬか?」

 無理せず下がって構いませぬよと、気遣って声をかけるが、大姫は黙って首を横に振る。

 政子は心の中でため息をつくしかない。このところ具合が思わしくないというのに、なんとしてもこの奉納舞だけは見たいと、この娘はそう言い張って聞かなかったのだ。

 --もっとも、その理由はなんとなくだが分かる気がしていた。

 ちらりと、横目で反対隣の夫を見やる。頼朝は相変わらずの無表情のまま、身じろぎもせずただ前を向いているのみである。

 やがて、舞台に一人の女性が進み出た。


 白い水干に直垂。頭に立烏帽子を乗せた、白拍子姿。


 聞けば静御前は、始めのうち舞を奉納せよとの命を断り続けていたらしい。しかし相手が頼朝では、さすがに抗しきれなかったのだろう。

 観客の目が、一つ残らず彼女に注がれている。期待の視線を向けている。

 舞台の中央で、静御前が膝を折って頭を下げる。義経を追い詰めている張本人に向かって。

 上げたその顔には、微笑が浮かんでいた。

 政子は少々ぞくりとする。その笑みの含む意味は何なのか。

 鼓の音が響き、静が舞い始めた。

 風に乗る花弁のように舞う扇。よく通る美しい声が、観客たちに届く。


 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき


 ざわざわとした空気が、周囲に広がっていった。皆顔を見合わせ、ひそひそと何事かささやき合っている。

 隣で頼朝が軽く息を呑む気配を聞きつつ、政子も全身がこわばった。

 静御前はなおも舞う。


 しづやしづ しづの()だまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


「や、止めさせよ!」

 

 空気を切り裂くような怒声が、轟き渡った。

 政子の傍らで、いつのまにか頼朝が立ち上がっている。

 鼓の音が止むと同時に、静も動きを止め扇を下ろした。

 美人画そのものの顔。揺れることのない瞳が、頼朝を見る。


 思わず政子は息を呑んだ。

 --見上げた頼朝の目に、本気の業火が燃え上がっている。

 

 吉野山は、静が捕らえられた付近の山。その山の雪を踏み分けて入っていった人物とは、つまりーー。

「その者を連れてまいれ!問いただす!」

「お待ちくだされ!」

 政子が素早く立ち上がった。

「なにも処罰までなさるほどのことでもございますまい」

「黙れ、よくもこの私の目前、それも源氏の守護神たる鶴岡八幡宮で、堂々と反逆の九郎を慕う歌など・・・」

「静殿のお気持ちをお察しください」

 久々に感情を見せた彼の瞳を見据えて言う。

 周囲の者たちはこわごわといった様子で二人を伺い、大姫は両目を見開いて両親を見ている。静御前は舞台の中央で膝をつき頭を下げてしまっていた。

「確かに今や九郎殿は謀反人なれど、しかし、お忘れになられましたか?私達とて似たようなものだったではございませぬか」

 頼朝の瞳の怒りの炎から目をそらさぬまま、政子は続けた。

「もしも私が静殿と同じ立場だったとしても、おそらくあのように歌うことでございましょう。ここは私に免じて、許してやってはいただけませぬか」

 頼朝は妻の顔を睨み付け、薄い唇を嚙みしめたかと思うとーーすっと、彼の気配が変わった。

 燃え続けている怒りの前に、分厚い御簾が下りる。あの何も映らぬ目が戻る。

 まるで虚ろな二つの穴に、作り物の石をはめ込んだかのように。

 そしてそのまま踵を返し、その場を立ち去ってしまった。

 渡殿の曲がり角の先へと姿を消す彼を政子は黙って見送り、それから席を降りて舞台へと歩み寄った。人々は何も言わずに道を開ける。

 静御前は膝をついたまま、やはりぴくりとも動かない。

 --しず織りの糸を巻いたおだまきを手繰り直すように、今を昔に戻す方法があったなら。

 あの歌は、彼女の正直な心であろう。

「静殿、ご苦労でした。殿には私から改めてとりなしておきましょう」

 そう声をかけてても、彼女の顔が上げられることはなかった。


*  *  *


 屋敷へ帰りつくやいなや、頼朝は歩み寄って口を開こうとする政子には目もくれず、奥へと去っていってしまった。

 おそらく今は、誰かと話をする気分ではないのだろう。静御前にはあのように言っておいたが、この様子ではどうしたものか。

 政子が部屋でため息をついていると、不意に「母上」と呼ぶ声があった。

 顔を上げると、十ばかりの幼い少女が、目を三角にしてこちらを覗きこんでいる。

「まあ、この子は・・・だめではないですか、ちゃんとお部屋で休んでいなければ」

 しかし大姫はその言葉を無視して、

「先ほどのこと、納得がいきませぬ。静様になんの罪がございますか。父上におとりなしに行かれるなら、わたくしも連れて行ってくださりませ。共に一言申し上げさせていただきとう存じます」

「まあ・・・」

 思わず呆れた声が出てしまった。普段は大人しいのに、なかなかどうして大胆なことを言い出す娘だ。

「あまりわがままを申してはなりませぬよ。父上には父上のお考えがあるのでしょうから」

「母上は、あのまま静様がどのような罰を受けられても良いとお思いなのですか」

「では、もう少し時をおいてからにしてみてはいかがですか?その方が聞き入れていただきやすくなると思いますよ」

「・・・・・」

「さあ、分かったら部屋にお戻りなさい。母が送って差し上げますから」

 大姫はまだ唇を嚙みしめてはいるが、それでも大人しく背を向けた。政子も後に続いて部屋を出る。


 底冷えのする夜の屋敷内を、二人は連れ立って歩いた。

 戸の隙間から差し込む僅かな月明かりのほかには、頼りになるものはない。先の見えぬ道筋が、ただ長く続く。

 ーー何も見えぬのは、向こうが許さぬからなのか、それとも、こちらが見ようとしないからなのか。

「・・・・?」

 不意に政子の足が止まった。隣を歩いていたはずの、少女の姿が無い。

 振り返って目を凝らすと、大姫は立ち止まって途中にある部屋を覗きこんでいる。

「いかがしましたか」

 引き返して尋ねるが、彼女は何も答えずにその部屋に入っていってしまう。

 目を走らせるとそこは、夜の静寂に沈む板間の広がり。銀色の月光が、薄い霧のように覆っている。

 ーー幼い娘が正面に立ち、視線を注いでいるものが、政子の目をとらえた。


 真ん中から袈裟懸けに切り落とされた、頼朝の肖像画。張りつめるような静けさの中で、ぼんやりとほの白く浮かび上がっている。

 

 何かが、心の臓を貫いていくような気がした。

 大姫が、足元から何かを拾い上げる。切り裂かれた絵の下半分だ。

 政子も部屋の隅に鈍く光るものを認め、歩み寄って手にとって見ると、真っ二つに折れた太刀だった。

 柄に、笹竜胆の紋。頼朝の持っていたものだと分かった。

「・・・・」

 上半分だけになった肖像画の顔と、手元の紋を交互に見る。

 頭の中に鈍く鋭い痛みが走るのを感じると同時に、目の前に佇んでいた人影が動いた。


 ぐったりとした様子でしゃがみ込んでしまった娘に歩み寄りながら、政子は胸がざわめいているような、凪いでいるようなーー妙な心持ちがした。


*  *  *


 部屋に辿り着いて床に寝かせてやると、大姫は少し落ち着いたようだった。天井を見つめ、傍らの政子に言う。

「このところの父上は、まこと何を考えておられるのか分かりませぬ。面をして、下のお顔を隠しておられるようにございます」

「面?」

「わたくしには、父上がまるで分かりませぬ」

「・・・そう思っていると、ますますそのように見えるものですよ。思い込みで、ものは見えませぬ」

 その声は、自身でも意外なほど、穏やかではっきりとした響きを持って己の耳に届いてきた。大姫の目はすでに瞼の下に隠れてしまっている。

 しばしの沈黙の後、その瞼が薄く開いた。大人びた視線がこちらを向き、静かに尋ねる。

「母上・・・父上はまこと、九郎の叔父上をお打ちなさるおつもりでしょうかーーー義高さまのときと同じように」

「・・・・」

 政子は口をつぐみ、燭台の灯に照らされた娘の顔を見る。少女の黒い瞳が、小さく揺れる炎を映している。

 あくまで答えを得るつもりなのか、大姫はさらに尋ねてきた。

「人の面の下は、まことの鬼になれるものでしょうか」

 ーー無理もない疑問であろう、と思えた。

「そうですね・・・あなたは、どのように思われますか?」

「母上の感じ方をお聞きしたいのです」

「さようですか」

 少し頬を膨らませた少女の様子が可笑しくて、政子は思わず微笑んでしまった。

「先ほども申したでしょう?思い込みでものは見えぬと。あなたが、ご自身の目で見て考えるほかにないこともあると思いますよ」

「では母上は、どのように考えられますか」

「私に出来るのは、あなたに考える材料を与えるだけです。私がどう思うかを伝えるのも同じこと」

「構いませぬ」

 政子は微笑を浮かべ、床の上の大姫を見た。

「では、そうですね・・・私が思うことは、あの方があのような態度をおとりなのは、ご自身のしていることの意味をよく知っておられるから、ということです。あなたの父上は、今はただーーお怒りになっておられるだけなのですよ」

「お怒り?静様にですか」

 穏やかに笑んだまま、緩やかに首を振る。

「では、九郎の叔父上にですか」

 再び首を振り、政子は手にしたものに視線を落とした。


 頼朝が切り裂いた、彼自身の肖像画。


 それは今や天下の覇者となった頼朝の、他の誰でもない己自身への怒りの現れに他ならない。

 血を流すことでしか世を変えられぬ己への、怒り。


 国を率いるには、鬼でいるほかはない。感情に流され手を緩めていては、いずれ足をすくわれるのみ。そしてそれは、彼一人の問題に収まらない。

 戦に次ぐ戦の果てに、ようやく築き上げられようとしている秩序。そのときに、ある一点の綻びのために全体が崩れるようなことになったなら、世の民に訪れるものは何か。

 

 だからこそ、綻びは取り除かねばならない。自分が胸の奥底で何を考えようと、妥協することは許されぬ。

 その結果生じることは、乱を収めるための乱。己の力では、そのような方法しかとることはできない。


 そう思い至ったとき、人は果たして何を思うものか。誰にも、実感を持って想像することは難しいだろう。同じ立場に身を置いた者でなければ。

 静御前の舞は、彼がしようとしていることの『現実』を、改めて頼朝に突き付けたのだ。先ほど大姫は人は鬼になれるものかと問うたが、人の面をした鬼というよりは、鬼の面をした人と言った方が正しいのかもしれない。

「あなたも、考えたことはありませぬか?いっそ己に心さえもなにも無ければ、なにも考えずに済むーーと」

 穏やかに微笑む政子と見つめ返す大姫の二人を、燭台の灯はなおも薄く包み続けていた。


*  *  *


 娘の部屋を出ると、夜の屋敷内は相変わらずの闇だった。しかし今は、いつもより夜目がきいている気がする。

 胸と周囲を覆っていた霞が、取り払われた気分だった。それは恐らく、あの切り取られた絵を見たからだ。これならば周りをしっかりと見ながら、行くべき場所へ向かっていけるだろう。あの方が、長く己の向かう先を見据え続けてきたと同じように。

 

 自室に辿り着き縁に出てみると、天には一面の星が見事に広がっている。ここまでとは、と政子は思わず嘆息した。まさしく星の降ってくるような夜である。

 ふと目についたのは、子の星。広大な海原を渡る船乗り達は、あの輝きを助けの一つにして向かうべき方角を知るという。

 --自分は、あの星になりたい、と思った。

 あの方が操る船に方角を指し示し、どちらに進むか決める助けとなる。まさしくそれこそが、己の行くべき先ではあるまいか。

 そんな後の尼将軍の心は、今はまだ誰にも知られることなく彼女の胸の内にしまいこまれた。


 

 およそ三年後の文治五年閏四月三十日。奥州平泉にて、源九郎義経自害。束の間の輝きながら、その生涯は後々まで人の心を捉え続けることとなった。

 一方そんな彼を慕った白拍子の、その後の歩みは判然とせぬままーーただその悲恋の伝承が、時を超えて伝えられている。


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