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美里の心を壊した日は金曜日で、土曜日と日曜日をはさんで月曜日になった。僕はいつもより早く学校に来た。
僕より早く学校に来ている教師はいなかった。職員室の机の上を見ると、いつものように何枚かの相談希望の紙が置いてある。僕はその紙をとって、机に書きおきを残して、相談室に向かった。
「――つまるところ、僕と二壁は似た者同士だったのでしょうね」
相談室のソファに身を沈めていると、僕のところへ向かう足音が聞こえた。扉が開くと同時に、僕は目線を落としたまま言った。
「今でこそ違いますが、これでも昔は誰かを救いたいと思っていたんですよ。僕には人にはない力がありましたからね。本気で誰かを救えると信じていましたよ」
唐突な話であるにも関わらず、扉を開けた主は静かに僕の話を聞いていた。僕は彼女とは目を合わせずに、淡々と語る。
「もしかしたら、二壁の言う通り、僕はこれまでの人生で何人かを救うことができたのかもしれません。でも難儀なものでして、僕が本当に救いたいと思った人は、僕には決して救えない人でした」
『私には、過去しか見えていないの』
そう言ったあの人は、いったい何を考えていたのだろうか。僕には、彼女を視通すことがついにできなくて、それこそ、全てが過去で僕にはわからない。
確実に言えることは、あの人はもうこの世にはいなくて、僕では彼女を救えなかったということだけだ。
「僕はかつて二壁と同じように、ヒーローというものに憧れました。ですがヒーローなんてものはこの世に存在しないんですよ。ヒーローは人を救う。でもヒーローが誰かを救うなんて、夢物語です。誰かを本気で救おうと思うのなら、僕らは他人ではいられない。その人の人生に本気で足を踏み入れる覚悟が、踏み込めるだけの力が必要なんです」
二壁は清水美里のヒーローになろうと、人生に踏み込んで、心を飲まれて死んだ。
僕は彼女のヒーローになろうと、人生に踏み込もうとして拒絶された。だから今生きている。
彼女を失ってから、みんなのためのヒーローなんていないのだとわかった。たった一人のためのヒーローになることはできても、みんなにとってのヒーローになることはできない。僕の夢は虚構の中にしか存在しないのだと知った。
それに気づいてから、僕はヒーローになることをあきらめた。
「僕はもう、誰かを救おうとは思いません。ただの他人として誰かの人生を過ぎ去るだけの存在でいいとしたんです。だからすみません。僕はあなたを救うことはしませんよ……佐伯先生」
僕はゆっくりと顔を上げた。部屋の前に立っていたのは佐伯だ。いつもにこにこと笑っている彼女の無表情は、佐伯の上っ面しか知らない者から見れば恐ろしいものだろう。不気味なほどに沈黙を保っていた彼女は、はらりと、手にしていた紙を落とした。
「ひどい人ですね。杠先生。こんなのもらったら、期待……しちゃうじゃないですか」
落ちた紙には、『朝来たら、相談室に来てください。相談に乗りましょう』と書かれてあった。僕が佐伯の机に置いたものだ。
泣き笑いの声で、佐伯が言った。
「だから……すみません。あなたの心がいくら助けを求めていたとしても、僕は何もしませんよ」
*
昔から、僕は人の心というものを見ることができた。相手が何を考えているかまではわからない。感情や、心理状態を読み取るだけだ。
強烈な感情や心理構造をしている人間は視覚を伴って視ることができる。この力が、共感性が高いがゆえのものなのか、それとも超能力的な何かなのかはわからない。あまり興味もない。
美里の心を黒い渦のように視ることができたように、佐伯の心も視ることができる。佐伯の心は金箔の張られたジェンガみたいだった。
見た目はきれいであっても、安定に欠いていて、穴だらけ。高く伸びてはいてもふらふらと揺れていて、常に誰かの手を必要としている。自分より不安定な人間を見て安心をしようとする性根を感じる。
そのくせ無理して自分をよく見せようともっと自分を穴だらけにして高く伸びようとしているのだから、ますますもって救いがない。
僕の言葉を聞いて、佐伯の心はぐらりと傾いた。
「どうして助けてくれないんですか。杠先生は、杠先生なら、私をきっと助けてくれると思ったのに……」
「もう僕は嫌なんですよ。大切な人がいなくなってしまうのが。誰かを救うためには、その人の人生に深く入り込まないといけない。僕には到底できません」
「なら私の人生に入ってくださいよ。杠先生になら、私、何されても……」
胸元を手で押さえ、涙でうるんだ声で佐伯が言う。その言葉の意味を、佐伯は理解しているのだろうか。きっと佐伯は理解していない。無意識のうちに吐き出された言葉だ。佐伯の金箔の光が増す。嘘をついて、自分を都合のいい存在に見せようとしている。
他力本願だ。反吐が出る。彼女を壊すのは、美里を壊すこと以上に簡単だ。僕は冷たい目で、感情のこもらない声で言った。
「お断りです。生徒から頼られるべき存在が、自分の人生を人に預けようとするな。君の人生は、君だけが決めるものです」
僕に頼ろうとするな。僕に中に入りこもうとするな。拒絶の言葉は、佐伯の心をガラガラと崩れさせた。
僕は立ち上がり、佐伯のもとへ歩み寄り、彼女に目をやることもなく、部屋を後にした。背後から、佐伯のすすり泣く声が聞こえてくる。
歯を食いしばり、耳を抑えたくなる気持ちをこらえて、僕は職員室へと入っていった。
*** ***
*** ***
僕には人の心が見える。でも自分の心だけはよくわからない。
どうして教師をしているのですか、と人に聞かれれば「惰性です」と答えるだろう。でも僕が僕自身に問いかければ、答えは「わからない」だ。
……もしかすれば、僕はまだ誰かのヒーローになりたいのかもしれない。でも僕はたったひとりしかいなくて、きっと僕が本当の意味で救える人間はたったひとりだ。
あれからすぐに、佐伯は学校をやめた。僕と佐伯の間に何かがあったと、学校では一時期噂が流れることもあったけれど、僕はそのすべてを否定し、噂はすぐに下火になった。
佐伯がこれからどう生きるのかは、僕は知らない。また不安定な積み木をするのか、それとも身の丈にあった生き方を選ぶのか。興味はないし、もってもいけない。
神様でも、聖人でもない僕たちは、みんなのヒーローにはなれないのだから。
「おはようございます」
朝八時半。僕は担任をしている教室の扉を開けた。中では一年生であるにも関わらず、真面目に勉強をしている生徒がほとんどだ。
ひとり、読書をしている生徒と、朝から居眠りをしている生徒がいるけれど、彼らはこのクラスの中でもちょっと特別な立ち位置にいる。
生徒たちは僕の姿を認めると、ノートを閉じて、姿勢を正す。一人前を気取ろうとする態度で、ほほえましい。彼らは僕のような人間がいなくても、自力で人生を歩めるだろう。
「今日の日直は……冬見くんと夏原くんですか。ホームルームの号令をお願いします」
返答はない。僕が来てからも読書をしていた冬見は、面倒くさそうに本に栞をはさみ、夏原は熟睡したままだ。そんな夏原を隣にいるクラス委員長の春崎が小突いて起こそうとしている。
「いいですよ春崎さん。夏原くんも疲れているんでしょう。あとでみっちり補習だと伝えておいてください」
僕のくだらない冗談に、生徒たちは笑ってくれる。一時間目は古典だ。号令をとって、授業を始めるとしよう。
これまで教師を続けてきて、もうすぐ二十年になろうとしている。惰性で続けるには、長い時間だ。
「では授業を始めます。教科書とノートを開いてください――」
生徒たちは真剣な顔で授業を受けている。同じ制服を着て、同じに見える表情の彼らも、心の中はばらばらで、悩みは誰でも大なり小なり抱えている。
僕は生徒たちを救えない。でも、彼らの今を助けることくらいはできる。僕は心の中で薄く微笑んで教科書を読み始めた。
これにて完結です。ここまで読んでいただきありがとうございました。
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あとがきを活動報告にのせております。よかったらのぞいていってください。_(_^_)_




