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手紙の最後は涙でよれてしまっていた。僕が手紙を読み終えた時、玄関のインターホンが鳴った。両親が扉を開けにいってしばらくすると、一人の少女が入ってきた。
身に着けている制服は僕がついさっき訪れていたK高校のもの。少女は仏前にいる僕を怪訝そうに見た後、僕の横に座って、手を合わせた。
あぁ、そうか。こいつだ。この少女が二壁を死に追いやったのだ。黙ったままの僕は、彼女と目があった。
病的なまでに白い肌。濁った眼にひびの入った大きな丸眼鏡をかけている。体のあちこちに包帯を巻いて、口は半開きに開かれている。その顔は、嗤っているように見えた。
不吉な雰囲気の少女だった。彼女は僕と二壁の写真を緩慢な動きで交互に見比べた後、半開きだった口をもう少しだけ開けた。
彼女にとっては笑みを浮かべたつもりだったのかもしれない。
「二壁先生は、私にとてもよくしてくれました。そんな先生が死んでしまって、私はとても悲しいです」
唐突で、まるで感情のこもっていない平坦な声。その声を聞いた瞬間、いや彼女を見た瞬間から、僕はひどく納得してしまっていた。
教師に人は救えない。そしてどうしても救えない、救われない人間というものは、少なからずいるものだ。
彼女は――美里という少女はそんな救われない人間の一人だ。
「私は、みんなからいじめられているんです。私を助けようとしてくれた二壁先生も死んじゃったんです。私に味方はいないんです。お父さんも、お母さんも私を見てくれません。私はいったい、どうすればいいんでしょう」
淡々と、のっぺらぼうのような言葉を吐き続ける。二壁の両親は、美里から一歩引いた。憎悪をこらえる理性。二壁の両親は、こいつが息子を死に追いやったとわかった上で、その気持ちをこらえている。それに比べて、この少女は――
二壁。お前はこの子のことをよくわかっていた。お前の死は、この子を何一つ変えなかったよ。
彼女は悲劇に酔っている。自分に降りかかる不幸に酔いしれて、自分の不幸に喜ぶ。とことん自己完結していて、全ての悲劇が彼女の中で脚色されて自己完結する。
美里は二壁の死を表面上嘆いているだけで、その実全く悲しんでいない。むしろ喜んでいるくらいだ。
彼女の心のゆがみに、僕は吐きそうになるのを必死にこらえる。二壁はこの歪みにもっていかれたのだ。
「僕は誰も救いません。でも――」
「へ?」
僕のつぶやきに、美里はゆっくりと首を傾げる。僕は美里の淀んだ目をまっすぐ見る。……視る。彼女の心は、真っ黒な不幸の渦に包まれていた。
自分と他人の負の感情を巻き込んで、からめとる心の在り方は、僕からすればとても脆い。
僕は感情のこもらない目で美里を見る。道行く人がたまたま目を向けただけのように。目の前の存在にまるで価値を見出せないというように。
それだけで、美里の渦に亀裂が走った。きっと美里はその雰囲気から、誰からも異常なものとして見られ続けてきたのだろう。それが彼女の狂った自信につながり、勘違いさせる理由を作っている。
なら彼女を壊すには、その自信を打ち砕くだけでいい。
生まれた亀裂にナイフを突き立てるように、僕はさも当たり前のことを言うみたいに、さりげない口調で告げた。
「君は悲劇のヒロインではありませんよ」
「あ……」
美里の目がひどく泳いだ。美里は信じられないという目で僕を見る。黒い渦が動きをとめて、ひどく不規則に蠢き出す。僕は変わらず感情のこもらない目で彼女を見る。彼女は身を倒すようにして、僕から離れようとする。
こうなることはわかっていた。好都合だ。
「君は、清水美里は物語の主人公ではありません。悲劇のヒロインではないし、いつか君を救い出してくれるヒーローが現れるわけでもありません。君はただの人間で、この世の中に吐いて捨てるほどいる、つまらない人間ですよ」
美里は引き裂くように短く息を吸った。浅い呼吸で何度も胸を上下させている。
どうして彼女がこんな醜い心の在り方になってしまったかなんて興味はない。僕は二壁と違って、誰かの人生に介入しようだなんてもう思えない。彼女の闇にからめとられたりもしない。
僕は清水美里を救わない。僕は今の清水美里を壊すだけだ。
「あ、あなたに何が、私を何も知らないあなたに」
平坦だった美里の声に感情が混じる。困惑と恐怖。未知を前にした当たり前の少女の姿がそこにはあった。
反発するのは僕の言葉が届いている証拠。実際、彼女の心の渦が乱れて、弱々しい心が見え隠れしている。
「知らないからこそ、わかります。それにあなたを知るだって、ほら」
逃げようとする美里に、僕は僕に宛てられた手紙を見せた。反射的に、美里の目は文字を追う。そこに書かれた言葉に、美里はひどく動揺した。
「少なくとも、二壁先生はあなたを憎みながらも救おうとしていたようですが……おめでとうございます。君は二壁のおかげで吐いて捨てるほどいるつまらない人間ではなくなりましたよ。君は――」
僕は一度言葉をとめる。美里の意識が僕に向く。聞きたくなんてないはずなのに、どうしようもなく、僕の言葉を聞こうとしてしまっている。
仕込みはすんだ。ここまでなら引き返せる。次の一言を言ってしまえば、彼女の心は壊れる。
『俺、秋先生みたいになりたいんです』
違うよ二壁。お前は、僕みたいになっちゃいけなかったんだ。
簡単に人を傷つけて、心が全く痛まない人間に、お前はなりたくなかっただろ?
「君はただの人殺しです。君は、君のヒーローになってくれようとした二壁先生を苦しめて、死に追いやった。あなたが、二壁先生を、殺したんです。そのことを、理解していますか?」
僕の心は普段と変わらないまま。でも僕の言葉はひどく冷めきっていた。いや、冷めきってすらいない。ただ単に、美里の心を壊すことに無関心なだけだ。
美里の顔はもともと真っ白だったが、今では血の気が完璧に引いて、土気色をしている。美里を守っていた心の渦はもう消えて、恐怖や後悔、絶望に美里のありのままの心が苛まれている。
美里は僕を見て、がちがちと歯を鳴らしている。そこにもう不吉な少女はいない。清水美里はただの罪をおかしただけの人間だった。
彼女の目は突き出された手紙を何度もさらって脳に刻み込み、肉体を生かすための息がさらに浅くなっていく。
僕は美里が一番言われたくない言葉を、言われたくない時に、言われたくない人間として言っただけ。ほら、人の心を壊すなんて、こんなに容易い。
「消えなさい。そして自分の生き方というものを、もっと考えてみなさい」
美里は壁まで下がり、それに縋るようにして立ち上がると、何度もつまずきながら消えていった。
あ然とする二壁の両親に、僕は深々と頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
僕はもう誰も救おうとは思わない。誰かの人生に介入しようだなんて思わない。だから美里がこのあとどんな選択肢を選ぶかなんて、まるで興味がもてなかった。
歪んだ心を壊された美里がどんな選択肢を選ぶのか。美里のこれからを決めるのは、美里自身だ。
杠の断罪。これを救いととるか、破壊ととるかは読者の皆様に任せます。
次で最終話です。




