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 二壁信二は小学四年生の頃、同級生からひどいいじめを受けていた。青葉先生は言った。


「無視されて、殴られて、蹴られて、お小遣いを取られて、その時は私、何もできませんでした」


 当時同級生だった青葉先生は、いじめられている二壁をかばって、自分がいじめの対象になるのが怖かった。だから青葉先生は二壁のために何もできなかった。

「子どものいじめって残酷です。一度たがが外れてしまったら、何をやっても許されるって思ってしまうんです」


 親に弱いところを見せたくなかった二壁は、いじめを隠し、家では精一杯強がった。


「でも信二だってただの子どもです。学校でいじめられて、ずっと強がってられるわけがないんです。膨らませ過ぎた風船みたいに、信二は限界でした。でもそんな時、学年が上がって、担任の先生が変わりました」


 その時の担任に二壁は救われたのだという。その担任はいじめの事実を掴み、二壁をいじめていた子どもたちを問い詰め、いじめの事実を白日の下にさらした。

 いじめていたことがばれた子どもたちは周りから責められ、いじめはあっけないほど簡単に終わった。二壁が五年生になった四月のことだったそうだ。


「その時からです。信二が学校の先生になりたいと言い出したのは。そのために苦手だった勉強も頑張って、いろいろあって高校の先生になって、だから……」


   *


「信二の葬式にお呼びできなくて、申し訳ありませんでした」

 学校を出た僕は、青葉先生と一緒に、二壁の生家を訪ねていた。青葉先生は、まだ仕事があるからと紹介だけして帰っていった。


 青葉先生の紹介を聞いた二壁の両親は、仏前の前で手を合わせた僕に深々と頭を下げた。


「いえ。それは……」

 両親は青葉先生以上に摩耗していた。一人息子が自殺したのだ。割り切れない思いもあるだろうし、辛い気持ちもあるのだろう。

 二壁の葬式に、以前職場の同僚だった僕を呼ぶ発想に至る余裕がなかったのだろう。


 そう思っていたのだが、両親は首を横にふった。

「信二の遺書に、自分の死を秋先生に伝えないでほしいと、葬式にも呼ばないでほしいと書いてあったんです」

 恥ずかしいから、と遺書に書いてあったという。


「恥ずか、しい?」


「はい。秋先生みたいに俺はなれなかった。目の前で苦しんでいる生徒一人助けられない。そんな俺の姿を秋先生には見せたくないと」


 言葉にできない思いが僕を貫いた。正座した僕の拳は、血がにじむほど固く握りしめられていた。僕は短く息を吸う。


「信二の遺書は二通ありました。一通は自分が死を選んだ理由と私たちや学校の方々への謝罪が書かれてありました。そして二通目は秋先生に向けてと書いてありました。封がしてあって、秋先生がもしうちを訪ねて来たら渡してほしいと書いてありました。……秋先生」

 両親は力なくうなだれたまま言った。


「私たちはどうすればよかったんでしょうか。信二が疲れていることは、同じ家に住んでいたのだから気づいていました。でも大丈夫だろうって、信二はもう一人前の大人だから自分で何とかするだろうって、でも違ったんでしょうか……」


 二人の言葉に、僕は何も答えることができなかった。重い沈黙が仏前に流れて、「手紙を取ってきます」と言って、二人は席を外した。

 一人になった僕は、仏前に飾られた写真を見た。写真の中の二壁は、人好きのするいい笑顔を浮かべている。


「僕は……」

 言葉につまる。写真に何を言っても、意味はない。二壁は死んでしまったのだ。何を言っても自己満足でしかない。


 少し待てば、両親が手紙を携えて戻ってきた。


「お待たせしました。これが信二からの最期の手紙です」

 渡された手紙は真っ白な封筒に入っていて、封筒に『秋先生へ この手紙は秋先生がうちを訪ねてきた時にだけ渡してほしい』と、少し震えた字で書かれていた。


 僕は封筒を受け取り、のりで封のされた部分をゆっくりとはがしていく。ぺりぺりと音を立てながら、封はゆっくりと外されていく。

 封筒の中には、同じく真っ白で罫線だけ入った手紙が入っていた。三つ折りに折られた手紙を開けば、二壁らしくない、小さな文字で僕へのメッセージがつづられていた。



『秋先生へ


 俺が秋先生と一緒に働いていた時には、まさかこんな手紙を書くことになるだろうとは思いませんでした。まずは先生に相談もせずにこの選択をすることを謝らせてください。


 きっと、先生に相談すれば、俺をとめてくれることはわかっています。秋先生は人と距離をとろうとしていることは気づいていたけど、俺が会った人たちの中で一番優しいから、身をなげうってでもとめてくれると思うんです。だからこそ、先生にだけは言えない。


 もしかしたらこの手紙を読む前に聞いたのかもしれませんが、俺が先生になろうって思ったのは、小学校の時、いじめから担任の先生が助けてくれたからです。あの時、俺はその先生に救われて、その先生は俺にとってのヒーローでした。だから俺もヒーローになりたくて、先生になろうと決めました。


 高校の教員を選んだのは、高校の時の先生の中に、ヒーローがいなかったからです。高校生の時も俺は勉強とか、部活とかで悩んでて、でも俺の悩みに気づいて救ってくれるヒーローはいなかった。なら俺がヒーローになろうと思った。それだけの話なんです。


 単純で、馬鹿みたいでしょ? でもそれが俺にとって全てなんです。


 だから採用試験に落ちて、へこんだ気持ちで私立の学校に就職して、俺がどれだけ驚いたかわかりますか? 高校にはヒーローはいないって思ってたのに、俺の目の前にヒーローはいたんです。子どもの悩みを聞いて、不安を消してくれる先生がすぐ近くに。


 秋先生は俺にとってのヒーローで、憧れだったんです。


 俺は秋先生からいろんなことを学びました。ヒーローみたいだった秋先生は、やっぱりすごくて、尊敬しました。でも先生の教師は人を救えないって考えだけは納得できませんでした。


 俺は小学校の時の担任の先生に救われましたから。秋先生にだって、救われていたから。違うんだって。教師は人を救えるんだって、知ってたから。


 先生は、誰かを救えるんだって、信じてた。


 でも、今なら少しだけ、秋先生の気持ちが理解できます。俺にはあの子を救えなかったから。


 去年から俺が担任をしている、清水美里っていう子です。


 あの子も俺と同じように、他の生徒たちからいじめられていました。中学の時からみたいで、根がすごく深くて、ほとんどの先生がお手上げって状態だったんです。美里も今の状況に諦めきっていて、現状を受け入れてしまっている。


 どうにかしたいって思ったんです。俺があいつを救いたいって思ったんです。


 ……駄目でした。駄目、だったんです。俺には無理だったんです。俺には美里は救えない。俺はあいつのヒーローにはなれない。あいつの心は歪み切ってて、あいつと接する度に、嫌な考えが俺の頭をよぎってしまうんです。


 こいつはいじめられて当然だって。


 美里をいじめているやつらだって、いいところがいっぱいあるんです。いい奴らなんです。悪いことをしてるやつらでも、悪い奴じゃないって意味がよくわかりました。


 美里と話していると、どんどん自分が嫌いになっていく。何もできない自分が嫌で、救いたいって思ってた美里のことを憎たらしく思う自分が嫌いで、いじめているやつらの気持ちが理解できる自分が嫌いになっていく。


 何度も秋先生に助けを乞おうかと考えました。これまで美里について助けを乞わなかったのは、俺のちっぽけなプライドのためです。秋先生がいなくても、一人でできるんだって証明したかった。成長したんだって思ってほしかった。でもこの気持ちに気付いてからは、秋先生には絶対に連絡できなくなった。


 こんな恥ずかしい自分を、ヒーローの秋先生だけには見せたくなかった。


 秋先生、俺のことは忘れてください。俺みたいな馬鹿のことは忘れてください。お願いします。そして秋先生はずっとヒーローのような先生でいてください。


 今ならわかります。俺が誰かを救おうだなんて、傲慢な考えでした。人は自分から助かろうと思わなければ、救われないんです。


 俺は今から死にます。できれば俺の死が、美里が変わる一つになってくれればと思います。多分、あいつは何一つ変わらないと思うけど、それでも……


 そしてもし美里に会ったなら、秋先生。美里を救ってはくれませんか?


 矛盾していることはわかっています。でも秋先生なら、俺が死んだことを見つけて、美里を見つけて、美里を救ってくれるんじゃないかと思うんです。


 だからどうか、どうかお願いします。おねがいします。どうか、どうかあいつを――』

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