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午前中の授業を終えて、僕は荷物をまとめていた。“悩み相談室”にはまだ一件相談が来ていたままだったが、相談の主は受験のストレスで最近よく僕のところに来る子だ。部活を引退し、日に日に近づく受験に極端にナーバスになっている。
教室に行って彼に一言詫びを入れ、カバンを手に取る。教頭と校長に一言告げて、職員室を出ようとした僕を、佐伯が引き留めた。
「杠先生、お出かけですか?」
「うん」
「その前に私とお弁当食べませんか?」
佐伯の手には風呂敷に包まれた弁当があった。たしかに弁当を食べていく時間くらいはある。
でも僕は首を横にふった。
「ごめん。時間が惜しいから」
「……残念です」
佐伯は一瞬ぞっとするような無表情になった後、すぐに笑顔を作り直した。彼女からのぼる暗い情念からそっと視線を外して、彼女に背中を向ける。
「また今度ご一緒しましょうね」
僕は佐伯と一緒に食事をとったことがない。僕は佐伯に背中を向けたまま答えた。
「機会があったらね」
その機会を外しつづけているのは、僕だ。
*
車に乗り込んだ僕は、窓を開けて、たばこの箱を取り出した。ブレーキからアクセルに踏みかえて車を発進させて、片手でハンドルを操作しながら、箱から一本取り出して口にくわえる。学校の敷地から出ると同時に、ライターでたばこに火をつけた。
「ふぅ……」
学校前の急な坂を下りながら、僕は窓の外に煙を吐き出した。これだけなら、不良教員そのものだな。たばこは学校から出る時だけ一日に三本と心に決めている。過度にやりすぎなければ、酒もたばこもストレスを紛らわせるために便利だ。
車の中がたばこくさくなってしまうけれど、自分以外に乗る人間がいるわけでもない。
たばこをふかしながら、僕は高速道路に向かう。一人で車を走らせていると、益体もない昔の出来事が頭に浮かんでしまう。
『秋先生みたいになるには、どうしたらいいですか?』
二壁と二人で飲みに行くとき、酔った二壁は決まってそう聞いてきた。仕事帰りのおっさんがたむろする、薄暗い店内。安酒ばかりが置いてあるいきつけの酒場で、枝豆と唐揚げをつまみにビールを飲みながら。僕のような、生徒の心を救えるような教師になりたいのだと二壁は言った。
そんな時、僕は決まってこう答えた。
『二壁には僕のようにはなれないし、なる必要もありません。なってはいけません。二壁なら、きっと僕よりもずっといい先生になれますよ。まずもって、僕は生徒の心を救ったことは一度たりともありませんから』
本音だった。二壁なら、僕なんかよりもずっといい教師になれると思っていた。
僕は生まれた時からずっと、ひとつズルをしている。ズルしてここまで生きてきたような教師に、二壁にはなってほしくなかった。
『そんな……秋先生はいつも生徒たちを救っているじゃないですか。相談室から出てきた生徒たちはみんなすっきりした顔をしていますよ』
二壁は不満を見せていた。酒に弱い二壁は飲むとすぐ顔を赤くした。不満を飲み込むようにビールを飲む二壁に、僕は苦笑をもらした。
『違います。彼らは自分で勝手に救われているだけで、僕は彼らの悩みや不安を受け止めているだけなんですよ』
『でも受け止めているのは秋先生じゃないですか。受け止めることで、生徒たちは救われている。教室でも、職員室でも、秋先生を悪く言う人は誰もいません。みんなが口をそろえて言ってますよ。秋先生はすごいって』
『いいえ。僕はすごくなんてありません。二壁、よく聞きなさい』
僕は残り一個になってそのままの唐揚げに目を落とした。どうしてあの酒場は唐揚げを五個で出していたのだろうか。
安くてうまいのだから、文句は言うべきではないのかもしれないけれど、二人で行けばどうしてもひとつ余る。僕が二つ、二壁が二つ。唐揚げが好きな二壁のために、いつもひとつ残すけど、実は唐揚げが好きな僕に気を使って、最後のひとつを我慢するのだ。
これが四個か、六個であればこんな葛藤は生まれなかっただろうに。
『教師は生徒にとって、大きな存在でしょう。ほとんど生徒たちにとって、保護者をのぞけばもっとも身近な大人です。生徒が僕らに懐くのも、反発するのも、僕らが身近にいるという理由だけなんです。だから勘違いしてはいけない。僕ら教師はどこまでいっても他人でしかないんです』
二壁からの返事はない。寝落ちしたわけではない。酔った頭で、僕の言葉の意味を必死になって読み取ろうとしている。
『教師が生徒たちと一緒にいることができるのは一年か二年。長くて三年です。僕らは彼らにとって、過ぎ去って、思い出として消えていくだけの存在です』
『でも、思い出だけでも、教師は生徒たちに大きな影響がありますよ。それこそ、その人の人生を変えてしまうような』
沈黙が続いて、二壁から出てきたのは弱々しい反論だった。
『なるほど確かに。過ぎ去って、消えていくだけの僕らでも、子どもたちに影響を与えるものだと思いますよ。でもね、二壁……僕らは絶対に生徒を救おうとしてはいけない。いいえ、教師に限らず、です。そもそも他人が誰かを救おうだなんて、詭弁ですよ。人は、自分の力で救われる。誰かを救おうだなんて、傲慢な考えですよ』
『……俺には、わかりません』
酒の趣味も、料理の趣味もよく合った僕と二壁だったけれど、教師としての在り方だけは合わなかった。二壁は僕のような教師になりたいと言いはしても、僕と同じ考えはもたなかった。
『教師は、人を救えますよ。先生は、誰かを救えるんです』
真っ赤になった顔で、二壁は言った。そのままテーブルに伏せるように倒れ、ゆっくりとした寝息が聞こえてきた。
『はぁ……飲みすぎですよ』
酔いつぶれた二壁の頭を軽くたたいて、その日は勘定をすませた。そして体格のいい二壁をどうにか背負って帰路についた。
最後に残った唐揚げは、結局残ったままだった。
杠の教師論。人が誰かを救うというのはとても難しいことだと思います。
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