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僕が学校に言われてこの不安相談室を始めたのは、八年前だ。それより前からよく生徒たちから相談事を受けることは多かったけれど、学校はその話を聞いて、立ち上げを決めたらしい。
もともと僕は古典の授業で先進的な授業をして、効果をあげていた。学校から信頼されていたこともあったのだろう。
学校で教師が悩み相談をしても、生徒なんて寄り付かなさそうなものだが、僕の相談室にはよく生徒が来ていた。平均してだいたい二、三人。多い時は五、六人は一日に来る。悩みを抱える生徒は存外に多い。
もっとも悩み相談といっても、僕が何かするわけではない。
「きっと彼はもう私のことなんて好きじゃないんです。私一人だけまいあがって、大好き、大好きって言って、体も……バカみたい、私」
拳を固く握りしめて、目に涙を浮かべて、彼女は叫ぶようにしている。僕は彼女の気持ちを見ながら、存在感を殺したまま黙って聞いている。
この悩み相談で、僕がするのは聞くことだけ。黙って聞いて、彼女の感情を全て吐き出させる。
昔から悩みを聞くことが多かった。たくさんの悩みを聞き続けて、僕がたどりついた真理は一つだ。
「そうかい」
僕にできることは聞くことだけ。でもそれでたいていの生徒は満足して、悩みを解消することができる。
本人にとっては深刻な悩みでも、大人にとっては大したことではない。やろうと思えば、正しいアドバイスを送ることはできる。共感してあげることは、僕にとっては簡単だ。でも僕はそれをしない。
しょせん他人でしかない僕から何を言われたところで、納得できるものはないのだ。反発、疑念。そんな感情が僕の言葉を素直に聞き入れることをためらわせる。
それに悩みで心が弱っているとしても、人間というものは存外強いものだ。僕が何を言うわけでもなく、正解は自ら見出すことができる。
「私……私」
気持ちを吐き出すこと二十分。衣川さんは疲れたように、膝に頭をうずめた。彼女から感じたほの暗いものはだいぶ薄れている。
頃合いかな。聞き役に徹していた僕は口を開いた。
「わかったよ。なら、衣川さんはどうするのがいいと思う?」
衣川さんはゆっくりと顔を上げる。泣きすぎたのか、目ははれ上がって、顔は真っ赤だ。彼女は口を何度は開け閉めして、言った。
「……彼と、別れます。彼と一緒にいると、つらいんです」
「そうかい。ならそれが君の選んだ答えだ。自分を信じてあげてほしい」
衣川さんは力なく立ち上がると、ふらふらと扉に向かっていった。でも部屋を出ていく時、彼女からは強い意志を感じた。これなら大丈夫だろう。
「ありがとうございます。先生のおかげで決心がつきました」
「僕は何もしていないさ」
「そんなこと、ないですよ」
僕がひらひらと手を振ると、彼女は小さく頭を下げて出て行った。扉が閉じて、足音が遠ざかる。僕はソファにもたれかかって、長い息を吐いた。
衣川さんはこじれてはいたけれど、まだ自分で修復できる段階だった。よかった、と僕は思う。
腕時計を見ると、時間は七時四十分を回っていた。衣川さんと入れ替わるように足音が聞こえてくる。
朝から来るということは、昨日の夜から悩み続けていたということだろう。僕にできることは悩みや不安を受け止めて、ほどよいタイミングで跳ね返してあげることだけだ。
どうやら壁当ての壁になる仕事はまだ終わらないらしい。僕は近づく足音に目をつむった。
*
二人目の相談が終わると、時間はすでに八時を回っていた。僕は急いで職員室に向かう。職員室ではちょうど朝会が始まろうとしていた。
朝会では教頭が必要最低限の連絡事項を伝える。空気がどことなく重い。朝会の最中にも、何人かの教員が僕の方をちらちらと見ていた。
朝会が終わると、何人かの教員が僕の近くに集まってきた。
「杠先生……」
みんなこの学校に長年いついている教員ばかりだ。彼らの顔は暗く、昨日のニュースを見たのだとわかった。
「二壁のこと、ですよね」
彼らは口に出すこともためらわれるといった様子だ。僕が二壁の名前を出すと、肩を落としてため息をついた。
「あ、あぁ……その、杠先生は大丈夫ですか? 先生は二壁くんをよく可愛がっていたでしょう?」
そういう彼も、二壁のことは息子のように可愛がっていた。二壁の死に、彼はかなり気落ちしている。
「えぇ。だからすみません。今日は午後から休みを取ります」
「それは……」
「ちょっと、二壁が務めていた学校まで行ってみようかと思いましてね」
僕は二壁の死の理由を知らなければならない。僕は教頭に休みを申請すると、あっさりと通った。もともと今日は午後から授業が入っていなかったし、二壁のことも察しているのだろう。
「私が代わりに出ましょうか?」
と午前の授業を代わろうかとまで言われた。
「いえ、大丈夫ですよ」
「そうですか。無理だけはしないでくださいね」
「もちろん」
心配性な教頭に、笑って答える。
「でも無理しないでほしいというのは本当ですよ。杠先生が人のことをあれだけ構うのは珍しいことでしたから」
「そうですか?」
確かに二壁は授業のやり方を一から仕込んだ弟子のような男だったが、それは今まで桜ノ宮学園に入ってきた国語教師全員に言えることだ。
佐伯にだって、国語の授業のやり方を叩きこんでいる最中だ。
僕が首を傾げると、教頭は薄く笑ってみせた。
「杠先生は特別、二壁先生のことを気にしておられるように見えましたよ。よく二人で飲みに行っていらっしゃったし、二壁先生もあなたのことを信頼していた」
信頼、か。その言葉に僕の胸がチクリと痛む。
「ならどうして、二壁は僕に相談するより先に、首を吊ってしまったんでしょうか」
僕のつぶやきは丁度チャイムの音にかき消されて、教頭の耳には届かなかったようだ。彼は「何か言いましたか?」と問い返したが、僕は首を振って答えた。
そんな僕の姿を、佐伯は後ろから静かに見ていた。




