いつも通りと非日常と
氷室深夜は走っていた。
午後三時。たくさんの人々が歩き行き交う大通りを。青空の中を駆け抜け、迫りくる夜闇からただひたすらに走って逃げ回っていた。進む道の空は青く、ただひたすらに青い空と白い雲が流れている。駆け抜けていった後ろには、夕暮れを素っ飛ばした丑三つ時のような暗い、真っ黒な空が広がっていた。
どうして、どうして。
そう心の中で声を荒げながら大通りの人の隙間を縫うように駆ける。自分が走っているうちにどんどんと世界は夜のような闇に侵食されていっているのにも関わらず、どうして周りの人々は平然としていられるのだ。
なぜ、なぜ。
こんなにも周りの風景はいつもの日常からまるで悪夢の世界のような形状へ変わっていっているのに。人々はあがくこともせず、暴れもせず、泣きもせず、ただ何事もないように談笑や会話をしながら歩いているのだろう。
なんで、どうして。
僕しか気づいていないのだろう。この世界で僕だけが切り取られたかのように、世界は変化し、「なにか」が追いかけてきて。でも人々は誰もその変化に気付かないどころか、自分は安全地帯にいるかと思っているような顔をして、歩いて、そして、闇に飲み込まれて消えて行っているのだろう。
どうしてこの状況をちゃんと耳で、目で、感覚で確認することができるのが僕しかいないのだろう。何故誰もこの状態を異常と思わないのだろう。どうしてみなこの状況をおかしいと知覚できないのだろう。どうして皆は、どうして僕は。どうしてこんな僕にしか、わからないんだ。
僕にできることなんて、何もないのに。
出てきそうになる涙をこらえて、弱気になりそうになる心をどうにか抑え込んで頭だけでも冷静でいようと努める。とりあえず、今はこうして知覚できる僕は逃げ続けるしかない。僕に何かできることはない。それはわかっているけれど。それでも、唯一知覚できる僕がこうして何もできないで闇に飲み込まれてはいけないような気がした。
だからひたすら走っていた。何の策もなく、希望もなくただ押し迫る絶望感から逃げ続ける。冷静になろうと絶え絶えになっている状態で息を吸い込む。ちらりと後ろを見れば暗黒の空はもうすぐそばまで差し迫っていた。急がなければ、大変なことになる。
瞬時に察知するも、走り続けているためかもう、体が持たない。四肢が悲鳴を上げ、心臓が煩く警鐘を鳴らす。息はひゅうひゅうと上がり、のどが、体が、頭が痛い。大量に溢れてくる言葉の波に押しつぶされそうになりながら、思い出したのは一つのことだった。
昔、優しい声色で誰かが誰かに対して言ったことを僕は覚えている。けれどそれが誰に対して言ったことかも、誰が言ったことかももう覚えてはいない。
「ウタちゃん。この世界にはたくさんの神様がいて、たくさんの神様は私たちを見守ってくれているんだよ。たとえばウタちゃんがいつも使っている二胡にもいるんだよ。屋万の神って言ってね、その方々はウタちゃんをきっと守ってくれるんだよ。」
なんで、どうして今こんなことを思い出すのだろう。短い、本当に一瞬だけの走馬灯ってやつだろうか?今こんなにも死の淵にいるからだろうか?にしても、こんな関係のない何かをなんで今更思い浮かべるのだろう。
神なんて、神様なんてどこにもいない。
神様なんてこの世にいたら、きっと世界は今頃こんな風になんてなっていない。
「でもね、ウタちゃん。神様はみんなに平等なんだ。みんな誰にとっても完全な味方も完全な敵もいない。みんなが誰かの見方で、誰かの敵なんだよ。神様は敵も味方も関係なく、ただ平等にチャンスを与えてくれるから、神様はウタちゃんが困っても助けてくれたりなんてしない。
だからね…私はウタちゃんにこれをあげようと思うの。かわいい?そりゃあ嬉しいねえ。これがウタちゃんの役に立つかどうかはウタちゃん次第。だけども、きっと役に立つよ。ウタちゃんは心優しい、思いやりのある子だからねえ。そうそう、ここにヒモがあるからこれでつけてあげようかい。ほうら、これでお守りの完成だ。
もし、ウタちゃんが困ったことがあったらきっとこれが役に立つ。だからちゃんといつでも肌身離さず持っているんだよ。」
そう、誰かが誰かに対して、薄く優しい微笑みとともに何かを託したのを覚えている。あたたかなセピア色に薄まってぼやけていく昔の風景。あれは、誰が、誰に託したのだっけ。
それを思い出そうとすると、石を投げられたような鋭い痛みと言うよりは、まるで夏の暑さに当てられて熱中症になった時のような、鈍くて重い痛みが頭に響く。どうして大事なことが思い出せないんだ。どうして、どうして。…だけれど、わかっていることは二つある。
一つはそのお守りが僕自身に渡されたものでないこと。僕は記憶喪失などの類ではないし、それに僕の名前は氷室深夜であり、まったくウタちゃんなどというあだ名にかすりもしていないし、事実今までの人生であだ名をつけられるような機会なんてそうそうなかったからだ。
そして二つ目は、何の因果かはわからないがそのお守りが今現在僕の手元にあるということだ。
白い学ランの下の、ワイシャツに手をかけ、首から下げられたその、記憶の中に出てきたものと同じ、少し色あせた小袋を取り出す。僕は慌てた手つきでその桜色の小袋に巻かれた赤い紐を解くと―声も出せずにただ立ち尽くした。
闇の迫るのも気にせずに、ただ立ち尽くし見続けた。青い空の下に季節も問わないで紫色の花弁がひらひらと舞い、踊るようにその人は着地すると、真っ直ぐに僕を見据えて言った。
「ああ…よく眠った。」
その言葉は今まで走っていた僕が崩れ落ちるには十分すぎるほど、間抜けていた。