二人の陰陽師
かなりフィクションかつファンタジーですが、温かい目で見て下さると嬉しいです。連載用を短編にしたのでストーリー展開が滅茶苦茶かもしれませんが、その点はどうかお見逃し下さい。
今夜の穂高は機嫌が良かった。
時折、楽しげな鼻歌を夜の闇に響かせながら、都の大路を悠々と歩く。
高い位置でひとつに結い上げた長い黒髪は、頭上に浮かぶ月の光を受け、柔らかな光を纏う。
彼は、深窓の姫君に負けず劣らずの美しい面立ちの少年であった。白く透き通った肌はきめ細かく、形の良い唇はほんのりと赤い。黒曜石をはめ込んだような瞳は強い意志の光が宿り、生気に満ちた彼の瞳は見る者の心を惹き付けることだろう。
水干の下に穿く、緋色の小袴から伸びる穂高の細い足が、軽快に地面を蹴った。
穂高は濃紺の空を仰ぎ、夜風を確かめるように両手を広げた。
満天に散らばる無数の星影。
一際輝くのもあれば今にも消えそうな輝きもあった。都に住む人々のようだと穂高は思う。
贅沢三昧で暮らす貴族と、貧困に喘ぐ庶民。後者の生活は常に死が付き纏う。飢えと横行する強盗、妖が庶民の命を奪うのだ。
官人陰陽師によって妖から守られる貴族と違い、庶民らは妖から身を守る術を持たない。
そこで庶民の味方となる者は穂高のような在野の陰陽師である。私度僧、破門された陰陽師など経歴は様々だが非公式であるため法師陰陽師、かくれ陰陽師などと呼ばれていた。中には官人陰陽師を超える腕を持った術師もおり、在野だからと侮れない。
庶民のために妖を調伏する良い者もいれば、貴族に雇われ呪咀を行う者もいる。穂高はもちろん前者であり、今日も妖を調伏した。
自らの術によって、人の役に立てたことが素直に嬉しく、穂高の気分は最高だ。
「うん、今日も頑張った」
懐に忍ばせてある甘柿を取り出し、口に含む。
幸せな甘味に顔が綻ぶのを止められず、穂高は目を細めた。
秋の夜は一層冷え込み、身を震わすほど寒いが、秋の味覚はそれすらも忘れさせてくれる。
しゃくり、しゃくりと歯を立て、その甘さを堪能していた時だった。
足元から何かが這い上がってくるような不快感が穂高にを襲う。肌が不快な気配に栗立つ。空気がじわじわと生温くなるのを感じ──穂高は果汁で汚れた口許を手の甲で拭い、食べ終わった柿のヘタを地面に投げた。
ひどくゆったりとした動作で、膨れ上がる背後の気配を確認する。
雲が重く垂れ籠め、月と星が逃げるように姿を隠す。
振り返った穂高の目の前で
「ビクリ」と大きな影が蠢く。光の閉ざされた深い闇の中にそれは存在した。
穂高には見えた。
地をずるりずるりと這う、十二単を纏った若い女の姿が。若い女はどこか虚ろな白眼を穂高にじっと注いでいた。
空気が急速に張り詰める。
肌を叩く強圧的な雰囲気に、穂高は怯む事なく、怯えるどころか逆に
「にやり」と口角を持ち上げた。
視線をそらしたら最後。行き着く先は冥土しかない。
「坊や…肉を…肉を喰わせろォオ…」
若い女の声が男──いや、獣の咆哮のような恐ろしいものに変わっていく。
顔が真ん中から
「めきり」と音を立て真っ二つに裂け、中から黒い塊がのぞく。血ような赤赤とした無数の眼が黒い塊の表面に浮かび上がり、ぎょろりと穂高を睨み据えた。女の白い手がぼろぼろと崩れ、中から茶色い鱗が顕れる。五本の爪が太刀のように長く鋭く変化していく。茶色い液体が身体から吹き上がり、周囲へ飛び散った。
腐臭がする。鼻が折れそうだ。 異形の存在と化した女の唇はもう無いのに──それでもギャアギャアと耳障りな笑い声を放つ。
「…やれやれ」
穂高は懐に手を差し入れ、じり、と後退る。おどけた調子で彼は笑った。だが、彼の双眸だけは決して笑ってはいない。這い寄る異形の姿を真っすぐに受け止め、相手の力量を静かに窺っていた。
一瞬の、沈黙。
異形の腕が瞬時に伸び、穂高に向かって矢のように飛んでくる。
同時に穂高は懐から符を取り出し、すばやく宙に放つ。符が鮮やかな青白い炎を噴き上げた。
闇に生じた燐光は、術師を守る絶対の防壁となる。
穂高の前に広がる炎へ異形の爪先が触れた、その刹那──
「ォオォオオ!」
凄まじい咆哮が響き渡った。
青い轟炎が異形の身体に燃え移り、一気に膨れ上がった。異形の身体を焼き尽くす、清浄な青い炎の勢いは強まるばかり。
肉が焦げる匂いが煙と共に夜気を裂いて立ち昇った。
もはや黒い塊と化したそれは、炎の中で激しく身悶え、力尽き、どさりと崩れ落ちた。青い炎がゆるゆると勢いを弱め、少し遅れて鎮火した。
塊は灰となり、やがて夜風に攫われ空気に溶けていった。
穂高は仕事を終えた達成感から長い息を吐き出し、天を振り仰ぐ。
ひらりひらり、と黄金色の蝶が穂高の頭上を舞っていた。蝶はゆるやかに下降し、黄金の燐粉を散らしながら彼の周りを飛び回る。
「…式神?」
穂高が呟く。
式神とは陰陽師が使役する鬼神や動物などの存在である。この式神は、妖の気配を感じたどこかの術師が遠見をするために蝶を操ったものだろう。
蝶から感じる霊力は底知れず、。相当な術師によって放たれた式だと穂高はすぐに理解した。
「…ま、僕には関係ないけど」
誰の式だろうが、興味はない。
穂高は背を伸ばし、欠伸を噛み殺した。身体は正直で、心地よい疲労感が眠気を誘う。
くるりと身を翻し、蝶から身体を背けた──が。
なぜか、足が進まない。影を地面に縫い止められたかのように、穂高は身体を動かすことができなくなった。
──身体を包む、この気配。
(まさか、術?…でも誰が…)
悪意でも殺意でもなく、清らかな霊気だけを肌で感じ、穂高は戸惑うと同時に考えを張り巡らす。
…強い霊力、これはあの蝶の──
「気に入ったよ、君」
若い男の、声がした。
雲の中に隠れていた月と星が姿を顕わし、その声を華やかに彩る。
浅履の音を散らし、垣の陰から青年がゆうるりと現れた。黄金の蝶が青年の肩に降り立ち、煌めきを闇に振り撒く。
あの蝶は、この者の式か──
垂纓冠を被った、衣冠姿の青年。檜扇で口許を隠してはいるが──喉を鳴らして静かに笑う声、涼やかな切れ長の眼差しは、穂高の心を強く捕らえる。彼はとても美しい顔立ちをしていた。
黒の眼は星影の散る夜空のように、美しい光をたたえている。もしや彼は、高天ヶ原から降り立った神の化身ではあるまいか?彼が纏う霊気は神々しく、人の身に余る力を感じる。
惚けたように穂高は彼に見入っていた。言葉が出ない。
青年が穂高の前まで歩いてくる。歓喜に胸が踊った。
ふわふわと目の前が揺れ、穂高の思考は定まらなくなっていた。
「…名は?」
檜扇を翻し、青年が穏やかに尋ねる。
甘美な声につられて、虚ろな瞳で穂高はそっと唇を開く。
穂高は、抗えなくなっていた。
「…穂高……」
「穂高、ね」
青年はかすかに笑って、檜扇をぱちりと閉じた。途端。
穂高の瞳が見開く。彼を誘惑していた不可視の術が解けたのだ。
少年の瞳に見る見る警戒心が生まれ、青年を威嚇するように睨み付ける。
永遠のように感じられた呪縛から解き放たれた身体は、もう動く。穂高は懐から符を一枚取り出した。
一歩後ろに下がり、青年との間合いを取った。青年はいと優雅に首を傾ぎ、向けられる敵意に全く動じていない。
艶麗な彼の笑みは穂高の背筋を妖しく撫で上げる。
「怖いねぇ。…穂高」
「…お前は、何者なんだ…!」
「…私かい?」
穂高が吼えた。
青年は笑みを絶やさず、静かに言を継いだ。
「私は安倍晴明。…陰陽師さ」
「なっ…」
穂高は驚愕の色を瞳に映し、危うく符を落とすところだった。
狐を母に持つと言われる彼の有名な都一の陰陽師。その者が穂高の前に立っている──
「参内する途中で妖の気配を感じたと思えば。良い腕を見させてもらったよ」
晴明は、ざり、と浅履を鳴らし、穂高との距離を詰める。
「穂高、君は女だろう。男の格好もなかなか似合っているけれど」
穂高の顔が一気に凍り付く。
驚愕のあまり、眉一つ動かせず、否定する言葉すらも奪われた。額に汗を滲ませ、穂高は晴明を凝視する。
──何故、解った。
そう、穂高は女だ。女として産まれながら男として生きてきた。
立ち振舞いも完璧に男を真似たつもりだったが、こうも簡単に言い当てられてしまうとは。
無言を肯定と受け取り、晴明はなおも続けた。
「君の霊気は私の母とよく似ている。女の美しい清らかな力だ。僕は男だが私と通じるものを感じるよ」
「…僕の母は妖ではない…!僕も妖ではない!」
漸く絞りだすように穂高が言うと、晴明は然も可笑しそうに声高に笑った。
「私の母は狐であり狐ではない。白拍子だよ。気分を悪くさせてすまなかったね」
その言葉に、穂高は強く反応した。
各地を転々と旅する遊芸民。踊りや歌を披露し生活する遊芸民の白拍子を狐という。彼女らは占術や呪術に長け、巫女としての一面を持っていた。類い稀なる霊力を持っていても何らおかしくない。
白拍子が、安倍晴明の母──?
「まさか…ならば貴方の母は」
「今も何処かで舞っているんじゃないかな。私を産んで一座に戻ったくらいだからね」
飄々とした口調で晴明は応じた。
穂高は符を懐に仕舞い、青年を見上げる。彼に対する警戒心はゆるりと氷解したようだ。
「…成る程。僕の母は傀儡女。貴方の言う通り、確かに白拍子と似たような者だ」
「…矢張り当たっていただろう?」
そう訊かれ、穂高は小さく頷いた。
穂高の母は傀儡女と呼ばれた存在だった。
傀儡女とは各地を旅し、呪術を操り、人形を使った遊芸を得意とする集団の女のことを指す。穂高の母は貴族との間に穂高を孕み、仲間から置いていかれ、寂しく病で死んでいった。
母を思い出し、穂高は唇を噛んだ。
「僕の、僕の母は僕を孕んだ事によって一座に捨てられ、幼い頃に病で死んだんだ」
穂高は目を伏せ、誰にも言ったことがない過去を晴明に打ち明ける。彼の術に惑わされたのか、ごく自然に言葉が唇から零れ落ちた。
「そして、僕は母から受け継いだこの力を使って生きていくと決意した。この力は僕と母との大切な絆だから──だけど、僕のように身寄りもなく後ろ楯もない女が術師になって生きるということは難しい」
「……だから男となり、在野の陰陽師として生きる道を選んだのだね」
神妙な晴明の呟きに、穂高は静かに俯いた。
晴明の側にいると、不思議な懐かしさを感じる。白拍子も傀儡女も元を辿れば同じ巫女だ。
二人の中に流れる血が共鳴しているとでもいうのか。
「穂高、あのね」
晴明の柔らかな声が降ってくる。
俯いたまま、穂高は彼の言葉の続きを待った。
「私の弟子にならないかい?」
「え?」
思いがけない提案に穂高が面を上げると、晴明の澄んだ瞳と視線がぶつかる。
驚いた穂高の顔が晴明の双眸の中に鮮明に映し出されていた。
「さっき、穂高が気に入ったと私は言ったね。私は穂高の力をもっと伸ばしてみたくなったんだよ」
穂高が呆然と晴明を見上げ、何も言えなくなっていることをいいことに、晴明はさらに続けた。
「女だろうが男だろうが、そんなものは私にとって些細なこと。穂高は素晴らしい陰陽師になれる」
妙に自信満々な晴明の言葉に、穂高は
「ぷっ」と噴き出していた。
都一の陰陽師は随分と変り者のようだ。だが、嫌いではない。
「些細なこと、か」
「そうさ。…穂高、どうかな?」
晴明が言う。
「…考えとくよ。それと」
穂高は晴明の目を真っすぐに見つめ、明るく笑った。
咲き誇る花のように可憐な少女の笑顔だった。
「僕の本当の名は利花。特別に教えてあげる」
「利花、ね」
晴明は嬉しそうに目を細め、穂高の美しい名の響きを堪能する。
覚えておこう。いつかまた出会う時のために──
「また会おう、穂高」
「うん」
二人は穏やかな視線を交わし、それぞれの場所へと帰っていく。
空に浮かぶ月が、優しく二人を見守っていた。