かごめ
弾んだ息を喉の奥に押し込めながら、喜之助は玄関の引き戸を小さく開いた。幸い、玄関で父の宗太郎が仁王立ちしているようなことはなく、わずかな人の気配が縁側から漂ってくるだけだ。囁くような話し声が耳をくすぐる。視線を下に向ければ、見慣れた父の履き物の他に、落ち葉付きの汚れた草履が脱ぎ捨てられていた。
「物売りのおっちゃんが来てるんだな」
喜之助にとっては、もっけの幸いだった。いつもならば、黄昏時まで遊び回っているとは何事か、と宗太郎のげんこを食らうところだ。
遊びの余韻に体が火照っているのを感じながら、父に対する言い訳の候補をいくつか頭に浮かべる。忍び足で敷居を跨ぐ。
首だけ伸ばして伺うと、思った通り、宗太郎の四角い背中が、縁側でどっかりと座り込んでいるのが見える。薬研で薬草をすりつぶしながら、小太りの物売りと話しているところだった。丸っこい物売りと、固そうな印象の宗太郎の背中が対照的だ。薬草の渋い匂いが充満している中、父は寡黙に物売りの話に耳を傾けている。後ろに縛った枝毛だらけの父の蓬髪が、薬研を押し込むたびに、規則正しく揺れる。
「また夜鷹が一人落ちて死んじまったってよ。目明かしがあのあたりをうろうろしててよ、俺が悪いことしてるわけでもねぇのにどぎまぎしちまったよ」
物売りは、妙な抑揚のある声音をしていた。まくしたてるようなところは上方の風情を感じさせるかと思えば、一つ一つの言葉選びは奥羽以東の方言が混ざっている。津津浦浦を旅して歩いている内に自然と身についたものなのだろうが、喜之助はどうもこの男が苦手だった。
「『かごめ』だったか?」
薬研に青々しい草を一掴み追加し、平坦な声で宗太郎が聞く。
「知るかい、そんなこたぁ。でも、みんなはそう噂してるよな。客の取れねぇ”かごめ”の厄介払いだの、お奉行様が邪魔になった妾をヤっちまっただの。あんたはどう思う」
「さぁな。俺は薬さえ売れればいい」
「けぇ、薄情者めぇ。いくら商売相手だからって、少しくらい情が湧くだろうに」
「薬師は死にかけの奴らも相手にしなきゃならない。いちいち情に絆されてられるか。お上に隠れて朔日丸売ってやるだけ、十分だろ」
ごりごり、と薬がつぶされていく音に紛れて、物売りが「そんなもんかねぇ」とため息をつく。宗太郎は鬱陶しそうに、一瞥しながら口を開いた。
「あんたも余計な話をする前に、さっさと仕入れに戻ればどうだね。草を売る人間が道草食ってどうするね」
「へ、こりゃ一本とられたぁい」
物売りはそうして膝を叩くと、近くにあった籠を引き寄せて立ち上がり――喜之助と目があった。
「ありゃ、でかくなったなぁおんめぇ」
宗太郎はそこで喜之助の帰宅に気づいたのか、振り向いて目をつり上げる。「遅いぞ喜之助。もう日が沈む」、と宗太郎が重々しく言った。宗太郎の声音に怖じ気たか、物売りはぎょっとした顔をして「じゃあ、うまくやれよ坊主」と一言声をかけさっさと退散してしまう。ちぇ、調子のいい奴...と喜之助は内心舌打ちする。
「今夜注文が入った。約束まで時間がない。大升屋の先を越えた大橋に、件の客がいるはずだ。金を受け取って、この品を渡せ。言葉は交わすな。何を聞かれても答えるな。いいな」
宗太郎は懐から何かの粒を取り出すと、近くにあった小さな木の空箱にをそれを入れる。大粒なようで、喜之助の目の前にすっと差し出された瞬間に、ごろごろと大きな音を立てる。
「変な客だなぁ。こいつぁ何の薬?」
「お前は知らないでいい。約束の時間までわずかだ。早く行って帰ってこい」
それから宗太郎は一仕事終えた、とばかりに喜之助に背を向けて寝転がった。
「遅れたら晩飯はない」
「わかってるよ、父ちゃん。すぐに駆けていってくらぁ」
喜之助は慣れた手つきで、箱を風呂敷包みにすると、勢いよく駆けていくのだった。
★★★
物心つくころから、こんな生活だった。
父の宗太郎は、それなりに薬師として名を知られているらしく、寝食に困ったことはない。しかし、あまり褒められない稼業でもあるらしく、幼子の頃から住処を転々としてきた。お前の父親は妖術を使う、と謂われのない罵声を浴びて泣いたこともしばしばだ。
薬は効いても怪しまれるし、効かないと客は離れていく。父の口癖は「何事も中庸だ」ということだった。それはそうした生活から培われた思想だったかも知れないし、薬の調合を日々の糧とする薬師ならではの教訓だったのかも知れない。
ただ、中庸を座右の銘にするわりには、宗太郎は気むずかしすぎる。元々多弁な方ではないし、表情豊かなわけでもない。だから喜之助は、いつも宗太郎の機微を敏感に感じ取って応じてきた。一緒にいるとどっと気疲れするのだが、それがかかぁが出て行っちまった理由だろうと、喜之助は睨んでいる。
もう母親の顔は覚えていない。名前も知らないし、宗太郎も決してそういう話をしないので、このまま喜之助の「かかぁ」の記憶は薄れて行くばかりだろう。
ただ、どこかちょっとだけ丸っこい輪郭を、どっかの訛がある口調を、少しだけ思い出すことがある。へたくそな子守歌が、耳の奥で聞こえることがある。それで十分だと、自分に言い聞かせている。そうしなければ、つまらない仕事の手伝いなどしていられない。
「あーあさみぃな、こんちきしょうめ」
本当は、今日だってこんな寒い中、日も沈み駆けているのに使い走りで出かけたくなどなかった。遊びでもないのに、薄暗い道を行くのは心細くて仕方ない。先に待っているのは悪餓鬼仲間でもないし、知らない客相手かと思うと寒さで強ばった足が余計に重くなる気がした。
米屋の大升屋を通り過ぎると大橋はすぐだが、さすがにこの時間帯になると人通りは少ない。寒さに身を縮こませた旅の者、一仕事を終えたあと飲みに出かける若衆とすれ違ったが、他に通りを歩く者はいなかった。誰も彼もが、白い息を巻き上げながら、自分の体を抱えるようにしてうつむいている。川辺は寒さもとびきりで、思わず身震いする。
そうして、やっとのことでたどり着いたのは、町の終端に位置する大橋である。夜になると彼岸が暗闇に沈み見えなくなることから、「彼岸橋」と呼ばれている。近くには墓地があって、幽霊が出ると噂があるせいか、町なかにあったまばらな人気も、このあたりになると影も形もない。橋のたもとにもたれ掛かるように傾いだ柳の木が、ざぁ、と寒風に揺れているだけだ。
そして、擦れ合う柳の木の葉の隙間から、その女は現れた。
「あっ」
瞬間、喜之助は言葉を失った。というのも、女の体が暗闇に溶けて、首だけが宙に浮いたように見えたからだ。目をこすって見直せば、着物が夜と同じ漆黒に染められているだけで、女にはきちんと手足がついている。寒さをしのぐためか、頭から厚手の衣を被っていた。
彼女は喜之助の小さな叫声に気づいたのか、真っ白い華奢な掌を、ひらりひらりと蝶のように振って見せる。こっちにおいで、ということなのだろう。ぎこちなく頷いて近寄ると、その様子を不思議そうに見つめていた女は、くすりと笑ってこう言う。
「あんたが、百薬籠中の宗太郎? まだ坊やじゃない」
思ったより張りのある、若々しい声だ。見上げると、衣の下には青白いうらなり顔の女の顔。目の下にはうっすら隈があり、頬は少しこけているようにも見える。
「そ、」
宗太郎は父ちゃんの名だよ、と言い掛けて喜之助ははっと口に手を当てた。
客とは口を聞くな。父の言いつけだった。
女は黙り込む喜之助を後目に、帯の中から手ぬぐいを取り出した。促されて手に取ると、いつもよりずしりとした感触に喜之助はたじろぐ。中身を確認するまでもなく、宗太郎が指定した相場の倍額はあるだろう。はっとして見上げると、女は薄く紅を引いた形のいい唇に、そっと人差し指を当てていた。
「秘密に」
女は静かにそう言って、喜之助の頭を無造作に撫でた。その瞬間、女の体から薫った芳香は何だったか。甘味のようでもあったが、胸が悪くなるような類の物ではない。鼻の先を人差し指でくすぐられたような、微かな香り。
喜之助が知るはずもないが、それは高級な伽羅の匂いだった。
「とと様に内緒でねこばばしても、ばれないよ。お駄賃にしな」
ぐしゃりと乱暴な撫で方が、むしろ気持ちがよかった。微睡みの最中に背中を撫でられる猫は、こんな心地なのだろうか。母親にちょっかいを出されてむずかる赤ん坊は、こんな心地なのだろうか......。
「また次の朔日の、戌の刻に」
女はそう言い残し、葉擦れ騒々しさに紛れて、彼岸橋の向こうに消えていった。
あとには、彼女の残した甘い香りと、ずっしりと重たい手ぬぐいだけが残った。
★★★
それから幾日か経っても、不思議と喜之助の鼻の奥には、あの独特な香りが残っていた。
「次の朔日の――」
女とは結局一言も話さずじまいだったが、昼間に悪餓鬼たちと徒党を組んで走り回っても、いつでも頭の片隅にはあの夜の約束のことがあった。
この日も喜之助は、朝早くから仲間の弥彦と連れだって、いたずらをして回っていた。近所の柿の木からちょいと実を二つばかり拝借して、神社の境内でくつろいでいた時のことである。
「なぁ、弥彦。次の朔日までは何日だ?」
盗んできた渋柿をひとかじり、顔をしかめて喜之助が聞いた。
熟した実をうまそうに頬張りながら、賽銭箱の中を木の枝でほじくっていた弥彦は、眉根をひそめ一瞥してくるかと思えば、くちゃくちゃ咀嚼音を立てながらこう返してくる。
「ん? おめぇ、昨日も同じこと聞いてきたよな。とうとう数も数えらんなくなったのか」
「馬鹿。そうじゃねぇよ」
「二十日後だろ二十日後」
「二十日後か......ふぅ」
喜之助の口からは、意図せずため息が出ていた。めざとい弥彦は、賽銭箱から喜之助に興味を移したようだった。木の枝をぽいと投げ捨てて、唇の端をつりあげた。
「なんだ、小遣いでももらえるのか。おれにもわけろや」
「違うやい。あれがそんなもんくれるタマかよ」
「じゃあなんだってんだ」
何、と聞かれると喜之助は言葉に困った。父親の仕事の手伝いというだけだし、楽しみにすることなどあるはずがない。大体、あの女とは会話を交わすことさえなかったのに。
「父ちゃんの手伝いだよ。小遣いがもらえるわけでもねぇ」
結局、そう返答する以外になかった。
「なんでぇ、つまんねぇの」
幸い、弥彦の追及はそこまでだった。先ほどのため息も、手伝いを疎んでのものだったと、勝手に納得してくれたようだった。
「そう、つまんねぇことさ」
弥彦に合いの手を打つように、喜之助はかじりかけの渋柿を投げ捨てたのだった。
★★★
岐路に立ち寄った表通りは活況だった。
まだ陽は中点をすぎた当たりで暖かいからだろうか、軒を連ねる商店には蟻の巣のような人だかりができて、押し合いへし合いしている。どこの商店も腕まくりをして、隣の店には負けまいと声を張り上げているのだった。
何の気はなしにぶらりと通ってみるには、この道は中々に楽しい。時折珍奇なおもちゃが安売りをしていることがあれば冷やかしたり、宗太郎の懐からくすねた小銭でこっそり買ったこともあった。
「ほらほら、寄った寄った! 見ていくだけでもいいよ。古着屋だからって侮るなかれ、この店の反物はぜーんぶ本町の大黒屋や通町の白木屋から譲ってもらったもんさ! 吉原の姉さん方も通ってくる一品だよ!」
はすっぱな調子で、ずいぶん若い店の娘が反物の切れ端を振り回していた。
その娘の売り込みの文句の威勢がよいものだから、興味はないのに、一目見てみようかという気分になって背伸びをしてしまう。
「おい」
そんな喜之助の頭に振ってきたのは、どすの効いた若い男の声だった。振り返る間もなく右腕をねじられ、髪の毛をむんずと掴まれてしまう。何事かと通りに店を構える主人たちが、呼び込みの声を止めてこちらの様子を伺う。若い娘たちは足早に去り、人波の絶え間なかった往来にぽっかりと穴ができる。
「この悪餓鬼め。うちの柿を盗りやがったな」
「し、知らねぇよ」
シラを切ったつもりだったが、情けないほどに声が震えている。抵抗しようと体をよじっても、ひねられた腕の関節がぎちぎち軋むだけだった。
「おめぇ弥彦の仲間だろうが。しらばっくれるな、毎度毎度なめやがって」
やったやらないの押し問答がしばらく続いたが、痺れを切らしたのは男の方だった。喜之助を投げ捨てるように地面に放る。
「埒が明かねぇ。痛めつけられねぇとわかんねぇみてぇだな」
尻餅をついた喜之助の胸ぐらを、男がぐいとつかみあげる。
苦しくて呼吸ができず、抵抗のしようがなかった。大人の男から向けられる敵意という物を、喜之助はこれほど恐ろしく思ったことはなかった。必死に空気を求めてあえいだ口からは、ひゅう、と小さい悲鳴がもれる。
「この盗人め。根性を叩き直してやる」
男はゆっくりと拳を振り上げ――
「御用聞きだよ! 御用聞きがおいでなすったよ!」
そんな叫び声が喜之助の窮地を救った。男は明らかに動揺し、胸ぐらをつかみ上げていた手を離してしまったのだ。御用聞きとは岡っ引きの異称であった。
「ちっ、面倒な」
しょっぴかれちまったらたまらねぇと、焦った様子で男は尻をからげて逃げていってしまった。
「大変だったね」
目の前にさしのべられた手を、喜之助はすがるように握り返した。柔い感触がしたのはそれが女の手だからだと、すぐに気づく。
色の白い、薄化粧の女だった。粗末な着物をゆるりと着流していて、真っ昼間だというのに眠そうな目をしている。買ったものだろうか、手には濃紺の反物を抱えていた。
「あんたの年頃は、みんな悪戯くらいするのにね」
女は苦笑いしながら、喜之助の着物に付いた土埃を払ってくれる。
「お、岡っ引きはまずいよ、おれぁ......」
「大丈夫、嘘だから」
「嘘?」
「しっ、まだだめ。まだあの醜男がうろついてるかもしれない」
そこで女は人差し指をそっと自分の唇に当てた。
喜之助ははっと目が覚めるような心地がして、その動作をまじまじと見つめてしまう。形のいい薄い唇。色白の肌に、少々痩せた体つき。そして何よりも、あくびが出てしまいそうになる甘い匂いがその証拠だった。
「あっ! あんた、あの夜の......」
言い掛けて、すぐに自分の口を塞いだ。
そんな喜之助の表情を見た女は目を丸くした後、肩を揺らしてけらけら小気味よく笑う。
「今は客じゃなくて、通りすがりの世話焼きさ。少しくらい話したって、罰はあたるまい」
女は、喜之助の事情などとっくに見抜いていたのだろう。だが、確かに考えてみれば今女と話したところで宗太郎に責められる謂われなどないのだ。むしろ、恩人を邪険に扱う方が罰当たりだろう。
喜之助は神妙に頷くと、女に手を引かれるままその場を後にしたのだった。
★★★
女の住まいは喜之助の住む長屋とは逆方向だったが、重そうに反物を抱え直す女を黙って見ているわけにもいかなかった。
「なあ、あんた病気なんだろう。それくらい持ってやるよ」
礼などいらないと何度も断られても、せめてそれくらいは、と喜之助は意固地にも食ってかかっていた。何度目かの攻防を経て、「ああ、負けたよ」と女は肩をすくめて反物を差し出してきたのだった。
「病気。病気、か......」
女は喜之助の危うい足取りを目で追いながら小さくつぶやいたが、その声は通りがかった鳥獣店の鳥の声にかき消されてしまい、喜之助の耳に届くことはなかった。
「どうしたんだ。姉さんの家、こっちなんだろう?」
喜之助が怪訝な面もちで振り返ると、女は鳥獣屋の店先に掲げられた鳥かごの中身を、ぼうっと見つめていた。
「鳥、好きなのかい?」
「あ? あぁ、そうだね......」
「こいつは文鳥かな。可愛らしいね」
「うん」
女が何かを言おうとしているのがわかって、喜之助はそれ以上言葉を続けなかった。文鳥にちょっかいを出すふりをして、横目で彼女の様子を伺った。
女はやがて、一つ一つの単語を選ぶように慎重に、こう切り出した。
「昔、鷹匠の演技をみせてもらったんだ。鷹匠、知ってるかい?」
喜之助が素直に首を横に振ると、女は懐かしむように目を細めながら、続きを話し始めた。
「鷹狩りの専門家さ。お城にお勤めしてるような人たちでね、それはすごかったよ。あの人らの仕込んだ鷹はね、地面に真っ逆さまに落ちるように獲物をしとめるのさ。本当に墜ちてしまうってくらいぎりぎりのところまで踏ん張って、自分の主人のための尽くす。忠義だね」
いや、むしろ男女の懸想に似てるのかも知れないね、と女は言う。
「その鷹はね、雛の頃に拾われたんだって。その昔、鷹匠が夜の森を歩いてたとき、その雛は巣穴から落ちたところを拾われて助けられた。食っていく方法は、全部その鷹匠から教わったんだろうねぇ。心から鷹匠のことを慕っていたのさ。
でも、そんな暮らしは長く続かなかった。その鷹は”病気”になって、うまい具合に飛べなくなったのさ。体が鉛のように重くなって、見てくれも醜くなった。鷹匠はその鷹に見切りをつけて、構わなくなった。狩りには他の鷹を連れて行くようになった」
文鳥は喜之助のことが気に入らなかったか、鳥かごの中でばたばたと暴れる。
もうこんなところから出て行きたい、という風に何度も翼を羽ばたかせるが、頑丈な檻からは出ることはできない。
女はその様子を、哀れむような、嘲るような、微妙な微笑みで見つめている。
「それで、最後はどうなったんだ」
「墜ちたよ」
「え?」
「だから、墜ちたのさ。自分がまだ飛べることを証明しようと思ったのかも知れない。ただの当てつけかも知れない。とにかく、そいつはもう一度飛びたいと、自分で檻の鍵をこじ開けた。そして、結局墜ちたのさ。夜の間に人知れず、その鷹は死んでしまった。
鷹匠の間にはね、そんな昔話があるんだって」
喜之助は思わず前のめりになって、反物を落としそうになってしまった。
「なんだそら。ろくでもないオチだな。落語にさえなりゃしねぇよ」
「うん、本当にね。つまらないオチだよ」
女がくちばしを撫でると、文鳥は落ち着きを取り戻したようだった。つぶらな瞳をくりくりと動かして、心地よさげにぴぃと鳴いた。その歌声に合わせるように、女は鼻歌を口ずさみ始めた。
かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる?
不思議そうに見上げる喜之助の表情に気づいたのか、女は照れくさそうに頭を掻いた。
「この話を思い出すと、いつも歌いたくなるんだ」
「何だか悲しくなる歌い回しだね。誰に教わったんだい」
「さぁ誰かなぁ。とと様か、かか様か」
女は後ろ髪を引かれたように文鳥から視線を外すと、ゆっくりと歩き始めた。
「まぁいずれにしろ、遠い昔の話しさねぇ」
いつの間にか傾き始めた太陽を、彼女は眩しそうに見つめている。
★★★
「ここまででいいよ、ありがとさん。すっかり遅くなっちまった」
女が歩みを止めたのは、天を衝く勢いでそびえる赤い大門の前だった。その赤門を一歩跨げば、猥雑な喧噪に満ちた表通りがずっと向こうの方まで延びている。その通りにそうように、橙色の提灯がいくつも軒先に掲げられ、夕闇の仄暗い薄墨の中にぼんやりと淡い光を放っていた。
そこは喜之助にとっては初めて訪れる場所だったが、異様な空気だということは肌でわかった。往来の人々はどこか浮き足立ち、そわそわとしている。着飾った女たちはしゃなりしゃなりと、猫のようにしなを作って歩き、それに見とれる男たちは、赤ら顔で何事かはやし立てている。
――通り全体が酔客のあくびのような、気怠い雰囲気に包まれているのだ。
「なぁ、本当にこんなところで? もっとついて行ってもいいけど」
「だめだよ」
ぴしゃりと言い放たれた拒絶の言葉に、喜之助は少なからず動揺した。親切心で言ったのに、なぜ叱られたのか理解できなかったのだ。
「ここから先は、来ちゃいけないよ。おうちにお帰り、坊や」
女は喜之助の肩から反物を引きはがし、喜之助を見下ろした。そのまなざしの中にはきっぱりとした拒否の意志があった。それまでの「坊や」とは違う響きを、その言葉は持っている気がして、喜之助は肩口を両手で突き飛ばされたような気分になった。
「おれ、喜之助ってんだ。坊やじゃないやい」
男らしく毅然と放ったつもりだったが、ふてくされた物言いになってしまった。それが余計に悔しくて、喜之助の目には自分自身でも意味の分からない涙が浮かぶ。
「ちゃんと男なんだね。悪かったよ喜之助」
女はくすくす笑って、またあの乱暴な撫で方で喜之助の頭に触れた。
「馬鹿にしてるわけじゃぁないんだよ。この暗さだ、とと様が心配してるだろうし、それにあたしとは次の朔日に会えるだろう。また例の薬を持ってきてくれるね?」
「代金さえくれりゃぁね」
ずずっと鼻をすすって、喜之助は精一杯の強がりをみせた。
「はは、違いない。喜之助はたくましいね」
「じゃあ、本当にここでいいんだな。帰っからな、おれは」
「うん。ありがとよ。気をつけてお帰り」
「ああ」
そうして大門に背を向け、走りだそうとしたその時である。
「一とせ、ってんだ」
女が自分の背中に向かって投げかけたその言葉が、人の名前であることに気づくまで、刹那を要した。振り返ると女はすでに門の向こう側に溶け込んでいて、どこにいるのかわからなかった。
★★★
小遣いで文鳥を買っていったのは、単なる思いつきだった。
宗太郎から小箱を受け取った時も、どてらの上から蓑を羽織った時も、わざわざずっと貯めていたへそくりを引っ張り出すなんて思いもよらなかった。
ただあの女、一とせの横顔を思い出した。記憶にあるかぎりの表情はすべて笑顔のはずなのに、どこか物憂げに伏せた視線。心からの笑顔をどこかに落としてきてしまったように、薄く隈のできた瞳を細めるあの不器用な微笑み......。
そんな一とせの嬉しそうな顔を想像したら、ずたぶくろに詰め込んだ小銭など大したことはないと思えたのだ。
そして、鳥獣屋から彼岸橋に向かう喜之助の両手には、鳥かごが大事そうに抱えられていた。籠の中の文鳥は何も知らないような顔つきで、不思議そうに首を傾げている。純白の羽の綺麗な鳥だ。なるべくその文鳥を傷つけないように、風呂敷包みはしっかり背負い慎重な足取りで約束の場所に向かう。
一月前よりも、この時期の戌の刻は寒く薄暗かった。だが心細さや億劫さが一片たりともない。草履で霜を踏みつけるのも、蓑がかさかさ立てる音も、喜之助の気分を高揚させた。一とせはどんな顔を見せてくれるだろう。喜んでくれるだろうか、褒めてくれるだろうか。
そうしてたどり着いた柳の下には、一とせの姿はなかった。
戌の刻であることには間違いはない。きちんと時間通りに来たはずなのに。名前を叫ぶわけにも行かず焦って周りを見渡すと、
「喜之助」
風切り音に聞き間違えそうなか細い声が、彼岸橋から聞こえた。よく目をこらせば、一とせは橋の中頃で欄干にもたれ掛かってうずくまっていた。
「なんだってこんなとこに。ねぇ、どうしたってんだ」
駆け寄って抱き寄せる。あまりの軽さに、思わず息をのむ。
「ちょっとね、気分が悪くて」
ただでさえ青白い顔が、悪寒のせいか血の気が失せてみえた。
「吐いたのかい」
「うん」
「『病気』のせいかい」
一拍おいて、「うん」と一とせは頷いた。
「でも大丈夫さ。気分はよくなった。もう、大丈夫」
彼女は肩を貸そうとした喜之助を手で制し、腹を抱えるようにして自力で立ち上がろうとする。何故か帯をずいぶん緩く締めているようで、着物が少しはだける。華奢な肉付きの太股がその隙間から露わになる。さっと顔を赤らめ、喜之助は何も言わずに視線を逸らす。
「そいつは何だい?」
喜之助の葛藤を知らずか、一とせは荒い息をつきながら鳥かごを指さした。
「こいつは......あんたにって、思って」
「あたしに? そうか、お礼のつもりか。いいのに、別に」
可愛いね、と一とせが籠の間から指を入れた時のことである。
「っ!」
文鳥はここぞとばかりに、くちばしで彼女の指先を突いた。突然のことで喜之助は手を滑らせた。鳥かごは大きな音を立てて橋の上に転がり、
そして白い文鳥は、暗闇を裂くようにぱっと羽を広げた。
美しい羽ばたきとは言い難かった。何度も落下しかけたし、その気になれば捕まえることだってできたはずだった。それでも二人はその場に固まり、溺れるように夢中で羽をばたつかせる文鳥を、ただただ見つめることしかできなかった。
「......け」
たぶん、あまりに無様すぎたからだ。そうでなければ、冷めた性格の一とせがそんな台詞を吐くはずもなかった。喜之助は目の前で起こったことが理解できず、口を半開きにして佇むしかなかった。
「行け! 飛んでいっちまえ!」
自分が突っつかれたことも忘れ、彼女は何度もその言葉を繰り返した。文鳥は川を越え、風に乗った。何度も墜ちそうになりながら、決して羽ばたくことを止めようとはしなかった。
そしてやがて白い翼は、遠い宙の一点になった。
「あの鳥、生まれて一度も飛んだことがないんだ。雛の頃から籠に入れられて。鳥獣屋のおっちゃんが言ってたんだ。なのに......」
「いいんだよ。あれでいいんだ」
姿が見えなくなってからも、一とせは文鳥を目で追っているようだった。惜別を表するように、あの歌を口ずさんだ。
籠女 籠女 籠の中の鳥は いついつ出やる?
やがて満足したのか、白い息を長くたなびかせて彼女は静かに歌い終えた。
そして喜之助に向き直り、真剣な表情でこう問うた。
「なぁ、喜之助。あんたは生まれてきてよかったって思うかい。かか様に腹を痛めてもらってまで生きてよかったって」
それは喜之助にとっては、思いも寄らない質問だった。あまりにも脈絡のない、唐突な問いかけのように感じた。意味も分からず、戸惑いの視線を返したが一とせは一歩も引かなかった。大事な宣告を待つ患者のように、じっと答えを待っていた。
「おれは......そうだね。父ちゃんが鬱陶しく思うこともあるけど、うん。楽しいよ。だからきっとよかったんだと――」
皆まで言えなかったのは、何かに口を塞がれたからだ。口だけではない、顔全体も胸も、一とせの腕の中に抱きしめられ、すっぽり収まっていた。
「ごめんな」
声がくぐもって聞こえるのは、抱きつかれているせいだけではない。
一とせは震えていた。何かに怯えるように、涙を流して。
「な、なんだよ。何のことだよ。何で謝るんだよ」
「ごめん、ごめんよ」
自分に向けられた謝罪でないことに気づくまで、相当の時間が必要だった。一とせは、その場にいる誰かに、見えない何者かに、懸命に謝っていた。
「あたしを許してくれ。そんなつもりじゃなかったんだ。もう取り返しがつかないかもしれない」
女は宛名のない謝罪を、幾度も繰り返す。
誰かに向けられたその言葉は、飛び立った文鳥の後を追うように宙に消えていった。