プロローグ
――哲学的ゾンビ、という言葉がある。
話は変わるが、人間は、周囲の反応を鑑みて、その状況状況で相手の考えていることや、感じている感情などを読み取る。
例えば夏。ヒマワリ畑でわーっと駆け抜けて振り返り、風に飛ばされそうな頭の麦わら帽子を抑え、微笑む。
この状況を見れば、彼女に対して人は、楽しそうだ、と感じるだろう。
しかし、哲学的ゾンビというものは。
この女性には全く楽しいという感情はなく、ただの精巧なアルゴリズムによって演じられているだけ、という――まあ、簡単に言えばこういうことだ。
客観的に何かを感じたとしても、彼らにはそんなものは一切なく、与えられた命令を、ただただ淡々とこなしているに過ぎない。
それが哲学的ゾンビである。
「……暑い」
俺は、アスファルト舗装された坂道で、制服の襟で仰ぎながら登る。
人の感情や行動とは、外部から与えられた刺激によって発現する。
それは、例えば周りの気温が高ければ暑いと思うということだ。
誰も寒いとは思わない。
この現状が、どうにも俺には、自分がゾンビであるように錯覚させていた。
……いや、実際にゾンビなのかもしれない。
目を向けると、既に校門を通り過ぎていた。
煩い蝉の鳴き声が、死ね死ね死ね死ねと言っているように聞こえる。
「煩い……」
鬱陶しそうに汗を拭いながら、俺は教室へと向かった。
そう言えば、この日は夏休みである。
入ってから半月ほど経った頃合いだ。
そろそろバイトでもしないと、親が真夏の蝉のように煩いということで、今日はその手続きに来たのだ。
この学校では、バイトするには学校で手続きを踏まなければならない。
だからここに居る。
俺が席につくと、予めアポを入れておいたお陰か、すぐに担当が来る。
俺は、ちゃっちゃと手続きを済ませると、担当にそれを手渡した。
「……君、本当に面倒くさがりだよね」
四角い縁無しメガネに、白髪の少し混じったオールバックの教員が、用紙に視線を落としながら言う。
「特技とかないの?
好きなこととか、続けてる事とか」
「無いです」
好きなことは、この世の中にはない。
強いて言うなら、ラノベを読んで、少し妄想に耽るくらいか。
だが、そんなことを言っても仕方がない。
担当教員はため息をつくと、そうかいと一言頷いて、紙をファイルに仕舞った。
「それじゃ、手続きはこれで終わりだから。
あとは好きにしていいよ」
彼はそう言うと、ネクタイを緩めながら教室を後にした。
⚪⚫○●⚪⚫○●
バイトの面接が決まった。
結果は、そんなに良くなかった。
何故だめなのか、それを聞いてみたところ、君には個性がない。面白くない。というものだった。
(悲惨だなぁ……)
そんなもの、どこも同じじゃないか。
ていうか、たかが飲食店で求められる事だろうか。
そういう組織なら、もういっそゾンビだけで構成したほうが指揮は楽な気がするんだが。
そんな抗議はぐっと飲み込んで、俺は家路につく。
「……面白くない」
ポツリ、と呟く。
夜空は雲に覆われ、まるで俺の心を映しているようだ。
「……死ぬか」
生きているだけ、つまらない。
何の変化もないし、求めようともしない。
それは一重に面倒くさいからだが、そんな事はどうだっていい。
「死ぬなら、せめて誰かを助けて死にたい」
自殺、と思われない死に方なら、それくらいしか思い浮かばない。
だが、そんなチャンスは滅多にやって来ないのだ。
「そして死ぬなら、どうせならここではない何処かに生まれ変わりたい」
ふと、見上げた頬に水滴が落ちる。
どうやら雨か降ってきたようだ。
別にそういう気分でもなかったのだが。
やはり天候は人の心を映すというのは迷信なのだろう。
信じている奴は少ないかもしれないが。
そろそろ急いで帰らなければ。
そう感じた俺は、前を向いて目先の信号を目指す。
そこには、点滅する青い信号と、そこへ飛び出してゆく一人の少女。
(そんな偶然、あるわけないが)
少しばかりの期待を抱いた俺は、周囲の状況を見る。
その時は本当に、本気であんなことを考えていたわけではなかったのだが。
「……――!?」
ズザーッ、と激しくなった雨の中、水溜りを激しく空中へ舞い上げながら迫るトラックが、少女の方へと滑り込んでいくのが見える。
その時、俺に天啓が下った。
――助ければ死ねる。
俺は、衝き動かされるようにして、その少女の元へと駆けた。
彼我の距離は、約十メートルほど。
(死ぬ……!)
本気でそう感じた。
聞こえないクラクション。
眩しいヘッドライト。
白黒が反転した世界。
巨大な金属の塊。
俺は全力で少女を蹴り飛ばした。
屈んで投げる暇などない。
それだけ一瞬の時間だったのだ。
「うわっ!?」
少女が小さな悲鳴を挙げ、水溜りを跳ね、バウンドする。
それを確かめた俺は、安堵の心を持って、迫り来るトラックに接触した。
「――」
――ダン!
重い音が、交差点に響き渡る。
衝撃が全身を伝い、意識が遠くなる。
軈て空を舞った俺の体は、驚いて急ブレーキを駆けた対向車線のワゴン車に轢かれて潰れる。
既に、当時の俺に意識はない。
誰かが悲鳴を上げて、切り取られた世界に木霊する。
赤い血が、黒いアスファルトに流れ、雨に流されて黒く染まる。
しかしそれを俺が知ることはない。
次に気がついたとき、俺の目の前には大量に並ぶ亡者の列と、荒涼とした川岸が広がっているのみであったからだ。