07
受付で、主人は太い眉をしかめた。
分厚い綴りを放ってみせたが、そこにルカが受けるような依頼はない。
下級魔物の討伐、きのこ採取、竜の爪の採取、隣町への護衛、荷物の配達。どれもこれも、駆け出しの冒険者が担う内容ばかりだ。
おまえに任す依頼はねえよ。いつもの台詞を吐いた主人に、ルカは苦笑するしかない。
「た、助けてくれ! 誰か、はざまの森に……!」
荒い呼吸とかすれた声が、一瞬にしておだやかな空気を切り裂いた。
扉を壊す勢いで駆け込んできた冒険者は、その勢いのまま床へと転がる。割かれた袖からのぞく腕には深い傷があり、彼の装備をべっとりと血に染めていた。必死の様相と緊迫した声に、ギルドにいた人々は驚きながらも慌てて手を貸す。
主人が椅子から腰を上げた。
「落ち着け。なにがあった?」
「し、尻尾が長い、竜みてぇのが。二つ首で真っ黒い……魔法がぜんぜん効かねえんだ」
彼の肩に腕を入れたルカは、震える声に眉を寄せる。
双頭で黒い龍。
「神殿に呼び出された魔物と同じだ」
ルカに、勢いよく視線が集まった。
ルカだ。勇者だ。ちいさなざわめきがあったけれど、思案しているルカの顔を見て自然と口をつぐむ。妙な沈黙がギルドにおりた。誰もが、勇者の言葉を待っている。この事態をどうにかしてくれるかもしれない、この大陸一の剣士。
視線を受けて、ルカはゆっくりと首を振った。
支えた冒険者の体をゆっくりと椅子へとおろす。
「森の、どのあたりに」
「奥のほうだ。岩場の泉が近くに」
森の奥から町まで、人の足では時間がかかるが龍には翼がある。――時間がない。
ルカは内心で眉をしかめ、黒龍の姿を思い浮かべた。
「あれは魔法を吸収してしまう。でも、治癒魔法をあびせると、なぜか逆に作用するみたいなんだ。弱ったところで目をつぶして、ようやく倒した」
「そ、そんな」
治癒魔法を魔物にかけるなど、普通ならば思いつかない。
攻撃が効かないと焦る。自分たちの手持ちの技が少なくなるにつれて、その焦りは大きくなってく。そのときの恐怖は、ルカたちも味わったものだ。
「マスター、この依頼受けるよ」
ルカは受付まで行くと、目の前にならんでいた依頼書にさっとペンを走らせる。竜の爪の採取。そう呼ばれる実がとれる場所は――はざまの森。
「ルカ!」
「わたしもたまには竜の爪でも採ってのんびりするさ。ああ、あと、今言った黒龍の弱点、冒険者たちに広めておいて。次に出たとき、わたしがいるとは限らないから」
言いながらルカは自分の装備を確認する。軽装だが動きやすい旅装束。道具袋には困らない程度のものが補充してあり、今のルカには怪我もない。そして、背中には聖剣。
行ける。
行かない理由はない。
「馬鹿野郎っ! おまえが広めろ、約束だ。帰ってきておまえが直々に冒険者どもに話してやれ。そうじゃなきゃ行かせられない」
「確実に約束できることじゃないと飲めないなあ。でも、マスター。わたしが行かなくて、いったい誰が行くんだ。大丈夫、最善を尽くすよ」
この場にそぐわないくらい、ルカの心は凪いでいた。
妙に落ち着いている。だから、笑う余裕もある。自分でも不思議だったが、ルカは大丈夫だと主人にほほえみ、そして冒険者たちへ声を張った。
「悪いけど、魔法薬と回復薬を売ってくれないか。わたしはあまり魔力がないから、補充しながら戦わないと――」
言い終わらぬうちに、ギルドに居合わせた冒険者たちは道具袋をあさり始めた。これ使ってくれ。これも! ルカ、おれのも! あっという間にルカの手は薬でいっぱいになっていく。
苦笑を浮かべたルカは、薬を落とさないよう気を付けながら自分の道具袋の口を広げた。いくつあるのか数える暇もない。乱雑に袋に収めてその重さで量を予想する。
今度は胸元の内ポケットから財布を取り出す。険しい顔でルカを見下ろす主人に放った。
「みんなに分けて。言い値でいい」
「多すぎる!」
じゃらりと音を立てた財布は、上級魔石十個分の報酬がまるまる入っているはずだ。足りないことはないはず。
「釣りはいらない」
「ルカっ!」
主人の激しい恫喝にもルカは笑みを返した。
「わたしが時間を稼いでいる間に、戦える人たちをかき集めて。マスター、絶対はないよ。最悪の事態を想定しなくちゃ。町に黒龍が来たらひとたまりもない」
お願いします。丁寧に頭をさげてから、ルカは風の精霊の手を取った。
はざまの森は、王都から徒歩で一時間ほどのところにある。
奥に進むにつれ木々が深くなっているが、主に下級魔物の棲家であり、討伐に苦労するものは出没しないはずだった。
それなのに、黒龍が出たとなると事態は深刻である。
あの魔物は通常この大陸では生息していない。ルカたちが魔族と対峙したとき、闇の魔法によって呼び出されたものだ。魔王を消滅させたとはいえ、荒れた世界はまだ完全には戻っていない。なにかの均衡がくずれて、魔族の残党が出現してしまったと考えていいだろう。
ルカは精霊の力を借りて、森の中腹に降り立つ。岩場の泉があるのは、緑が生い茂り、木陰の色も濃くなっている森の奥。ここから気配を頼りに探すしかない。
自分にかけた隠蔽の魔法はとっくに解いてある。魔力が少ないから、よけいな浪費は避けなければならない。風の精霊に周囲の探索を頼んで、ルカは奥へと飛んでいく精霊を追って走った。
悲鳴と、木々をなぎ倒す音が聞こえる。
地を揺るがすような魔物の咆哮が響いて、木々の枝をバサバサと揺らす。人の悲鳴がかすかに聞こえたのに、ルカは走りながら手のひらに魔力をためた。火の精霊に呼びかけて彼らの力を凝縮させる。茂みから飛び出すと同時に、黒い大きな影に投げつけた。
ゴウッと激しい炎が柱となって燃え盛る。ギャアアアア! と低くひび割れた咆哮が響いた。
「今のうちに逃げて」
地面に転がっていた傷だらけの冒険者を背に、ルカは剣を引き抜く。ちゃきっと音を立てて構え、もう視線は黒龍からはずせない。
「で、でも」
突然の助けに、彼らはルカと黒龍とを見比べて戸惑った。ルカは切っ先を龍の咽喉元に向けたまま、精霊たちを呼び寄せて魔力をためる。ためながら背後に首を振った。
「早く。引き際を逃さないのが生き延びるコツだよ。わたしは三人守りながら戦えるほど強くない」
「ル、ルカさん」
ひとりで立ち向かうのは無謀だと、誰しもが思うほどの驚異的な力。
一瞬の気の迷いが致命的になる。だからこそ、早く彼らにはここから離れてほしかった。
「足に怪我は?」
魔力の底はつきているだろう。傷の治癒はおろか、転位魔法も使えないからこそここに残っていたはず。
ルカは風の精霊に炎をあおらせ壁を高くした。炎だけでは彼らの安全を確保できないと見て取り、土の精霊にシールドを張らせる。その間に背後の気配は、なんとか地面から立ち上がった。
「な、ないです」
「よかった。――できるだけここから離れるんだ」
ルカもう背後を気にする余裕はない。忌々しげに見えない壁に爪を立てる相手から目を離さないまま、水と光の精霊たちをありったけ呼ぶ。ルカの魔力では、それほど時間を稼げない。
ジュードがいてくれたら、と精霊に愛された魔法使いを思い浮かべたけれど、すぐに頭を振る。
自分が望んで、ひとりでいるんだ。そして自分でここに来た。そんなあまえは許されない。自分の魔力と、精霊たちの力で乗り切らなければ。
まっすぐと、黒龍を見上げた。
細い瞳孔がギョロリとルカを見すえる。ピンと、空気が張り詰めた。肌が痛むほど、魔力が集まっていくのを感じる。
冒険者たちは、そんなルカに声を震わせた。ありがとう! 勇者、ありがとう……! かすれた声が踵を返して駆け出したのと同時に、ルカはありったけの魔力を黒龍へとぶつけた。
鱗で覆われた尾も体も、普通の武器では刃こぼれするほど硬い。
振り下ろされる爪をはじきながら隙を見て治癒魔法を浴びせる。耳が痛くなるほどの叫び声に眉を寄せながら、苦し紛れにもう一度魔法をぶつけた。
ビュンと風を切って飛んできた尾を避け、道具袋から魔法薬を取り出してふくむ。そしてそのまま治癒魔法を繰り出して、攻撃の手をゆるめなかった。
攻撃は効いている。まだ致命傷とはいえないが、確実に黒龍は弱っている。
鞭のようにしなった尾がルカの急所を狙うのを、剣で受け流して地を駆ける。息が切れた。前肢の爪、しなる尾、双頭の牙と吹き出される闇をまとった炎。
ひとつを取っても苦戦するほどの強さがあるのに、そのすべてを一度に相手にしないといけない難しさにルカは歯噛みした。
今まで幾度となく強敵と言われた魔物を相手にしたのに、これっぽっちも余裕がうまれなかった。地面を叩いた強固な爪が岩をはじき飛ばしたのを、かろうじて避ける。剣を握りなおすルカは、怒り狂った龍が大きく口を開いたのにあわてて水の精を集めた。
すんでのところを、水の盾で炎をはじく。間に合った。思わずほっとした。
それが、よくなかった。
このときの黒龍のぎらりとした目が、脳裏に焼きついたような気がした。
その一瞬の安堵を、相手は見逃さなかった。矢が飛ぶように振り下ろされた尾が、ルカの腹を容赦なくえぐる。
槍を何本も束ねたような尾である。胸当を避けて殴られた腹は、服ごとルカの脇腹を裂いた。
なぎ倒されたルカは痛みと衝撃に悲鳴をあげた。戦うことが染みついた体は、咄嗟に受け身を取ったけれど、その先には砕けた岩があるところまで見る余裕はない。
「……っ!」
声にならない悲鳴が口をつく。
鋭く削られた岩が、軽装のルカの背を容赦なく傷つける。肩の骨が、砕けたのがわかった。吐き気がするほどの痛みが走り、思わずルカは地を転がる。
追い打ちをかけるように大きな足がルカの体をミシミシと音を立てて踏みつけた。骨が折れるのと内臓がぐちゃぐちゃになるのを自覚する前に、全身へ走ったひどい痛みに咽喉がかれた。込みあげた吐き気にされるがまま、熱いものが口からあふれる。金臭さと生臭さ。むせて息ができない。
生理的に浮かんだ涙がぼろぼろとこぼれたけれど、黒龍の双頭が真っ赤な口を向けているのがにじんだ視界でもわかった。
魔力の回復はできていない。回復魔法を打つほど残っておらず、魔法薬も――間に合わない。
ここで、終わるのか。主人は、冒険者たちを集められただろうか。怪我をした冒険者たちは逃げられただろうか。誰かが、かつての旅の仲間たちが、この事態を知ってくれただろうか。
ジュードは、ルカを探し回ってくれている彼は、きっと自分を追って黒龍のことを聞いたはず。彼がいるなら、大丈夫だ。そう、きっと、世界は大丈夫だ。ルカがいなくても。
謝ることができないのは、心残りだな。
黒い炎が陽炎をまとって揺らめくのを、ぼんやりと見つめる。ぽろりと涙が頬をつたったが、もうそれが痛みからなのか、なにからくるものなのかルカにはもうわからない。
「ルカっ!」
かすんだ視界に、黒い影が見えた、気がした。
自分を呼ぶ声はよく知ったもの。ああ、たとえ空耳だったとしても。最後の最後で、名前を呼んでもらえるなんて。必死に、駆けつけてもらえるなんて。
それだけで、ルカはうれしかった。幻だったとしても、うれしかった。
もうそれで十分だった。