02
ルカの気配がさっと空気を裂いていったのを感じて、ジュードは思わずまたたいた。
手にしていたイチジクの焼き菓子を皿に戻し、窓の外に視線を移す。明日までここですごしたあと、また旅の生活に戻ろうと言っていたはずだが。
さきほどマシューと表へ出ていったが、いい予感はしない。
唐突に手をとめたジュードに、レイチェルが首をかしげた。栗色のまっすぐな髪が、さらりと肩からこぼれる。彼女が口を開こうとする前に、マシューがひとり、戻ってきた。
三人からの視線を受けてマシューはガタッと音を立てて乱雑に椅子を引く。
「兄さん、ルカは?」
レイチェルのやわらかな問いに、マシューはきまり悪げに頭を混ぜた。
「出かけた」
「え? どこに?」
ジュードはふたりの会話にため息を押し殺す。これは、あまりよくない雲行きだ。台所にいたカイルも、いぶかしげな表情でこちらを振り返っている。
ジュードは嫌な予感に眉を寄せたが、なにも言わずにマシューの言葉を待つ。マシューは髪をくしゃくしゃにしたまま、誰とも目を合わせないで焼き菓子のカスが残った皿を見つめた。
「……ちょっと用事ができたってさ」
「ふぅん」
「そのうち戻ってくるから、おまえは気にするなよ」
腑に落ちないふうのレイチェルに、マシューはひらひらと手を振って話を終いとした。
誰もがなにかがあったと察したけれど、詮索はしなかった。言葉をのみこんだレイチェルとカイルをちらりと見てから、ジュードはそっとため息をこぼす。
こうなっては、この場でマシューが口を割ることはないだろう。幼馴染であるため、彼の性格はよく知っているつもりだ。しかたがない。
「レイチェル、砂糖を買ってくる。ほかに必要なものはあるか?」
突然の問いにレイチェルは二度またたいたが、すぐに目元をやわらげる。
「それなら、ミルクもたっぷりお願い。今晩はシチューにするわ」
「わかった。――マシュー、行くぞ」
有無を言わせず手を貸せと言えば、髪をくしゃりと混ぜたマシューが渋々と席を立つ。
そのままふて腐れた顔で外へ出ていく背中を見て、レイチェルが困ったように笑った。
「……ジュード、ありがとう」
「いや」
気にするなと手を振り、ジュードも居間をあとにした。
樫の木の下にたたずむマシューの背中に、ジュードは音もなく並ぶ。
木漏れ日が地面や服にえがいた斑を、さっと風がなでて揺らしていく。
「マシュー」
声をかけると、ようやくマシューは重たい口を開いた。
「しばらく、放っておいてくれって言われた」
「……おまえ、なにを言ったんだ」
ルカが人と距離を置くなんて言い出すのは初めてだ。素直で少し押しに弱い、勇者になった少女。
家族を失い、村も焼かれたルカが初めて村の外に出たときから、三人の旅は始まった。そのなかで、弱音をはいたことはない。いつも歯を食いしばって、こぼれてくる涙をぐしぐしぬぐっていたルカ。彼女が、自分から離れていくなんて。
「おれは、ただ、あいつにレイチェルたちのことを喜んでもらいたかったんだ」
高ぶる感情を抑え込むくぐもった声に、ジュードはため息をこらえた。
魔族となった精霊たちを使役していた、魔王。それを無にかえし、世界を救ったとされたのはひと月まえのこと。
それから今に至るまで、復興作業を手伝ったり、魔族の残党を倒したりしていたが、ルカはどこかぼんやりしていた。まだ胸のうちが複雑なのだろうとジュードは触れずにいたのだけれど、マシューには我慢できなかったらしい。
「マシュー。ルカは喜んでいただろう。ただ、複雑な思いがすることくらい、くんでやったらどうだ」
ルカの兄であるカイルも、マシューの妹であるレイチェルも無事に戻ってきたのだから、万事うまくいった。
よかったこれで元どおりだ。そこにふたりの結婚なんて祝い事が重なれば、めでたいことばかりじゃないか。そう、マシューが喜ぶ気持ちもわかる。しかし、やはりルカにとっては思うところがある。ジュードにはルカが必死に気持ちの整理をしているように見えた。
心配をかけないようにと、ぎこちなく笑ったルカの顔が思い浮かぶ。見知らぬ人々に勇者と讃えられ、世界を平和に導いた少女。
「だって、レイチェルが魔王だったのはもう前のことじゃないか。ほかでもない、ルカがとどめをさしたんだ。世界を荒らしたのだってレイチェルの意思じゃない。体を乗っ取っていた魔族のせいだ。そんなことわかっているはずだろ? なのになんで笑ってやれないんだよ。あんな嘘っぽい笑みが祝福なのか? あいつはもっと、花が咲くみたいに笑ってたじゃないか」
ジュードは、ため息をついた。今度は我慢する気もなかった。
この調子で彼はルカに詰め寄ったのか。そう思うと、ジュードは気が重くなる。実直で明るい彼だからこそ、旅の仲間も町の人々もよく慕っていた。けれども、時としてそれが裏目に出ることもある。
「マシュー」
「おれは――」
「ルカの笑みが嘘だと気づいてやれるのに、どうして気持ちをわかってやれない。……目の前で、ルカの父親を殺したのはレイチェルだ」
なおも言い募ろうとしたマシューをさえぎって、ジュードは声を硬くした。
はっとマシューが息をのむ。
大きく見開かれたマシューの瞳を、ジュードは感情を込めずにまっすぐと見つめ返した。
「闇の炎を服に放ち、悶絶しながら腕をもがれ、足をおとされ、気を失う寸前に痛みを快楽に感じるよう魔法で心を狂わせた。……あまりの快感に意識をなくせば腹を裂き、目をひとつずつくり抜きだし、そこでようやく魔法を解く。そのときの叫びが、レイチェルの高笑いが、耳から離れないのだと言って泣いていた」
「……まさか、そんな」
村を焼いたことは知っていた。その最中に家族を失ったことも。けれども、その詳細まではマシューは知らない。
あれは、まぎれもなく拷問であり、いかに苦しませて殺すかを追求して楽しんでいた。真っ青な顔でそうこぼしたルカも、レイチェルの兄であるマシューに事細かく話す気はなかったのだろう。
「レイチェルの意思じゃない。そんなこと、ルカだってわかっているさ。わかっていても、目に焼き付いた光景が消えるわけじゃない」
操られていたとはいえ、その光景を思い返せばレイチェルが家族をいたぶって殺していることには変わりない。
魔王とレイチェルは、表情も口調もまったくちがう。だから必死に、ルカはレイチェルを受け入れようとしていた。しているところだった。
ひねくれたところのない素直な少女は、勇者と呼ばれている今も変わっていないようにジュードには見える。必死に歯を食いしばって、前に進んでいた、ルカ。
「親も、村も奪われ、兄まで魔族に攫われて。必死になって旅をしたあの泣き虫な女の子を、マシュー、おまえは忘れてしまったのか」
よかれと思って黙っていたことが、こういう形で返ってきてしまうとは。ジュードは傍観に徹していたことを後悔した。
マシューがすべて悪いわけじゃない。だが、さすがにこうなっては黙っていられなかった。
「あいつは言いたがらなかったよ。でも、俺が言わせた。うなされて飛び起きて涙をこらえるあいつに、俺が無理に言わせたんだ。おまえが知らなくても当然だ」
「おれは」
真っ青なマシューをなぐさめる言葉もない。ジュードはマシューをさえぎって、静かに首を振る。
「おまえは、追うな。今のルカには刺激が強い」
「けどっ」
食いさがるマシューを、ひたりと見つめて黙らせた。今、マシューとルカどちらが心配かといえば、答えは明白。一秒たりとも無駄にしたくない。
「悪いが、俺も離脱するぞ。ふたりにはよろしく言っておいてくれ」
「ジュード!」
「ああ、砂糖とミルクを買って帰るようにな。今夜はシチューだそうだ」
それだけ言うと、ジュードは魔力を宿した踵で地面を蹴った。ルカを追うなら、早いほうがいい。彼女はもう限界だった。ずっと苦しかったはずだ。なんとか自分をだましてここまできた彼女の、その糸が切れてしまったなら。
どこにいるだろう。泣いているだろうか。涙をこぼすだけですんでいるだろうか。