01
兄とレイチェルが幸せそうにほほえんでいるのに、ルカは笑みを浮かべてから目を伏せる。
結婚しようと思う。そう言って、照れくさそうに笑ったふたり。
このひっそりとした村で、若い夫婦がうまれることは喜ばしい。それが村の祠を守る神官ともなればなおのことだ。
のどかであたたかな日差しまで、仲睦まじいふたりを祝っているように思える。幸せそうだ。幸せならいい。ほかに言うこともない。
一度はすべて燃えてしまったこの村で、こんなにやさしい光景が見られるなんて。きっと、誰もが思っていなかっただろう。陽だまりで睦まじく並んでいる兄たちから目をそらし、ルカはちいさくため息をついた。
手を伸ばしかけた紅茶は、すでにカップの底を見せている。淹れ直すね、と気を利かせてレイチェルが席を立つのに、ルカはかろうじて礼を言った。
「ルカ」
茶器が立てる音に混ざって呼ばれると、マシューと視線が絡んだ。
家の外を顎で示される。もう一度こぼしたくなったため息をこらえ、ルカはそっと腰をあげた。
お砂糖がもうすぐ終わってしまうわ。やわらかなレイチェルの声に、買い置きがなかっただろうかと戸棚に向かう兄。それをながめてから、ルカは外へと出て行くマシューへ続く。
水色の空にうっすら雲がかかっている。よい天気だ。
葉の隙間からそそぐ光に目を細めたルカを、樫の木の下で足を止めたマシューが振り返った。
「おまえ、なんだよその態度は」
底抜けに明るいはずのマシューは、視線を鋭くしてルカを見すえた。
樫の木はルカの家の前にある。そこからでも紅茶と菓子を運ぶふたりが窓越しに見え、遠目でも穏やかな時間がうかがえた。
視界の端でほほえみ合うふたりを見てから、ルカはわずかに目を伏せる。ため息を押し殺して、努めて言葉を吐き出した。
「別に、なにもないけれど」
口をついたのは思いのほか硬い声だった。それが自分の声なのだと、ルカはどこか不思議に思う。まるで感情がこもらない。自分は、そんな人間だったのだろうか。
木の葉のあいだから滑り降りてきた光の精霊たちが、きょとんと首をかしげてルカを見あげた。きらきらとゆれる輝きに、こたえてやることもできない。かといって、マシューと目を合わせることもできなかった。
淡々と答えて表情も動かせないルカに、マシューはますます眉を寄せる。
ルカの落とした視線は、彼の喉がゆっくりと上下するのを追うだけ。
「それがなにもないって顔か? 変な笑いはりつけて、時間が過ぎるのを待ってるだけじゃねーかよ。――そんなに、レイチェルが結婚するのが不満か」
滅多にないマシューの低い声に、ルカはやんわりと首を振った。ルカの目印である長い金髪がさらりと音を立てる。
マシューとは、仲がよい。それなのに、こんなにとがった空気をまとっていることが不思議なのだろう。顔を見合わせた風の精霊たちが、ルカの髪を代わる代わるなでたけれど、それにもこたえずルカは重い口を開いた。
「……不満じゃない」
「ルカ」
「ふたりが望んで一緒になるんだ。みんな喜んで、祝っているじゃないか」
兄が幸せになるのはうれしい。レイチェルはやさしく思慮深い女性だ。不満なんてあるはずもない。
村の人たちも、今まで一緒に旅をしてきた仲間たちも、口々に彼らを祝福している。人々には見えない精霊たちも、にこにこ楽しそうに飛び回る。
一度炎に焼かれたこの村で、闇の力がはびこったこの世界で、今はこうして笑っていられる。それ以上も以下も望むものはないんだ。そうルカは言っているのに、マシューは眉間のしわを解いてはくれなかった。
「周りはどうでもいいんだよ。おまえはどうだって言ってんだ」
彼はその性格をあらわすようにまっすぐと強い視線でルカをとらえる。はっきりとした意思が宿る、深緑の瞳。
ルカは、息がつまる思いがした。
マシューの強さに救われていたのはルカだ。力だけでなく、うちに秘める輝きも意思も、なにもかもが強いマシュー。彼なしでは、ルカは無事にこうして村へ帰ることができなかった。レイチェルも兄も、助けられなかった。
けれどもその強さが、今は自分に向けられている。それがルカにはひどくつらい。かろうじて、ルカは目をそらさずに答えた。
「わたしも、うれしいよ」
「ふざけるな」
それなのに。マシューの視線は鋭くなるばかり。
怒気を強めた彼は、ルカが言葉を重ねる前に一歩距離をつめた。息がくるしい。けれども、後ろにさがることはできない。まっすぐな瞳が、容赦なくルカを射抜いた。
「それが、うれしいって顔か? レイチェルは、好きで魔族に操られたわけじゃない。魔王になったわけじゃない。そんなこと、おまえが一番わかってるだろ。なのに、おまえの兄貴と幸せになるのが許せないって、腹のなかで思ってる」
「思ってない」
「だったら、なんで心から笑えないんだ。なんだよその顔。取りつくろっておめでとうなんて言われたって、レイチェルだってカイルだって喜べない。一番祝ってほしい相手は、おまえじゃないか。魔族からレイチェルを助けて、カイルを取り戻したおまえだ。なのにどうして、あいつらの気持ちをわかってやれないんだよ」
周りの音がなにもなくなった気がした。
マシューの言葉だけが入ってきて、それが石になって胃にたまっていくみたいだ。ああ、もう、だめだ。息がとまってしまいそう。
ルカは、ぎゅっと胸をおさえて声を絞り出した。
喉に見えない手がかけられているような苦しさに、必死に抗って言葉にする。そうしなければならなかった。
「うれしいと、よかったと思う気持ちは本当だ。そのつもりだよ。……だけど、マシュー。あなたからそう見えないなら、わたしは喜べていないんだろうね」
「ルカ」
無理だ。もう、本当に、苦しい。
もう、なにも聞きたくもないし、見たくもない。まわりに集まった心配そうな精霊たちに、大丈夫だと笑う余裕もなかった。
マシューの顔も見れなくて、ただただ、木陰にたたずむ自分のブーツに視線を落とす。泥がついて、皮もくたくたになった靴。自分にはお似合いだ。自然と自嘲的な笑みがこぼれた。
「わたしだって、祝いたいよ。心からふたりの幸せを願っている。……でも、そうだね。そうできていないのかもね」
ルカは、マシューの言葉を待たず踵を返した。無理だと、思った。この太陽のように熱くまっすぐな強さを前に、ルカには成す術もない。
勇者と呼ばれている自分が、ただのちっぽけな人間であると、ルカは十分承知していた。現に今、世界を救った勇者は、たったひとりの男の言葉から逃げたくて逃げたくてたまらない。そんな弱虫なのだと、どうして人々はわからないのだろう。
勇者だなんて、呼ばれるような人間ではないのに。
「ちょっと頭を冷やす。しばらく、放っておいて」
おい、と聞こえたマシューの声をさえぎって、ルカは風の精霊の手をぎゅっとつかむ。その勢いのまま、地を蹴った。
どこかへ行きたかった。ここではない、どこかへ。