その壱拾八
別段弭槍自体珍しい武器では無い。弓兵にとって近接された時の対処手段の一つとして弓に穂先を付けることは古来より行われていた手法の一つである。
ただし、名のある将が好んで使うような物ではない。所詮弭槍は弓で有り、本物の槍に比べればあらゆる点で劣る。事実、慶一郎が好んで使う近接武器は至って普通の十文字槍である。
武芸十八般を修めるのは扶桑武芸者の嗜みであり、大抵の兵法者がいくつかの武器を使いこなす。騎突星馳流は十八般全てを教え込む鷹揚真貫流程では無いにしろ、馬術以外に馬上から使いこなせる武芸を身に付ける事を推奨している。その為、ある意味で基本ともいえる太刀に戦場の花形である騎馬突進のための槍術や流鏑馬に代表される騎射の為に弓術を修めるものが多い。
慶一郎も師である与次郎と同じく槍術を主眼とし、遠間のために弓術を嗜んでいた。故に、二人の戦術はほぼ似たり寄ったりであり、愛用の得物である十文字槍を予選の決勝で鍛冶屋送りにされた以上、馬も槍も無い以上、師である与次郎の優位は動かせないはずであった。
ただし、遠距離戦とならば話は別である。
与次郎とて【旗幟八流】の当主で有り、流鏑馬をはじめとした騎射は御箱の一つである。しかし、慶一郎の弓術はその上を行った。息子であり現在最高の扶桑武者として名高い一色助三郎義晴ですら、事弓術に限定すれば慶一郎に及ばない。弓の技を競う行事で五月雨流の達人を抑えて危うく優勝しかける前代未聞の珍事を引き起こすほどの腕である。その大会が騎射であったならば間違いなく慶一郎が優勝したであろうが、平場の大会であったために当時まだ他流派には名も知られていなかった遠藤沙月が賜杯を賜ることとなった。
故に、現状騎乗しているとは言え、遠距離戦に持ち込まれた場合流石の与次郎でも不覚を取る可能性が生じる。それ故の近距離戦だったのだが、代わりの槍を持っていなかったことで油断した挙げ句がこの様である。




