その七
初代東大公頼仁はその盟友原宗一郎と共に稀代の婆娑羅者として名が知れた粋と風流を愛する男だった。流石に、伝統を重んじる朝廷に出仕する時はそれを司る一門の一人として我を強く押し出す真似はしなかったが、それ以外の場では洒落っ気を忘れなかった。
そんな彼でも、唯一どこでも意地を通したのが、父の形見であり、扶桑の国の伝来の神器でもある【鵺斬り】と呼ばれる小太刀の柄巻と鞘である。
当時、主上の護衛として佩剣したまま昇殿を許されていたが、流石に太刀を持ち込むのは自重し、【鵺斬り】を帯びていた。正装である衣冠束帯は位によって色から何から厳しく定められていた為、頼仁をしても遊ぶことは出来なかった。その分、【鵺斬り】の鞘を朱塗りにし、柄糸を色取り取りにして遊び心を貫いたのである。
それを見た彼の配下や、武官達が競って小太刀の柄巻や鞘に贅を凝らし始めたので、頼仁としても流石に何らかの行過ぎを感じたのか、功績を立てた者にのみ小太刀の装飾を許すこととした。以降、彼の配下で何かしらの功があった者に対し、恩賞と共に小太刀用の柄糸や、朱塗りの鞘の使用の許可を与えるようになった。配下の者はそれを喜んで使い、常日頃から持ち歩けない感状の代わりに、着飾った小太刀を見せびらかしたのである。
そして、西中原に移り住んでからは、柄糸の色により如何なる力を持っているのか、どんな功績を重ねてきたのかを一目で分かるように制度を変え、それを励みに武官は働くようになった。
「あれは上手いやり方であったものだよ。自分の真似をしたがる連中に、功を立てればそれを許したのだから、誰も彼もが目の色を変えて働き始める。何せ、立てた功績が形として見えてくるのだからね」
「小太刀自身も武官、武人として一人前にならなければ帯びることを許されない。文官にも似た制度がある。徹底した実力主義社会ですからねえ。まあ、ある程度家柄の補正はありますが、やろうと思えば冒険者になって【組合】に貢献して東大公家の民となり、そのまま東大公家内で位人臣を極めることも出来なくはないわけですからね。とは云え、人間の寿命では難しいでしょうが」