その九
しかし、この男は違う。何もかも違う。
数多の修羅場を抜け、南大公に認められ、先の東大公も今の東大公も十全の信を置き、中原最強の二つ名を乱世で相争うアルスラント皇国諸侯がただ一つの共通認識として恐れを抱くとまで言われたこの平崎兵四郎だけは扶桑武者八万騎の中でも別格であると戦場に立って初めて納得出来た。平時の兵四郎しか見ていなかったときは笑い飛ばしたが、今ならば一色与次郎が政治力を駆使してこの男を鷹揚真貫流の当主となる事を阻んだという噂話が真実であった事をまざまざと思い知らされた。戦場でのみ光り輝き本気を出す、然ういう武者なのだ。
「治国平天下なぞというクソにもならぬお題目を唱える糞虫共がッ! 黙って貴様らは儂を通さぬか! 所詮剣術など殺伐をする為のものぞ! 活殺自在など使い手の心得次第、剣で天下が定まるものかよ!」
常日頃は差し出口一つ唱えず、静かに黙々と仕事をこなすだけの男に見えたが、戦場では荒れ狂う颶風を想起させる。仮に、殺す気になって懸かってきていたら、自慢の翠緑縅大鎧は返り血でどす黒くなっていただろう。
何かに激昂しているとはいえ、誰一人たりとも殺していない辺りに怖ろしいまでの冷徹さを感じた。仁兵衛よりも慶一郎よりも何より東大公たる帯刀よりも真に注意するべきは平崎兵四郎、そう今ならばはっきりと分かる。
分かるが故に、新左衛門は驚くべき速さで逃げ出した。
「紫の紐を持つ癖に逃げるか、慮外者が! 戻って相手をせよ! 治国平天下の剣を儂に篤と見せ付けんか!」
纏わり付く玉光明鏡流の者達を引き剥がしながら、無理矢理前に進む兵四郎が絶叫する。
新左衛門は恥も外聞も無く、一度たりとも後ろを振り向かずに逃げ出すのだった。
後にこの闘わずに逃げ出した事が問題となり、玉光明鏡流は【旗幟八流】より外される事となる。後にも先にも紫の紐を帯びたものが勝負を挑まれて逃げ出したのはこれが最初で最後であった。




