断れなかった、その一度だけ
焦らしです。
「……ぽん」
乾いた音が、静まり返った室内の空気を鋭く震わせ、その余韻は逃げ場を失ったように、ゆっくりと壁へと吸い込まれていった。
向かい合う二人の手が同時に差し出され、その形が一瞬のうちに視界へ焼きつく。
チョキーナは、指を二本だけ伸ばした手――チョキ。
そしてパーダロの手もまた、まったく同じ形をしていた。
「……あ……」
喉の奥から、息とも声ともつかない音がこぼれる。
あいこ。
本来なら、それだけで終わるはずの結果。
だが、その場の空気はなぜか解消されず、行き場を失ったまま、重く沈んでいった。
「……ほら、止まるな」
パーダロの声が、間を与えずに重なる。
「あいこで、しょっ」
考える隙も、呼吸を整える余裕もないまま、流れだけが先へと押し出される。
チョキーナの手が、ほとんど反射のように動いた。
再び差し出された形は、やはりチョキ。
そして向かいの手も、寸分違わぬ同じ形。
「……っ、また……」
かすれた声が、わずかに震える。
二度目のあいこ。
「あいこで、しょっ」
さらに重ねられる声に促され、わずかに遅れながらも指が形を作る。
だが、結果は変わらない。
目に映るのは、またしても同じ形――チョキだった。
「……あぁ……」
吐息がこぼれる。
三度目。
わずかに顔を上げても、そこにあるのは変わらない光景。
何も変わっていないはずなのに、胸の奥で、押し込めていた熱がゆっくりとほどけ、抗えないまま広がっていく。
ここまでチョキーナは、ずっとチョキを出し続けてきた。
パーダロからの「チョキだけを出せ」という指示を受け入れ、それが身体の奥に残り続けているからだ。
チョキを出さない、という選択そのものが、完全に意識の外へ押し出されている。
そして、その状態を見越しているかのように、向かいの手もまた同じ形を保ち続ける。
終わらせようと思えば、いくらでも終わらせられるはずなのに。
それでもパーダロは、決して形を変えようとはしなかった。
まるでこの繰り返しそのものを、意図して引き延ばしているかのように。
(……どうしてなの……?)
理由はわからない。
終わらせることも、変えることもできないまま、同じやり取りだけが繰り返されていく。
その繰り返しが、わずかずつ形を変えて内側に積み重なっていく。
「ほら……まだだろ?」
低く落とされた声が、すぐ近くで響く。
「どうした、終わらせたくないのか?」
「……そんな……」
否定の言葉は弱く、頼りない。
呼吸が浅くなり、胸が細かく上下する。
「あいこで、しょっ」
再び差し出される手。
また同じ形。
同じ結果。
それでも、受け止める側の感覚だけが、確かに変わっていく。
「……あぁん……また……」
吐息が、わずかに甘さを帯びる。
終わらないことへのもどかしさが、じわじわと内側に広がっていく。
頬の熱は引かず、視線は焦点を失いかけ、呼吸だけが浅く乱れていく。
「いい顔してるな」
パーダロの声が、愉しむように響く。
「まだ足りないって顔だ」
「……違っ……」
否定は、形だけのものになりつつあった。
繰り返されるたびに、体はどんどんと熱を帯び、言い知れぬ心地よさが支配していく。
「ほら……もっと来いよ」
「……だめ……こんな……」
そう言いながらも、手は止まらない。
「あいこで、しょっ」
再び現れる、同じ形。
勝負を焦らされることへの、たまらないもどかしさ。
その積み重なりが、熱を帯びた汗となって、チョキーナの柔らかな拳の内側をゆっくりと濡らしていく。
「あっ……は……」
短く乱れた呼吸がこぼれる。
「どうした?」
「もう終わりにするか?」
その言葉に、チョキーナは顔を上げる。
「……いや……」
喉の奥から無理やり引きずり出すようにして、かすれた声がこぼれる。
そのとき、頭の中にふいに別の光景が蘇る。
グーダスと向かい合っていた、あのときの記憶。
初めての、そして一度きりの勝負。
そして――負けた。
あの瞬間の、胸の奥に残った満たされない思いが、いまこの場で再び呼び起こされる。
「……っ……」
指先に、思わず強い力がこもる。
(……勝ちたい……)
その思いは、どこからか突然生まれたものではなかった。
繰り返されるあいこの中で、少しずつ、逃げ場もなく積み重なってきたものだった。
終わらないやり取りに引き延ばされるたびに、胸の奥に溜まっていった熱。
それは気づかないふりをしていただけで、ずっとそこにあった。
そして――それが、ハッキリと形になって表れた。
(……だめ……こんなの……)
わかっている。
こんなふうに思ってしまうこと自体が、どこかおかしい。
それでも――
(……勝ちたくて……たまらないの……)
思考の奥から、思いがにじみ出る。
(……どうしよう……こんな気持ち、初めてなの……)
内側で膨らんだ衝動が、静かに理性の輪郭を溶かしていく。
「お願い……やめないで、続けて……」
気づいたときには、その言葉が口からこぼれていた。
パーダロがわずかに目を細める。
「……へえ」
「そんなに欲しいか?」
その問いにチョキーナは目を伏せて答えない。
それは無言の肯定だった。
「……あいこで」
「しょっ」
再び、二人はチョキを出す。
当然のようにあいこの連鎖は途切れない。
「……はぁはぁ……あぁ……」
チョキーナの呼吸は完全に乱れ、短く途切れる息が繰り返される。
抑えようとしても整わず、むしろ次第に荒くなっていく。
終わることのないあいこに引き延ばされるうちに、チョキーナの理性は気づかぬまま解けきり、もう元の形へ戻る余地すら残されていなかった。
(もうだめ……我慢できない……勝ちたい……)
その思いだけが、はっきりと残る。
「……どうした?そんな顔をして」
すぐ近くから、低く落ちる声。
「……言えよ、どうしたいか」
チョキーナは唇を噛みしめる。
羞恥と迷いは、まだ残っている。
それでも――
「……お願い……します……」
かすれた声が、止められないまま口からこぼれ落ちる。
「……一度でいいので……」
言葉を止めようとしても、もう止まらない。
「わたしを……勝たせて……ください……」
その瞬間、チョキーナは自分が発した言葉の意味を、遅れて理解する。
自分から求めてしまった。
勝ちたいと。
勝たせてほしいと。
「あ……」
恥ずかしさが、一気に身体へと押し寄せる。
(わたし……今……)
否定しようとしても、できない。
その言葉は確かに、自分の口から出てしまった。
その事実が、逃げ場を完全に奪う。
恥ずかしさが、直接身体へと響く。
膝が小刻みに震え、うまく力が入らなくなる。
(こんな……こんなこと……)
頭では否定しているのに、身体は正直だった。
体の奥がどうしようもなく熱を帯びて疼く。
その感覚に抗えないまま、握りしめた手のひらは汗に満ち、指の間にまでじわりと滲んで、その柔らかい肉を濡らしていた。
扉の外でその一部始終を見ていたグーダスは、ただ立ち尽くしていた。
止めなければならないとわかっているのに、足は動かない。
視線もまた、外すことができなかった。
握りしめた拳には、知らぬ間に強い力がこもり、その形は異様なほどに硬く張り詰めている。
抑えようとするほど、掌の奥で熱が膨らむ。
「……っ……」
わずかに息が漏れる。
止めたいのに、止められない。
ただ――体の一部を硬くしたまま、見続けることしかできなかった。




