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もう戻れない――奪われた、あの時間 。 ~あいつは、俺の前ではあんな顔をしなかった~  作者: 遠崎カヲル


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2/7

触れるだけのはずだったのに

NTR開始です。

廊下は昼間だというのにひどく静まり返っていた。


窓から光は差し込んでいるはずなのにその明るさはどこか鈍く、長く伸びた影が床に沈み込むように広がっている。

そのせいか歩くたびに響く自分の足音だけがやけに大きく感じられ、グーダスは無意識のうちに手にした書類を握り直していた。


「……資料室、か」


教授に頼まれたのは古い資料の保管と整理。

それ自体は取り立てて特別な用事ではない。


特別なのはその場所だった。


目的の資料室は普段ほとんど人が立ち入らない離れた場所にある。

人の気配のない空間へと向かうこの時間はどこか現実から切り離されたような感覚を伴っていた。


歩みを進めるだけの単調な時間の中で、グーダスは不意にあのときのことを思い出していた。


暗い部屋。

差し出された手。

そして――あの、じゃんけん。


思い出そうとしたわけではない。

それでもその記憶は指先の感触とともに鮮明によみがえり、胸の奥をじわりと熱くさせる。


「……っ」


思わず息が詰まり、足取りがわずかに鈍る。


そのとき――右手にわずかな違和感が走った。


意識したわけでもないのに指先がじわりと熱を帯び、内側へと引き寄せられるように動き出す。

掌の奥で何かがむくむくと膨らむような感覚が広がり、その流れに押されるように指が一本ずつ折れ曲がっていく。


気づいたときには手はすでに形を変え始めていた。


ゆっくりとしかし抗えない力でぎゅっと閉じていく。

柔らかかったはずの掌が内側から張るようにして硬くなっていく。


「……なんで……」


かすれた声が漏れる。


開こうとしても思うように開かない。

むしろ意識すればするほどその形はさらに強く確かに保たれていく。


握りしめられたその手はあのときと同じ――グー。


まるで、もう一度あの瞬間をなぞることを望むかのように、そのまま静かにしかしはっきりとした熱を宿しながら硬さを増していった。


ただ手を出しただけのはずだった。

それだけのはずなのにあのときの空気や互いの手を見つめていたあの瞬間の妙な高揚が、いまも身体のどこかに残り続けている。


心臓の鼓動がわずかに速くなっているのを自覚する。

あのときの張り詰めた空気と勝った瞬間に胸の奥を走ったあの感覚が断片ではなくひとつのまとまりとしてはっきりと思い出される。


「……もう一度……」


気づけばそんな言葉が口からこぼれていた。


「……もう一度、やりたいな……」


誰に向けたわけでもないその言葉はしかし確かな願いとして自分の中に残る。


チョキーナとあの静かな空間で誰にも見られずに同じように手を向け合って――。


そんな想像が浮かんだ瞬間、握り締めた拳がさらに強く、内側から押し広げられるように硬くなり、行為を求めるように、かすかに脈打つ。


やがて資料室の前にたどり着いたとき、グーダスはそこで足を止めた。


本来なら閉ざされているはずの扉の隙間からかすかな光が漏れていることに気づいたからだ。


(……誰か、いる?)


この時間にここに人がいるはずはない。

それでも確かに内側には気配がある。


疑問とともに胸の奥に小さなざわめきが広がる。


グーダスは無意識に息を殺し音を立てないよう慎重に扉へと近づくと、そっと手をかけてほんのわずかに隙間を広げた。

そしてそのまま中を覗き込む。


「……っ」


視界に入った瞬間、息が止まる。


そこにいたのはチョキーナだった。


細い肩と見慣れた立ち姿、その後ろ姿だけで誰なのかは一目でわかる。

そしてその向かいに立っているもう一人の男――見覚えのあるその姿にグーダスは心の中で名を呟く。


(……パーダロ……?)


二人は向かい合っていた。


距離は近く、その配置はあまりにも見覚えがあり、つい先日自分が同じように立っていた光景と重なって見える。


その事実を認識した瞬間、グーダスの胸の奥で何かが強く打ちつけられた。


「……あの、パーダロさん」


チョキーナが小さく口を開く。

その声にははっきりと戸惑いが混じっていた。


「やっぱり……こういうのは……困ります」


視線を伏せたまま、それでもはっきりと拒む言葉だった。


その声を聞いた瞬間、グーダスの吸いかけた息が止まる。


(……断ってる……)


胸の奥に、わずかな緩みが広がる。

張りつめていた感覚が、ほんの一瞬だけほどけた。


だが――


「困る、ねえ」


パーダロは軽く肩をすくめながらどこか余裕を含んだ声でそう返し、拒絶そのものを受け止める気配すら見せないままわずかに体を前へと傾ける。


「……でもさ、お前」


靴の先が床をわずかに滑り半歩分だけ距離が詰められる。

そのわずかな動きだけで二人のあいだの空気が押し縮められたように感じられた。


「グーダスとは、やったんだろ?」


その一言が発せられた瞬間、場の空気が変わる。


チョキーナの肩がびくりと跳ね、背筋が一瞬だけ強張り、顔が見る間に赤く染まっていく。


「……っ、どうして、それを……!」


声は震え、視線は落ち着かない。

隠していたものを突然暴かれたような反応だった。


扉の外でそれを聞いたグーダスもまた吸い込んだ息を吐けないままその場に立ち尽くしていた。


(……なんで……知ってる……)


喉の奥でそう呟きながらも視線だけは二人から外すことができない。


パーダロはわずかに口元を歪めると軽い調子のまま続ける。


「お前ら、ちょっとした噂になってるぜ。最近、明らかに雰囲気が変わったってな」


その言葉は軽く発せられているにもかかわらず確実に場の重さを増していく。


チョキーナは何も言えずただ視線を落として唇を強く結ぶ。

否定しないその沈黙がすべてを肯定しているようにも見えた。


「それにな」


パーダロはさらに一歩踏み込み距離を詰める。


「俺ももうすぐ卒業だろ?こうして顔を合わせるのも、あと少しだ」


その言葉は穏やかでありながら逃げ道を一つずつ塞いでいく。


「だからさ、卒業祝いってことで――、一回くらい、いいだろ?」


断る理由を削るような言い方だった。


チョキーナの指先がわずかに震え、そのまま動きを止める。

断りたいはずなのに言葉が出てこない。


その迷いがそのまま空気に滲んでいる。


「一回だけでいい。減るもんじゃないだろ?」


重ねられたその一言が最後の逃げ場を塞ぐ。


沈黙が落ちる。

長く、重い沈黙だった。


やがてその沈黙の底からかすれた声が絞り出される。


「……わかりました……一度だけ、です」


言葉と同時にゆっくりと手が持ち上がる。


指先はまだ震えており力が入りきっていない。

頬は赤く染まったままで視線は床に落ちたまま上がらない。


それでもその言葉にはもう拒絶の響きは残っていなかった。


「……じゃあ、いくぞ」


「……はい」


パーダロの呼びかけにチョキーナはためらいがちに小さく返事をする。

そして二人の手がゆっくりと向き合った。


扉の外でその一部始終を見ていたグーダスはただ動くことができなかった。


踏み込むことも声をかけることもできないままその光景を見続けることしかできず、胸の奥に生まれた言葉にならない感情だけが静かに、そして重く沈んでいった。

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