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もう戻れない――奪われた、あの時間 。 ~あいつは、俺の前ではあんな顔をしなかった~  作者: 遠崎カヲル


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ふたりきりの、はじめて

ふたりの初体験の話です

薄暗い部屋の中には、二人きりの気配だけが静かに満ちていた。

カーテンは固く閉ざされ、外界の光はほとんど遮られている。


わずかに落とされた照明が、互いの輪郭と表情をかろうじて浮かび上がらせ、その空間をどこか現実から切り離されたような密やかさで包み込んでいた。


「……本当に、ここでやるんだな」


グーダスは声を潜め、空気を乱さぬよう慎重に言葉を落とす。


「……はい」


向かいに座るチョキーナは、小さく頷いた。

その頬にはすでに淡い赤みが差しており、緊張と羞恥が入り混じった色を帯びている。


「……あの、誰にも……見られていませんよね」


「大丈夫だ。鍵もかけてある」


短く答えながらも、グーダス自身の胸の内もまた落ち着かない。

ただの行為であるはずなのに、なぜか妙に意識してしまう。


男女が向き合い、互いの手を差し出す――それだけのことが、この世界では人前で許されないものとされている。

その理由を深く考えたことはないが、今この場にいるだけで、その重みだけは嫌でも感じ取れてしまう。


「……初めて、なんです」


チョキーナがか細い声で言った。


「知識では知っていましたけど……実際にやるのは……」


言葉は途中で途切れ、彼女は視線を落とす。

その仕草だけで、どれほど緊張しているのかが伝わってきた。


グーダスもまた、胸の内で同じ言葉を思い浮かべていた。


――俺もだ。


だが、それを口にすることはなかった。

そんなことを素直に言うのは、男としてのプライドが許さなかった。


わずかに息を整え、視線を逸らしたまま、代わりの言葉を選ぶ。


「……変な感じだよな。ただ手を出すだけなのに」


「……はい」


短い沈黙が落ちる。

互いに視線を合わせきれず、それでも完全に逸らすこともできない。


その曖昧な距離が、かえって意識を強くさせていた。


やがて、グーダスはゆっくりと右手を持ち上げる。

節が目立ち、ややごつごつとしたその手は、いかにも力強く、男らしさを感じさせた。


それに応じるように、チョキーナも手を上げる。

細くしなやかな指先、柔らかそうなその手は、対照的に繊細で、どこか触れてはいけないもののようにすら思える。


グーダスは、その手から視線を外せなかった。


細く、白く、わずかに震えているその指先。

意識すればするほど、胸の奥がざわつく。


「……綺麗な手だな」


思わずグーダスの口から言葉が零れ落ちる。


「……えっ」


チョキーナの肩がびくりと揺れる。


「いや、その……女性らしいっていうか……見てると、なんか……」


言葉を探しながら、グーダスは視線を少し逸らす。


「……落ち着かなくなるな」


そう口にした瞬間、自分でもわかるほど、体の内側で何かが変わり始めていた。

心臓の鼓動とは別に、もっと深いところで、じわりと熱が集まっていく。


理屈では説明できない。

ただ、視線を向けるたびに、体の奥が反応する。


抑えようとしても、じわじわと膨らんでいくような感覚。

まるで、自分の一部が勝手に意思を持ったかのように。


「……っ」


わずかに息を呑む。


悟られてはいけない――そう思うほど、その存在感は強くなっていく。


「……そんなこと、言われると……」


小さく息を吐き、チョキーナはグーダスの手をちらりと見た。


「……私も、その……」


わずかに震える声で続ける。


「とても男らしくて……見ているだけで、少し……どきどきしてしまって……」


指先が微かに震え、緊張がそのまま形になっていた。


「自然と手が汗ばんで.....濡れてしまいます……」


そう言って差し出されたチョキーナの手は、ほんのりと艶を帯びていた。

指先から掌にかけて、うっすらと湿り気を含み、光をやわらかく受け止めている。


乾いたはずの空気の中で、その手だけがどこか熱を宿しているようで、触れればすぐにでもその温もりが移ってきそうな、しっとりとした質感を漂わせていた。


わずかに指を動かすたび、薄い膜のような湿り気が静かに揺れ、それがかえって、彼女の内側で起きている変化を物語っているようだった。


その言葉と光景が重なった瞬間、空気は一段と重く、熱を帯びる。


二人とも、それ以上言葉を続けることができなかった。

ただ、互いの手を強く意識するしかない。


そのままの状態で――


「……いきます」


チョキーナの声は、かすかに震えていた。


「……ああ」


グーダスも短く応じる。

鼓動がやけに大きく、耳の奥で響いている。


ほんの一瞬の間。

けれど、その一瞬は妙に長く感じられた。


そして――


「.....じゃんけん......ぽんっ」


二つの手が、同時に差し出される。


グーダスの手は、グー。

チョキーナの手は、チョキ。


「……あ」


小さな声が、重なる。


勝敗は、その瞬間に決していた。


――その刹那だった。


「……っ」


グーダスの息が、詰まる。


胸の奥で何かが弾けるように広がり、遅れて全身へと波のように押し寄せてくる。

心臓が一際強く打ち、その振動が体の内側を震わせた。


「……なんだ、これ……」


指先から背筋へ、そしてさらに深いところへと、熱が流れ込んでいく。


力が抜けるような、しかし同時に満ちていくような、不思議な感覚。

ほんの一瞬のはずなのに、その感覚だけが引き延ばされるように長く続く。


喉の奥がかすかに震え、グーダスの口から浅い息が漏れた。


「……っ、は……」


勝ったという事実が遅れて意識に浮かび上がるが、それを確かめるよりも先に、体の奥底から湧き上がる快感がすべてを満たしていく。


ただの勝敗のはずなのに――

その感覚は理屈では説明できないほど強く、じわじわと余韻を残しながら、ゆっくりと収まっていった。


一方で、チョキーナは自分の手を見つめたまま固まっている。


「そんな……あ……いや……っ」


かすれた声。

頬の赤みはさらに深くなっていた。


胸の奥に、鋭く細い痛みが走る。

まるで何かが静かに裂けたような、繊細で確かな感触。


思わず息が詰まり、指先がわずかに強張る。


「……っ」


声にならない吐息が、かすかに漏れる。


その痛みはすぐには消えず、内側に残りながら、ゆっくりと形を変えていった。

裂けたはずの奥から、じんわりとした熱が広がり、違和感を包み込むように満ちていく。


戸惑いの中に、わずかな安堵が混じる。


やがて痛みは輪郭を失い、代わりに静かな余韻だけが残った。

それは抗えないほど穏やかで、どこか甘さを帯びた感覚だった。


「……負け、ました……」


小さく息を整え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「初めてで、負けてしまった瞬間……胸の奥が、そっと裂けるみたいに痛くて……何かが変わってしまった気がしました」


ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、その感覚は消えず、静かに残り続けている。


「それでも……ちゃんと勝敗がついて……終わったあとは、どこかすっきりしていて……」


わずかに視線を上げる。


「……不思議と、気持ちよかったです」


一瞬だけ、グーダスの方を見る。


「……あなたと、じゃんけんができて……よかったです」


かすかに微笑みながら、言葉を続ける。


「……とても、幸せでした」


グーダスはその表情を見つめたまま、わずかに息を整え、


「ああ、俺もだ」


と、静かに答えた。


暗がりの中で、二人はしばらく何も言えずにいた。


たった一度のじゃんけん――それだけの出来事のはずなのに、その余韻は思いのほか長く、深く、二人の内側に残り続けていた。

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