第1章―3
「天秤の魔女……?」
サルトは頭の中にある自分だけの図書館を探索しているようだった。しばし瞳も動かさず、呆けたみたいに固まったままになる。かなり念入りに蔵書をめくっているのだろう。彼の所持する図書館はよほど広いと見える。
「はて……はじめて聞く名だ……」
やがて観念したみたいに、そうつぶやいた。
「黒の魔導士はご存じですか?」
ソラの言葉に反応したのか、ミレが顔をあげる。
「おじいちゃん、絵本に出てくる悪い魔法使いだよ。世界の半分を滅ぼしたの……」
ソラは意外に思った。ミレは本を読める境遇にいたということだ。もしかすると文字も読み書きできるのかもしれない。この世界の識字率は圧倒的に低い。限られた人間だけが知識を独占しているのだ。目の前の老人とその孫娘は、もしかすると元は裕福な家庭に暮らしていたのかもしれない。キャラバンで雑用の仕事をしているのには、何か特別な事情があるのだろうか。
「おお、懐かしいのう。そんな物語もあったのう」
「どうやら関係があるようなのです。その黒の魔導士と天秤の魔女とは――」
なにやら不穏な雲行きになってきた。急に辺りの気温が下がって鳥肌が立つ――。
残念ながら、そのような事態にはならなかった。むしろ、なるはずがないから、ソラは自分が引き受けている依頼を正直に打ち明けたのだ
黒の魔導士が実在していたなど、この時代、もはやひと握りの人間にしか知りえない事実であった。多くの人々にとって、今やその存在は昔話の――夜、眠る前に父や母が寝所で聞かせてくれる物語の――登場人物でしかなかったのである。それもとびきりの悪役として……。
「お前さん、マギアの依頼でって言ってたが、あの魔法学院のマギアのことかい?」
サルトとソラの会話が耳に入っていたマチェットが御者台から割り込んできた。
「だったら正式な依頼書があるんじゃないか?」
疑っているというよりも、そんなホラを吹きやがってと決めつけている調子であった。こんないかにも頼りげない若造が、世に名高いマギア魔法学院から依頼されるはずがないだろうと。
――バラディンの広場では誠実な奴に見えたんだがな……。
マチェットは自分の人を見る目が衰えたとは思いたくなかった。
その場の空気が悪くなっていきそうな中、ソラは平然と自分のズタ袋をガサゴソと探りだした。羊皮紙でできた一通の書状を取り出す。
「これを――」
にこやかにその書状を手渡そうとするソラに、マチェットは半信半疑の面持ちで手を伸ばした。しかし、受け取った羊皮紙の書面に目を落とすや、すっと真剣な表情に変わっていく。その場にいた誰もが、潮が引いていくように疑いが晴れていくのを感じとっていた。
「……確かに。間違いなく本物だ。ギルドで嫌というほど覚えさせられた印が押されている。しかし――」
間違いなくマギアの正規の書類であった。皆には教えられないが、もう一つマギアのものであることを証明する秘密のキーワードが文中に使われていたのだ。
マチェットは値踏みするような遠慮のない目でソラを眺めた。どうしてこんな青二歳が、という疑念がその瞳にはありありと表れていた。
「これを見せれば、簡単に他の馬車にも乗せてもらえたんじゃないか?」
マチェットは書状をソラに返した。マギアの名において、この書状を持つ者に最大限の協力を求む――そこにはそう書かれていたのだ。
「あんまり、こういうのを使うのには抵抗があるんです」
袋にその重要な書類を丁寧にたたんで片付けながら、ソラはまた人懐っこい笑顔ではにかんだ。
やがてキャラバン隊の車列が街道を左に折れた。これから南へと、渇いて痩せた砂と岩の大地に向かっていくのだ。




