第2章―12
書斎の壁の奥には、ある仕掛けが隠されていた。質量の定まったオブジェを三つ、飾り棚の決まった場所に配置し、経年変化の重量分、位置を微妙にずらしてやる。人には知覚できないレベルで台が傾き、金庫を破るときと同じように耳をそばだてていると、仕掛けが作動しだす音がするのだ。
極小のパイプがつながり、半永久的に劣化しない液体状の金属がタンクから流れ出ていく。その行き先は、本部に隣接する建物――ギルドが経営する娼館――の地下倉庫。錆びた排水溝の蓋に偽装された、秘密の部屋へとつながる扉の鍵が解除されるのだ。
マリルは本部の外壁から娼館の屋根に下り立ち、そこから音もなく裏庭に忍びこんだ。人気はない。普段から誰も寄りつかない場所だ。それもそのはずである。その裏庭は本部の建物につながる通路の役割をしていたが、ギルドマスターだけが通ることを許されていたのだ。本部に出入りする扉の鍵もギルドマスターだけが所持できた。
――親父と一緒に、何度ここを通っただろう……。
マリルは、父親に連れられて行き来したときのことを思い出していた。
はたして、この通路は何のためにあったのだろうか。目的は一つしかない。娼館との往来をするとなれば、自ずと答えは分かってくるはずだ。
だが、実はもう一つ、隠された目的がその通路にはあったのだ。それが人目につかず秘密の部屋へと侵入することであった。
マリルは中庭に面した娼館の裏口にそっと手をかけた。扉には鍵がつけられていない。誰でも自由に――ただし、娼館の建物を乗り越えて中庭に侵入できた者だけに限られるが――出入りできるのだ。
扉を少し開け、わずかな隙間から中の様子をうかがう。物音ひとつ取りこぼさないように耳をすませる。普段から地下倉庫に荷物を取りにいく以外に使われることのない廊下だ。そもそも、中庭の表向きの目的を知っている人間ならば近づこうという気にすらなれないだろう。当然のように人の気配はなかった。
マリルは廊下に忍びこんだ。迷いなく右手の方向に向かう。すぐさま、その突き当たりに地下倉庫へとつながる階段が見えてきた。下った先には地下倉庫の扉がある。もちろん鍵はかけられていない。
マリルは、まるで足裏に魔法でもかけられているみたいに、擦過音ひとつ立てず見事な足取りで階段を滑り下りていく。そして、それがあたかも最初からセットであったかのように、そのまま一連の動作として扉に耳を押し当てたのだった。
――中に人はいない……。
マリルは扉をそっと開け、慎重に倉庫の中に侵入した。腰に帯びた短剣に手をそえながら……。
つまりは、そういう覚悟であったということだ。
後ろ手に扉を閉める。中は真っ暗であった。だが、すぐにぽっと小さな明かりが灯る。マリルが携帯用のランプに火をつけたのだ。彼女にとっては、手元が見えなくともランプをつけることなど造作もないことであった。
――あそこだ……。
部屋の隅に錆びかけた排水溝の蓋が見えた。どうして立ち退かなければならないのかと、強情な老人のごとく動きそうにない。だが、マリルは知っている。書斎の仕掛けを動かせば、この蓋は開けることが可能になっているのだ。
――熟練の技をもった盗賊ならね……。
マリルは再びピッキングツールを取り出した。床と蓋のすき間に二ヶ所、同時に差しこむ。ツールの先端が自分の指先であるかのように、伝わってくる繊細な感覚を慎重に探りながら動かす。父親に仕込まれた高度な技術だ。
カチャリ――。
ひかえめな音が解錠を知らせる。蓋を開けると、さらに下へと続く階段が現れた。躊躇することなくマリルは進んでいく。
階段を下りきったところに、やはりと言うべきか、また鉄の塊のような分厚い扉が行く手をさえぎっていた。もはや説明するまでもない。その扉もマリルはあっさりと突破したのである。
誤解がないように言っておくが、ここまでの鍵の解錠は決して容易いものではない。高度な技術がなくては成し得ない類いのものばかりであった。幼い見た目に反し、マリルの盗賊としてのスキルはあまりに見事で洗練されていたのである。
その部屋は、古今東西の金銀財宝が真ん中の通路を避けるようにして左右の壁にまでうず高く積み上げられていた。だが、マリルはそんなお宝には目もくれない。
――こんなものは、ただの飾りだ……。
そして、罠が仕掛けられている。少しでもその財宝をくすねるようなまねをすれば、直ちに毒矢の餌食になるだろう。
マリルは通路の先を見つめた。壁に鉛色の金庫が埋め込まれている。
――あそこに……。
ギルドマスターの印章がある――。




