第2章―11
ギルド本部の最上階、四階通路の突き当たりにギルドマスターの書斎はあった。エストの町でも四階建ての建物はまれで、窓からの眺めは、権力者が愉悦にひたるには充分な景色であったろう。すなわち、全てのものを見下ろすことができたのだ。
代わりに外から中を覗かれないように、本部周辺の建物は周到に計算して配置されていた。さらに、窓から書斎に侵入されないために、外壁はねずみ返しの逆傾斜になっているという念の入れようだ。もちろん、指をかける隙間などあろうはずがない。
通路から書斎に侵入するのはリスクが高すぎる。マリルは最初からその選択肢を捨てていた。少女は、ソラの魔法によって作られた足場を頼りに外壁にへばりつき、今まさに書斎の窓へとよじ登ろうとしていたのであった。幸いにも彼女の姿を目撃できる者はいない。計算されつくして配置された周辺の建物が逆にあだとなり、通りにいる人間からはまさかの侵入者を見上げることができなかったのだ。
――誰も入ってこれないと高をくくってるから……。
窓には眺望の妨げにならないように格子がはめられていなかった。もちろん窓は施錠されていたが、マリルは腰袋から取り出したピッキングツールを窓枠のすき間に差しこみ、迷いのない手つきで数回かちゃかちゃと動かすと、いとも簡単に鍵は解除されたのだった。
その手際に満足する様子もなく、マリルは窓をそっと開ける。と、次の瞬間には、するっと音もなく部屋の中へと体を滑りこませた。
「……くそっ! あいつら――」
部屋に侵入したマリルは、思わず声をもらしていた。物色されたと、一目見れば誰でも分かる。書斎は隅から隅まで見事なまでに荒らされていたのだ。ギルドマスターの印章を探すのに必死だったのだろう。ギルドの連中の焦りが手にとるように伝わってくる。それもそのはずだ。印章を見つけられなければ、連中は自分の命を失うことになるのだから。
――あいつら、追いつめられている……。
ざまあみろとマリルは思った。そうであれば、この部屋の荒れようにも少しは目をつぶることができるというものだ。
――それにしたって、こんなに無茶苦茶に……。
いや、やはり納得などはできない。怒りの衝動を抑えた次に訪れた感情は、悲しみであった。あるいは寂しさであったかもしれない。
――いろんなことを教えてもらった……。
この部屋で、マリルは父から盗賊のスキルをはじめ様々な技術の手ほどきを受けたのだ。父に甘えられるのも、この部屋の中だけであった。
思い出と感傷がマリルの心をかき乱す。だが、それも束の間。マリルはきっと表情を切り替えた。
――約束通り、あいつは上手くやってくれているようだ……。
いかにも自分は無害ですよといった、のほほんとしたソラの顔を思い浮かべる。あんな裏表のない人間も珍しい。
――昨日の夜も、あたいの誘いにのってこなかった……。
マリルが今まで関わってきた人間の中で、目の前にぶら下げられた甘い誘惑に抗えた奴なんて一人もいなかった。だからこそ、マリルはソラのことをどこか好ましく……
――思うわけないだろう……!
信じられるはずがない。良い奴ぶってるあんな人間ほど、いざ土壇場になると必ず裏切るんだ。自分を捨てた本当の父と母と同じさ。あの誠実ぶった顔を見ていると、嫌悪どころではない、憎しみさえ覚えてくる。
――まあ、いいや……。
利用するだけ利用して、こっちから、はいさよならだ。
マリルは気持ちを切り替えた。あらためて書斎を見渡す。
ギルドの連中は、もちろんこの部屋を隅から隅まで調べたに違いない。確かに仕掛けはここにある。そう、仕掛けだけが……。
――印章はここにはない。秘密の部屋に隠されている……。
そして、その部屋に至る入り口も、実はここにはないのだ。
マリルは壁の一部が飾り棚状にくり抜かれている場所に近づいていった。床にはそこに飾られていたであろう装飾品が、腹いせに打ち捨てられていた。
――さすがに持ち出してはいないか……。
印章の手がかりとなるものは必ずこの部屋のどこかにある。勝手に持ち出してしまえば、もう二度と印章の在り処にはたどり着けなくなってしまう。連中はそれぐらいの頭を働かせることはできたようだ。
マリルは足元に散らばる装飾品の中から、水晶でできた球と大理石の立方体、そしてピラミッド状に削られた黒檀の置物を拾い上げた。それらを飾り棚に並べていく。耳を澄まして、それらの配置をわずかにずらしていくと、何処かでカチッと何かがはまる音が聞こえた。それは意識していなければ、気のせいと感じるまでもないほどの、ささやかな音であった。
――つながった……。
マリルはすぐに窓へと戻った。枠に足をかけ外に飛び出そうとする。早く目的の場所に向かわなければならない。だが、ふと後ろ髪を引かれるように足が止まり、マリルは部書斎を振り返っていた。
――ああ……ここには、もう二度と戻ってはこれないんだろうな……。
部屋をぐるっと見渡す。様々な品物、様々な場所、家具、それぞれに父親と過ごした日々の光景が重なっていく。それはまるで走馬灯のようであった。
――そうだ……。
もう、わたしは死んだのだ。
――あの幼かったネーニョはもういない……。
マリルは過去の自分と決別するように、思い出のつまったその部屋を後にした。
少女が振り返ることは、もうなかった……。




