第2章―9
少女は力尽きた赤子みたいにベッドに倒れ込んでいた。泥の底からはい上がってこれない、そんな深い眠りのようであった。
――うなされてはいない……。
幸いにも、見ている夢は悪夢ではなかったようだ。
少女を起こさぬよう、ソラは静かに食事の準備を始めた。
玉ねぎを薄くスライスしたものをベーコンと一緒にパンにはさみこむ。ずだ袋から取り出した小ぶりの鍋に、玉ねぎ、ベーコン、ジャガイモを厚めに切って入れ、革製の水筒から水を注ぐ。その上から、塩、胡椒を軽く振る。
――さて、どうやって火にかけるかな……。
床が石材なら、あらかじめ炎の魔法でその石床そのものを熱しておいて――あるいは幾つかの石ころを加熱することでも代用できる――そこに直接、鍋を置けばいい。
だが、この部屋の床は木でできていた。当然、火を焚いたり、炎や高熱のものを触れさせるわけにはいかない。ここは、炎の魔法で直に鍋を加熱するしかないように思われた。
ソラは片手で鍋を持ち上げ、その底にもう片方の手を上に向けてかざした。呪文を唱える。炎魔法フラーモが発動し、手から少し離れた場所、ちょうど鍋の底に当たる空間に炎の塊が生まれた。炎は断続的に発生し、徐々に鍋の中から湯気が立ち上ってくる。やがて沸々と煮立ってくると、食欲をそそるスープのにおいが部屋に充満していった。
そのにおいに誘われるように少女が目を覚ます。
「ちょうど良かった。ご飯にしよう」
ソラは自分の木皿に少女のサンドウィッチをのせ、器にスープをよそった。自分の分は、行儀が悪いとは思いつつ鍋から直接食べることにした。
「さあさあ、食べよう」
ソラはスープにスプーンを添え、ベッド横の小さなテーブルに少女の夕食を置く。自分はそのテーブルからイスを引き、少女から少し距離をとるように離して座った。
娘はちらちらとその食事をのぞいていたが、どうやら食べるのをためらっているようだ。
「大丈夫、何も変なものは入ってないって」
ソラは膝上にのせた鍋からスープをすくって飲んでみせた。
「ほら、大丈夫。温かいうちに食べようよ」
ソラは少女を待たずに、どんどん食べ進めていった。サンドウィッチも、がぶっと頬ばってみせる。
少女は、おずおずとスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。
――!
次の瞬間、少女は怒涛のごとく、一心不乱にサンドウィッチにかぶりつき、スープを飲み干していった。
ソラは満足そうに、その様子を見守っていた。
――あれ……?
不意に、記憶の片隅に何かひっかかるものがあった。
――こんな光景を、僕は前にも見たような気がする……?
幼い女の子に、自分は食事を作ってあげたことがある……。
――これも、失ってしまった記憶なんだろうか……。
そんなことをソラは考えた。しばらくの間、二人は何も話さず、黙々と食事を進めていった。
「ねえ、名前を聞いてもいい?」
少女が食べ終わりそうな頃を見計らい、ソラがそう尋ねた。
「僕はソラっていうんだけど」
「ソラ……」
その名を、少女は頭の中で反芻しているようだった。聞き慣れない名前であったろうが、彼女はその音の響きの意味を尋ねてこようとはしなかった。
「君の名前は? もし良かったらだけど……。教えてくれると嬉しいな」
少女はまた、あの値踏みするような目でソラを睨んできた。
――やっぱり無理か……。
野性のオオカミが人に懐かないことなんて分かりきっていることじゃないか――。
「マリル……」
しばらくの沈黙の後、ぼそっと少女がつぶやく。
「え……?」
信じられない――そう言わんばかりのソラの惚けた顔に向かって、少女はきつい口調で、今度は突き刺すようにはっきりと自分の名を言い放ったのである。
「君、君って気持ち悪いんだよ! あたいはマリル。意味なんて特にない。そこら辺のどこにでもいる、ただのメリルってんだよ!」




