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倭国大乱 〜『観測者』は転生し、全ての歴史を見届ける〜  作者: 明石辰彦
第ニ章

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第九十三話 無血の禅譲

輿から降り立った日御子が、担ぎ手たちに軽く目配せをした。

四人の男たちは深く頭を垂れ、輿を担ぎ直して後ろへと下がっていく。


「日御子……」


憎々しげに都萬彦が睨みつける。

共感覚を持つ日御子には、その悪意がどれほど濃く刺さるか……。

本来なら耐え難いほどの苦痛だろう。

だが日御子は眉ひとつ動かさず、まっすぐに兄を見据えていた。


「兄上……これまでです。皆の前で、わたしに王位を譲ると……宣言して下さい」

「ふざけるなよ、日御子。誰のお陰で、これまで自由な身分でいられたと思っているんだ」


何が自由だ。

散々、日御子の動きを制限しておいて。

都萬彦の勝手な言い分に、また怒りが込み上げた。


「はい……。日御子は、感謝しております。兄上に……」


都萬彦が一瞬ぽかんと口を開けた。

すぐに顔を歪めて笑う。


「まさか、お前が皮肉を言えるとはな。知らなんだぞ……」

「いえ、兄上……。父亡きあと、邪馬壹国をまとめ上げ、強くしたのは、兄上です……。それは、本当のこと……」


揺さぶりの通じない日御子に舌打ちし、都萬彦は顔を背けた。


「でも……ここから先は、わたしの役目……。わたしなら、血を流さずに……この戦を終わらせることが出来ます」

「お前はそれでいいのか。女王になったが最後、一生神殿の奥に閉じ込められ、老いさらばえていくんだぞ。諸国はお前を利用しているだけだ。皆が納得する、落とし所としてな」

「それで……多くの命が救われるなら……」

「日御子、お前の望みはどうした。自由に野山を駆け、見知らぬ土地を見て回るのが……お前の願いではなかったのか」


必死に都萬彦は、日御子の説得を試みている。

けれど、今の日御子には通じない。

彼女はもう決断した。

覚悟してしまった。


「違います、兄上。わたしは、争いを無くし、流れ続ける血を止めたい。そのためなら、どんなことでもします……」


日御子は揺るがない。

変わらない。

だからこそ、俺は……。


「それだけが、わたしのただ一つの願いです」


断固たる意志が、その言葉に宿っている。

都萬彦もようやく理解しただろう。

この世には、自身の利など考えず、力なき他者のために自らを投げ打つことができる。

そんな人間が、極稀に存在するのだと。


「わ、わかった。日御子。ならば俺はお前の言う通りにしよう。もう、いたずらに人を殺すような真似はせぬ。他国の兵の安全も第一に考える。お前にも好きにさせる。どうだ、これならお前も不服はないだろう。自由でありながら、お前の望む平和が手に入るのだぞ」


もう都萬彦はなりふり構っていなかった。

プライドをかなぐり捨て、日御子に懇願する。

だが、日御子は痛々しく都萬彦を見つめながら、首を横に振った。


「兄上、もう手遅れです……。何をしても、諸国はもう、兄上を王とは認めません……」


都萬彦の顔に失望の色が広がっていく。


「タケル。おい、タケル」


日御子を説き伏せる事を諦めた都萬彦は、その矛先をタケルに変えた。


「タケル、しくじったお前を処罰せず、目をかけてやったのは誰だ?俺に従うと言ったのは誰だ?今こそ、その恩と忠義に報いる時だ。持衰を俺から引き剥がせ。俺を逃がせ。タケル」

「都萬彦様……」


タケルの瞳が揺れる。

未だに都萬彦の命に、抗い難い力を感じているのだろう。

そして何より、タケルはまだ日御子の自由を守りたいと思っている。

その未練が、タケルに迷いを生じさせる。


「このままでは日御子は、人として、女としての悦びも知らぬまま、醜く老いていくんだぞ。お前の愛する女がそんなことになって、お前は耐えられるのか」


タケルの顔が紅潮する。

日御子の前で、突然胸の裡を勝手に晒されたのだ。

その羞恥と緊張は計り知れない。


だが、当の本人である日御子は、平然としている。


「勿体ないとは思わんか、タケル。美しい日御子が、誰の物にもならないなんて。なあ、タケル。俺につけ。そうすれば、日御子をお前の妻にしてやる。あの時の約束を果たしてやる」

「何を……」


この男は、どこまで人の気持ちをこけにすれば気が済むんだ。


「おい、タケル。耳を貸すな」


俺はタケルに叫んだ。

それ以上の声で、都萬彦がなおも言葉を続ける。


「俺に従えば日御子は守られる。しかも、この女をお前の物にできるんだぞ。神に近しき存在を、好きなようにできるんだ。男なら誰もが望むことではないか」

「もう、お止め下さい。都萬彦様……」


赤く染まっていたタケルの顔が、今度は青白くなっていく。


「想像してみろタケル。小綺麗な装束を剥ぎ取った日御子の姿を、肌の感触を。思うままに、この女を抱きたいと。ずっとそう思ってきたんだろ」

「やめろ……」


タケルの声が震える。


「お前の欲望を、俺が叶えてやる。日御子を好きなだけ抱かせてやる。だから俺に」

「いい加減にしろ、都萬彦」


俺は叫んだ。

殴り倒してでもこいつの口を閉ざす。

そう思って拳を振り上げた瞬間だった。


血走った目で、タケルが刃を振り下ろしていた。


いつの間にここまで近づいたのか。

都萬彦に気を取られ、気付くのが遅れた。


完全な殺意が込められた斬撃が、都萬彦の首めがけて吸い込まれていく。


都萬彦ごと地面を転がった。

刹那のずれで、タケルの剣が地に突き刺さった。

観測者補正の反応速度が無かったら、確実に都萬彦は殺されていた。


「やめろ、タケル。王殺しの罪を背負うつもりか」


尻をついたままの状態で、俺はタケルに叫んだ。

傍らでは都萬彦が、瞳孔を開きながら激しく呼吸を繰り返している。


「どけ、持衰。こいつは、日御子を……」


切れている。

都萬彦を殺すまで止まらない。

タケルの殺気が、それをはっきりと告げていた。


「やめなさい。タケル……」


静かに、だが鋭く、日御子がタケルに告げた。


「日御子……、俺は」

「もういい、タケル。都萬彦を捕らえただけで十分です……。わたしの在位の始まりを、血で汚すつもりか」

「申し訳ございません、女王」


声を震わせながら平伏し、タケルは縮こまった。

肩がわずかに揺れている。

日御子の前で醜態を晒したと、後悔と自己嫌悪に苛まれているのだろう。


「先王、都萬彦」


日御子が都萬彦に近づき、冷たく見下ろす。

先ほどまでの、妹として兄に向けていた眼差しではなかった。


王者として、勝者として、敗北者を見据えている。


「あなたの王座は、これまでです。この先はわたしが、邪馬壹国だけでなく、連合国の女王として、皆の上に立ちます……」


都萬彦は何も言わない。

ただ震えながら、日御子を見上げるのみだった。


日御子は都萬彦から視線を外し、ゆっくりと背を向けた。


「参ります。持衰、タケル。諸国に対して正式に、我が即位を宣誓します」

「承知致しました。我が女王」


拝礼しながら、俺は主君に答えた。


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