第九十三話 無血の禅譲
輿から降り立った日御子が、担ぎ手たちに軽く目配せをした。
四人の男たちは深く頭を垂れ、輿を担ぎ直して後ろへと下がっていく。
「日御子……」
憎々しげに都萬彦が睨みつける。
共感覚を持つ日御子には、その悪意がどれほど濃く刺さるか……。
本来なら耐え難いほどの苦痛だろう。
だが日御子は眉ひとつ動かさず、まっすぐに兄を見据えていた。
「兄上……これまでです。皆の前で、わたしに王位を譲ると……宣言して下さい」
「ふざけるなよ、日御子。誰のお陰で、これまで自由な身分でいられたと思っているんだ」
何が自由だ。
散々、日御子の動きを制限しておいて。
都萬彦の勝手な言い分に、また怒りが込み上げた。
「はい……。日御子は、感謝しております。兄上に……」
都萬彦が一瞬ぽかんと口を開けた。
すぐに顔を歪めて笑う。
「まさか、お前が皮肉を言えるとはな。知らなんだぞ……」
「いえ、兄上……。父亡きあと、邪馬壹国をまとめ上げ、強くしたのは、兄上です……。それは、本当のこと……」
揺さぶりの通じない日御子に舌打ちし、都萬彦は顔を背けた。
「でも……ここから先は、わたしの役目……。わたしなら、血を流さずに……この戦を終わらせることが出来ます」
「お前はそれでいいのか。女王になったが最後、一生神殿の奥に閉じ込められ、老いさらばえていくんだぞ。諸国はお前を利用しているだけだ。皆が納得する、落とし所としてな」
「それで……多くの命が救われるなら……」
「日御子、お前の望みはどうした。自由に野山を駆け、見知らぬ土地を見て回るのが……お前の願いではなかったのか」
必死に都萬彦は、日御子の説得を試みている。
けれど、今の日御子には通じない。
彼女はもう決断した。
覚悟してしまった。
「違います、兄上。わたしは、争いを無くし、流れ続ける血を止めたい。そのためなら、どんなことでもします……」
日御子は揺るがない。
変わらない。
だからこそ、俺は……。
「それだけが、わたしのただ一つの願いです」
断固たる意志が、その言葉に宿っている。
都萬彦もようやく理解しただろう。
この世には、自身の利など考えず、力なき他者のために自らを投げ打つことができる。
そんな人間が、極稀に存在するのだと。
「わ、わかった。日御子。ならば俺はお前の言う通りにしよう。もう、いたずらに人を殺すような真似はせぬ。他国の兵の安全も第一に考える。お前にも好きにさせる。どうだ、これならお前も不服はないだろう。自由でありながら、お前の望む平和が手に入るのだぞ」
もう都萬彦はなりふり構っていなかった。
プライドをかなぐり捨て、日御子に懇願する。
だが、日御子は痛々しく都萬彦を見つめながら、首を横に振った。
「兄上、もう手遅れです……。何をしても、諸国はもう、兄上を王とは認めません……」
都萬彦の顔に失望の色が広がっていく。
「タケル。おい、タケル」
日御子を説き伏せる事を諦めた都萬彦は、その矛先をタケルに変えた。
「タケル、しくじったお前を処罰せず、目をかけてやったのは誰だ?俺に従うと言ったのは誰だ?今こそ、その恩と忠義に報いる時だ。持衰を俺から引き剥がせ。俺を逃がせ。タケル」
「都萬彦様……」
タケルの瞳が揺れる。
未だに都萬彦の命に、抗い難い力を感じているのだろう。
そして何より、タケルはまだ日御子の自由を守りたいと思っている。
その未練が、タケルに迷いを生じさせる。
「このままでは日御子は、人として、女としての悦びも知らぬまま、醜く老いていくんだぞ。お前の愛する女がそんなことになって、お前は耐えられるのか」
タケルの顔が紅潮する。
日御子の前で、突然胸の裡を勝手に晒されたのだ。
その羞恥と緊張は計り知れない。
だが、当の本人である日御子は、平然としている。
「勿体ないとは思わんか、タケル。美しい日御子が、誰の物にもならないなんて。なあ、タケル。俺につけ。そうすれば、日御子をお前の妻にしてやる。あの時の約束を果たしてやる」
「何を……」
この男は、どこまで人の気持ちをこけにすれば気が済むんだ。
「おい、タケル。耳を貸すな」
俺はタケルに叫んだ。
それ以上の声で、都萬彦がなおも言葉を続ける。
「俺に従えば日御子は守られる。しかも、この女をお前の物にできるんだぞ。神に近しき存在を、好きなようにできるんだ。男なら誰もが望むことではないか」
「もう、お止め下さい。都萬彦様……」
赤く染まっていたタケルの顔が、今度は青白くなっていく。
「想像してみろタケル。小綺麗な装束を剥ぎ取った日御子の姿を、肌の感触を。思うままに、この女を抱きたいと。ずっとそう思ってきたんだろ」
「やめろ……」
タケルの声が震える。
「お前の欲望を、俺が叶えてやる。日御子を好きなだけ抱かせてやる。だから俺に」
「いい加減にしろ、都萬彦」
俺は叫んだ。
殴り倒してでもこいつの口を閉ざす。
そう思って拳を振り上げた瞬間だった。
血走った目で、タケルが刃を振り下ろしていた。
いつの間にここまで近づいたのか。
都萬彦に気を取られ、気付くのが遅れた。
完全な殺意が込められた斬撃が、都萬彦の首めがけて吸い込まれていく。
都萬彦ごと地面を転がった。
刹那のずれで、タケルの剣が地に突き刺さった。
観測者補正の反応速度が無かったら、確実に都萬彦は殺されていた。
「やめろ、タケル。王殺しの罪を背負うつもりか」
尻をついたままの状態で、俺はタケルに叫んだ。
傍らでは都萬彦が、瞳孔を開きながら激しく呼吸を繰り返している。
「どけ、持衰。こいつは、日御子を……」
切れている。
都萬彦を殺すまで止まらない。
タケルの殺気が、それをはっきりと告げていた。
「やめなさい。タケル……」
静かに、だが鋭く、日御子がタケルに告げた。
「日御子……、俺は」
「もういい、タケル。都萬彦を捕らえただけで十分です……。わたしの在位の始まりを、血で汚すつもりか」
「申し訳ございません、女王」
声を震わせながら平伏し、タケルは縮こまった。
肩がわずかに揺れている。
日御子の前で醜態を晒したと、後悔と自己嫌悪に苛まれているのだろう。
「先王、都萬彦」
日御子が都萬彦に近づき、冷たく見下ろす。
先ほどまでの、妹として兄に向けていた眼差しではなかった。
王者として、勝者として、敗北者を見据えている。
「あなたの王座は、これまでです。この先はわたしが、邪馬壹国だけでなく、連合国の女王として、皆の上に立ちます……」
都萬彦は何も言わない。
ただ震えながら、日御子を見上げるのみだった。
日御子は都萬彦から視線を外し、ゆっくりと背を向けた。
「参ります。持衰、タケル。諸国に対して正式に、我が即位を宣誓します」
「承知致しました。我が女王」
拝礼しながら、俺は主君に答えた。




