第八十九話 卑弥呼
丘を登り神域を抜け、神殿の前へと辿り着いた。
神殿を守護するかのように、10名ほどの兵が立ち塞がっていた。
天照隊。
日御子を守るために存在する兵たち。その一部だ。
中央には、その隊長タケルがいる。
「持衰、何でここに。お前はいま前線のはずだろ」
「日御子に会いに来た」
タケルの問いには答えず、そのまま押し入ろうとする。
「待て。要件は何だ。何でこんな時に日御子に会う必要があるんだ」
俺の様子と、今のこの状況からタケルが何かを察したのだろう。
兵たちとともに道を塞ぐ。
「どいてくれタケル。俺は御子様から、神殿への出入りを許されている」
「先にここへ来た目的を聞いてからだ」
それを言えば、お前は本気で俺と日御子を会わせないようにするだろう。
だが、タケルはすでに一歩も引く様子がない。
強引に中へ入るか。
そう思った時、神殿の入り口に垂れ下がった白布が、ふわりと揺れた。
巫女たちが外へ出てくる。
その中から現れたのは、当代御子である於登。
そして――
日御子だった。
タケル以外の天照隊の兵たちが、一斉に跪く。
「日御子……」
タケルが振り向き、驚愕を露わにする。
日御子に気を取られたタケルを押し退け、俺は前へと進み出た。
「おい、持衰」
追いかけようとしたタケルを、日御子が手を上げて制した。
背後でタケルが足を止める気配がする。
日御子の前に立つ。
顔を伏せて目を閉じ、大きく息を吸う。
済まない、日御子。
もう少しだけ……、君に時を与えたかった。
目を開けて日御子を仰ぎ見る。
琥珀色の瞳が、俺の姿を、心を、映している。
微かに、日御子が頷く。
俺を励ますように、後押しするように。
日御子はもう、理解している。
なぜ俺が、ここに現れたのか。
地に膝をつけ、ゆっくりと頭を垂れる。
それは主君に、神に対して行う礼。
「お迎えに上がりました……我が女王」
控えていた巫女と兵たちの間に、動揺が広がっていく。
於登は、諦めの混じった苦しげな顔をしている。
ただ一人、日御子だけが冷静に、全てを受け入れていた。
「ふざけるなよ、持衰」
タケルが俺の元へ駆け寄り、衿を掴んで強引に立たせる。
その目には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「日御子が女王だと?何を言っているんだお前は。なぜお前がそれを言うんだ」
タケルは俺の身体を激しく揺さぶる。
俺は抵抗せず、なすがままにされていた。
「何のためにこれまで戦ってきたんだ。日御子のためだろう。日御子が生きたいように生きるために、俺たちは……。
その願いを、他でもないお前が壊すのか」
タケルの言葉に、日御子が悲しそうに顔を伏せる。
やめろタケル。
日御子のためだなんて言うな。
その言葉が、何より彼女を傷つけているんだぞ。
「黙れタケル。これが日御子の願いだ」
「そんなわけないだろ。日御子が王になりたいなんて……」
タケルの目が揺れる。
それでも、首を振って必死に否定する。
「タケル。日御子にこのままでいてほしいと願うのは、もう俺たちの我儘でしかないんだよ。
俺たちの都合のせいで、この国でこれから多くの人間が死のうとしているんだぞ」
「裏切ったのは奴国や他の連中だ。俺たちは関係ない!」
「違う。お前も分かってるはずだ。倭国には日御子が必要なんだ。
彼女でなければ、もうこの混乱を収められない」
「違うのはお前だ持衰。勝てばいいんだ。
そうすればこの国は治まる。日御子に背負わせる必要なんてない」
それじゃあ都萬彦と同じなんだよ。
タケルの言葉一つひとつが、容赦なく心を抉る。
俺だって、お前と同じ気持ちだ。
でも、俺はもう決断した。
この国のために。
人々のために。
なのにお前はいつまでも、子供のままで。
「もういい……。鎮まりなさい、タケル」
その言葉に反応して、全員が日御子の方を向く。
普段と同じく静かではあるが、いつもの彼女の話し方とはまるで違っていた。
それは、王が臣下に言葉を下すような、威厳に満ちた、有無を言わさぬ響きだった。
日御子の言葉に圧されたように、タケルの手が俺から離れる。
「サイ……」
日御子は首を横に振る。
「持衰。あなたの言葉の通り、わたしは邪馬壹国の……いえ、わたしを望むすべての国々の、御子であり、王となる存在になります」
「はい、女王」
俺は居住まいを正し、恭しく礼をした。
「まずはこの地にて、邪馬壹国の民へ宣誓を行います……。新たな王として立つ意志を、私の言葉で、人々に伝えます……」
「速やかに、その場をご用意します」
日御子は頷き、タケルに視線を向けた。
「タケル」
「は、はい」
声をかけられたタケルは、思わず膝をつく。
認めたくなくても、日御子はすでに“女王”としてそこに立っている。
タケルでさえ、もうそれを否定できないのだろう。
「天照隊は、今この時より天照軍となります。女王直轄の軍として、その規模を拡大します。タケルには引き続きその軍を率いることを、命じます……」
「……慎んで、お受けいたします」
タケルが深く拝礼する。
「持衰。正式な即位の儀は、兄上……いえ、都萬彦王から王の位を譲られた後にします」
「はい、女王」
臣下と王。
もう、これまでのような関係は許されない。
相応しい態度を取らねばならない。
そんなことを意識するまでもなく、俺は自然と頭を下げていた。
日御子は、俺の“演出”など必要としていない。
どこかで甘く見ていたのかもしれない。
やはり彼女は、王になるべくして生まれたのだ。
“歴史の強制力”に、女王・卑弥呼という役割を押し付けられてしまった少女。
それが日御子なんだ。
――女王・日御子、立つ。
瞬く間に王都中にその報せは広がり、ほぼすべての民が、その下へと集った。
丘の上の集落は人で溢れかえり、王都にわずかに残った延臣と兵たちでは、彼らを抑えることなどできなかった。
それどころか、兵たちの中にも日御子の側につく者が少なくなかった。
最後まで都萬彦に忠義を尽くそうとする者たちは、わずかな間だけ王都に留め置かれた。
「もう、大丈夫」
時折じっと空を眺めていた日御子が、ある日突然そう言って彼らを解放した。
何が大丈夫なのか。その意味はまるで分からなかった。
日御子が王として立つ意志を示したと知れば、都萬彦は軍勢を率いて押し寄せるだろう。
多くの民や連合諸国は必ず日御子の側につくだろうが、都萬彦の軍に抗する兵力を整えるには時間がかかる。
なるべく都萬彦の耳に入るのは遅らせたい。
けれど、俺は彼女の言葉に従い、拘留していた者たちを解放した。
不安はある。だが、俺は彼女を信じた。
数日後、都萬彦は1000以上の兵を率いて邪馬壹国へと現れた。
対してこちらは、わずか200にも満たない兵力しかない。
「やはり、こうなるか」
タケルと二人で高台に登り、はるか遠くに姿を現した軍勢を眺めながら、俺は呟いた。
「いざとなれば、俺たち天照軍がいる。一人で十人分の働きをする自信はある」
「それでも500人分だぞ、タケル」
「俺たちが持ち堪えている間に、お前が何とかしろ」
日御子を女王にした俺に対して、まだ完全には納得していない。
それでもタケルは、腹を括ったようだった。
「ああ、そうだな。責任は取る」
高台に降り立つ。
軍の出立は既に整っており、兵が整列している。
その先に民が左右に並んでいる。
兵たちを、そして新たなる自分たちの王を見送るために。
人々の顔には不安と怯えが浮かんでいる。
けどそれ以上に、強い希望の光がその目に宿っている。
日御子に対する絶対的な信仰心が、彼らにその光をもたらしているのだろう。
「他の国の連中だけでなく、邪馬壹国のみんなも、最初から日御子に王になって欲しかったんだな」
諦めと小さな怒りが、タケルの声に籠もっていた。
この時代の誰もが、日御子1人に縋り付くしかない。
その無力さに、身勝手さに、タケルは怒っている。
人々だけじゃない。自分自身にも。
その気持ちは、俺も一緒だ。
情けない。本当に。
巫女に囲まれて、日御子が現れた。
白い衣に、足下まである羽織。
縁は赤く染められている。
装飾品は管玉と勾玉で出来た首飾り。
その出で立ちは、まさに女王に相応しいものだった。
兵が跪き、民が平伏する。
俺とタケルは膝を付いて、正面から迎えた。
「では、参りましょう」
日御子が俺たちを見下ろしながら、静かに告げた。
「承知いたしました、女王」
立ち上がり、日御子に道を開けた。
ゆっくりと足を踏み出し、彼女が歩き始める。
その後ろに、俺とタケル、兵たちが続く。
民は平伏したまま、面を上げようとしない。
貴人が通りし時、人々は道を開け、両手を地につけてしゃがみ込む。
これがこの時代の、礼の表し方だった。
ほんの一瞬、日御子が足を止めた。
「母さん……」
母さんの小さな背中が、列の中にあった。
かつて母と慕った人が、他の人間と同じように自分に傅いている。
どんな気持ちで、日御子はその姿を眺めているのだろうか。
「行ってまいります……。母上」
小さな日御子のその言葉は、きっと母さんには聴こえていない。
でも、娘から送った母への思いは、必ず母さんにも届いている。
俺はそう信じたかった。




