第八十八話 母と娘
邪馬壹国を除く、北部連合軍の総数は、微々たるものだった。
邪馬壹国に対して反旗を翻した彼らは、自分たちが気づかぬうちに、その牙を抜かれてしまっていた。
圧倒的な兵数に加えて、鉄によって装備を固めた精鋭たち。
勝負になどなるはずはない。
連合軍は北部だけでなく、投馬国とも手を取り合い、邪馬壹国に抗した。
戦いの暗雲は、既に九州全土に及んでいる。
これから多くの人間が死んでいくだろう。
民衆の望みを無視し、都萬彦を王位に就けたために。
日御子の自由を守りたかったがために。
その事実に日御子は、絶対に耐えられない。
彼女の心を、悲しみで溢れさせ、粉々に打ち砕いてしまう。
彼女は確かに自由を望んでいた。けれど、誰かを犠牲にして得た幸福を、彼女は決して喜びはしない。
日御子を本当の意味で守るためには、もう一つしか手段はない。
それ以外の方法では、どこまでいこうと、どう足掻こうと、余計に不幸にさせるだけだった。
結局この時代は、彼女に残酷な結末しか用意していなかった。
俺は補給船に使用している中型船を、王都の入江に停泊させた。
俺の今の任務は、海上からの支援、及びそれを阻止しようする敵船の殲滅だった。
だが、出雲や吉備の国々なら兎も角、九州には今のところ邪馬壹国の脅威になる海軍はいない。
至って楽な任務だった。
あの戦で都萬彦と言い争って三ヶ月。
今のところあいつは、俺を以前と変わらない待遇で使っている。
都萬彦は、俺が日御子のために、自身の側から離れられないと思っているのか。
俺一人が立ち上がったところで、何もできないと考えているのか。
あるいはその両方か。
都萬彦は変わらず、邪馬壹国において唯一絶対の軍権を握っている。
穂北彦でさえ、自由に軍を動かすことができない。
支配者として、都萬彦には確かに光るものがある。
それは認めよう。
このまま行けばいずれ本当に、都萬彦はこの九州の統一を果たすだろう。
だけど、そのために流れる涙と血の量は、到底俺には受け入れられるものではなかった。
王都に戻るのは久しぶりだ。
一ツ瀬川には所々に薄い氷が張っている。
王都でありながら、今ここに都萬彦はいない。
住民の数も減っている。
現在、都萬彦は軍を出動させ、現在は奴国との国境線で戦っている。
王弟の穂北彦は南の投馬国に当たる。
唯一邪馬壹国側についたままの不弥国も、兵を出して都萬彦の支援をしていた。
現状は小競り合いの段階だが、戦いが激化するのは時間の問題だろう。
王都は都萬彦の子飼いの延臣たちが、その留守を預かっている。
もの寂しはあるが、外の混乱が嘘のように、ここは平和そのものだった。
自分の家に入る。
家の中は海鮮や、茹でた米の匂いが漂っていた。
「お帰りなさい」
母さんは、まるで昨日も帰ってきたかのような顔で言った。
背筋がふっと緩むのが自分でもわかった。
特別じゃない、特別。
俺には母さんのその態度が、何よりも嬉しかった。
「すぐ食事の用意ができるから。そこで待ってて」
言われるまま、居室に腰を降ろす。
炊事場で料理をよそう母さんの姿を、じっと見つめる。
なぜ、俺の分が有るのだろう。
俺が帰ったのを、誰かから聞いたのだろうか。
でも、俺は真っ直ぐここまで来た。
そこまで早く、食事の用意はできないはずだ。
そこまで考えて、俺は思い至った。
毎日、俺の分まで用意してくれていたんだ。
俺が、いつ帰ってきてもいいように。
腹を空かした息子に、いつでも食事をとらせてやれるように。
食膳が目の前に並べられた。
母さんと向かい合い、口に頬張る。
「うまい。うまいよ、母さん……」
夢中で次々と口に運ぶ。
そんな俺を、母さんは静かに微笑みながら見つめていた。
感謝と安心感が、俺の重い気持ちを和らげていく。
「なあ、母さん」
「なに?」
食べ終わった俺は、改めて母さんに話しかけた。
「日御子には、会ってる?」
「ええ。日御子ちゃん、最近はずっと神殿にいるから、時々会いに来てくれてるよ。タケルくんもたまに一緒」
屈託なく母が笑う。
その笑顔が、俺の胸に突き刺さる。
「……母さん、ごめん。多分この先、もう日御子には会えなくなる」
空になった器を見下ろしながら告げた。
黙っていることもできた。
でも、日御子はこの人を母と慕い、母さんも、彼女に対して我が子のように接していた。
俺と日御子とは別の形で、母さんにも日御子との確かな絆があった。
これから俺がする行いの前に、この人には伝えておきたかった。
「そっか」
一言だけ、母さんが呟いた。
そっと、その顔を見る。
ただ、穏やかに微笑んでいた。
「何も、聞かないの?」
「うん。日御子ちゃんは、本来私なんかが平気で会えるような子じゃないから」
母さんが、器を静かに重ねる。
「それなのに、あの子は私と、母娘でいてくれた。何年も。それだけで、十分過ぎるくらいだよ……」
伏せた目は、遠くを見つめているようだった。
母さんは今、日御子と一緒にいた日々を反芻しているのかもしれない。
「ただね、日御子ちゃんには、もっと日御子ちゃんのままでいさせてあげたかった」
母さん……。この人は分かっているんだ。
俺が日御子に何をさせようとしているのか。
日御子が、何になってしまうのか。
「坊や」
「なに、母さん」
「あなたは、日御子ちゃんの傍にいてあげて。日御子ちゃん、ああ見えて寂しがり屋だから」
くすりと、母さんが笑ってみせた。
昔のまま、無垢な少女のような笑顔。
けどそれと同時に、母としての愛が滲んでいる。
「この人生は全て日御子と、彼女の大切な人たちに捧げる。全力で彼女を支え続ける。それだけは、約束する」
くすりと、母さんが笑ってみせた。
昔のまま、無垢な少女のような笑顔。
けどそれと同時に、母としての愛が滲んでいる。
「この人生は全て日御子と、彼女の大切な人たちに捧げる。全力で彼女を支え続ける。それだけは、約束する」
それが、今の俺に言える精一杯だった。
母さんはちょっとだけ、悲しそうな顔をした。
「よし、じゃあ約束ね。言っとくけどね、持衰様は絶対に約束を破らないんだからね」
母さんが俺の鼻先を指さす。
「持衰様は、小さかった母さんたちを、無事に漢まで運んでくれた。そして、また倭国に帰ろうっていう約束も、死んじゃっても果たしてくれた」
その言葉は誇らしげでも、懐かしんでいるようでもあった。
「あなたはその持衰様の生まれ変わり。だから今の約束、絶対に忘れないで。日御子ちゃんのこと、一生かけて守るんだよ」
白い歯を見せて笑う。
太陽みたいな、無邪気な笑顔。
まったく母さんは。いや、この子は、昔から変わらない。
「ああ、任せてくれ」
片膝をついて彼女に近づき、そっと頭に触れる。
息子としてではなく、幼い彼女が憧れた、前世の持衰として。
「え、えっ……?持衰、さま……?」
頬を真っ赤に染め、驚いた顔で俺を見つめる。
その反応が愛らしくて、自然と笑顔になる。
「ありがとう、母さん。ご馳走さまでした」
そう言って立ち上がった。
母さんは軽く頭を押さえながら、嬉しさと驚きの混じった顔で、俺のことを見送ってくれた。




